放課後の学校は火を灯した蝋燭みたいにダレて、ちょいとした不注意で火傷してしまいそうなほどの熱気も漂っている。教師が絶対正義の授業時間とは違って、部活動は生徒の時間だ。

 最近じゃあ部活動に熱くなる顧問のほうが稀少で、うちの吹奏楽部は強豪校として数えられたことなどない、言っちゃえばかさましのコーンフレークみたいなもんだし、主役のバニラアイスなりフルーツなりの強豪校を引き立てるための脇役で、あんまり演目に挟まれ過ぎると「もういいな」って飽きられるようなレベルの代物。部員を奮い立たせようとする顧問でもないわけだし、流行りのアニメのオープニング曲を奏でることばかりに熱中するような、ゆるめの活動をしている。

 それでも、なんの目標も掲げないままに毎日みんなで楽器をぷーこら奏でるのは正気の沙汰ではないので、一応、一か月くらい先に控える秋期のコンクール予選を見据えて各パートを練習してはいる。

 フルート奏者はこんなにいるんだし、バックレたい衝動に駆られたりもするんだけど、私には結局、コンクール予選の会場で〝なーんで吹奏楽部に入部しちゃったんだろ〟と、心中で嘆いている未来しか思い描けない。

 私はそもそも、否応なしに自分の肌を衆目に晒さなければならないイベントが大の大大嫌いだった。アナウンスで読み上げられる名前のことも相まっている。斎藤綺麗さんで一ざわめき、ご本人登場でむしろシーン……まったく、私を苦しめる悩みの種はごまんとある。

 それでも、帰宅部への入部届を取り下げて(あまりにも皮肉っぽい)吹奏楽部に入部したのは、楓が「どこの部活動にも入らないのは綺麗らしくないでしょ」と押し切ったからだ。なにを考えているのか分からない物憂げな文学少女は、自分がそんな風に仕立て上げたくせ、楓の理想の友達親子にはそぐわないんだろう。

 私は〝一生懸命に勝利をもぎ取ろうとすることはダサい〟みたいな仮想現実の逆張りムードに侵食され中と言えども、吹奏楽部員の面々に中だるみの持続を期待し切ってはいない。彼らは──もちろん私も含めてだけど、結局は闘争本能の盛んな思春期の十代だ。天性のなごみ体質の部長が一度ひとたび、熱苦しい方向にリーダーシップを発揮すれば、みんなはそちらに流れていくはずだし、それを堰き止めるだけの人望を私は持ち合わせていない。

 んでも、有難いことにまだゆるゆるの中だるみが持続している部活動の最中……過ぎた後で思い返してみれば、その日はトータルで、不幸体質の私からしても指折り数えられるほどの厄日だった──んだけど、その時はまだそんなこと知る由もないわけで。

 仮に宇宙人が偵察してたら〝ここには出すだけではなくてエネルギーを入れる用途もあるのかもしれない〟と誤解しそうな頻度で行ったり来たりしている、ただし精神力を消耗するだけっぽい女子トイレの鏡の前で、私は巨人の歯みたいなポーチをかさこそと手探っているホルン奏者の同級生に付き添っていた。

「生レバーみたいなのが出るんだよ。いちいち替えたりするの面倒だもん」

「ああ、そうなんだ」

 興味は一切ない。それでも、本心を露骨に態度に出してしまえば、損になりこそすれ得にはならない。

「始まるのなんて遅ければ遅いほどいいよ。これから何十年間も、月のうち一週間は出血しっぱなしなんだよっ? あたしなんて貧血持ちだからさ、余計に大変だよ」

「大変だね」

「女は大変だよ。斎藤ちゃんも近いうちに、他人事じゃいられなくなるよ」

「ふーん……嫌だな、そういうの。なんかさ、どれだけ頭では拒絶してても、生命のサイクルからは逃れられない感じがしない?」

「なにそれ。あたしが嫌なのは貧血でさ──」

 そうだった──と、たぶん大して出来がいいわけでもない愛想笑いを貼り付けつつ、この子は布教の網目をすり抜けたんだった、と、自分のうっかりを戒める。

 私はだいたい四年前に楓の逆鱗に触れて以来、その人の感情の起伏を敏感にキャッチできるようになった、というよりも、キャッチできるようにした。そんな才能を買われて、私はアンナタにさほどの抵抗感を示さない子達を布教する使命を授けられたのだ。

 声優はいまじゃ動画配信者を優に超すほど人気の職業だし、大人たちがナイーブだの受け身だのと知った風に分析するのも分かるかな? って具合に令和チルドレンは出たとこ勝負を、たとえば着けっぱなしのマスクを外した時に口笛で囃し立てられた記憶がいちいちフラッシュバックするように億劫がっていて、相手に引かれないのはもちろんのこと、相手に好かれる喘ぎ声の出し方をリスクなしで練習できるし、と、大体これらの二本柱を理由にして、周囲の同志たちは色電話を使用しがちだ。

 軽薄……そう思わざるを得ないんだけどまあそれも仕方ないか、と許せるくらいには、私は私の不幸を特別視している。とびきり早めに誕生を憂いた私は、数ある同志たちの中でもとびきりアンナタに思い入れがあるようだ。

 私は最近あぶれ者になったばかりの貧血少女に連れ添って、女子トイレを出た。自分の事ばかりを喋る癖が煙たがられだしたのだ。私たちもう中二だし、なにを今更と感じてしまった私は、さして仲良くもないのに兎角馴れ馴れしい貧血少女を突っぱねるための憎悪を駆り立てる気力もなくて、なあなあにコミュニケーションを受け流している。

 斎藤ちゃんは優しいね──私は本当にこの言葉を掛けられるのが嫌なので、そろそろ拒絶の姿勢を示そうと思いだしてはいるのだけれど。

 部員と顔を合わせるのが気まずいとかで、わざわざ階を二つも跨いだ女子トイレから音楽室までの道のりを結構進んだところで、大袈裟な声にビックリさせられた。

「ポーチを女子トイレに忘れた!」からの、躊躇なき「行ってらっしゃい」

 彼女は見当違いの怒りに頬を染めていたけれど、私は少しも狼狽えずに、これは別離のための布石になったんではないかと満足げだった。

 すっきりした足音に気力を奮わされているところで、背後にした階段の方から、じつに不穏な衝撃がビリビリと廊下を伝ってきた。……次いで、呻き声。

 うわー、と渋い顔をしながら、どうしようか迷って……私は踵を返して、そうっと歩いた。だって、どうやら階段から転げ落ちたらしいその人は、自力で立ち上がれる感じじゃない。

 ひょっこりと、廊下の角から顔を出したところで──目に入ったのは地べたにのびているスーツ姿の──ようは男性教諭の丸まった背中、と、一つ上の踊り場で逆光になっている誰かさんの立ち姿だった。随分と背高なシルエットなんで、一瞬、都市伝説のスレンダーマンを想起した。

 私たちは野良猫と通行人みたいにびた止まりしていた。

 先に口を開いたのはスレンダーマンのほうで、私はといえば自分でもなにを考えているのか分からないんだけど、大人しく、その場で耳を傾けていた。

「俺がやったんだ」

「……突き飛ばしたの?」

 スレンダーマンはぬるめのコーヒーみたいな、苦々しくて、そのくせやけに円やかな声で言った。

「そいつ、悪い奴なんだ。誰かがやらなきゃ、俺の好きな人間が消えてしまうだろ」

 私は返事をしないまま、足元にのびている邪魔っけな肉体を見下ろした。心臓がドキドキと脈打っていた。仰向けになった男性教諭の口は熟れ切った果実みたいに赤い血を溢れさせていて、よくよく見れば、前歯が欠けていた。

 私は、生まれてこのかたってくらいにわくわくしていたし、マスクを着けていてよかったと心底思った。なにかしらの救援を乞うような目と視線を交わしている私の口元は、とても楽しげに笑んでいたからだ。

 私は息継ぎももどかしく、言った。

「死んでないからさ、フツーに怒られちゃうよ。あなた、名前はなんて?」

 ──男は痛みに弱いんだよ。最近発足している妊婦礼賛ムーブメントの話題が公共の電波から流れてくる度に呟かれる楓の言葉が脳内でリフレインするほど、恐らくは本当に悪い奴なんだろう男性教諭は、痛みに妨害されるせいで言葉にならない呻き声を漏らし続けていた。

 スレンダーマンは、くつっ、と笑った。

 あ──と思ったのも束の間、彼は颯爽と犯行現場から姿をくらました。

 私は聞き覚えのある上昇の足音を呪いつつ、一生懸命、今後の休職は固いだろう男性教諭を心配している風を装った。

 案の定、スカートのポケットを膨らませた貧血少女が現場の状況を見て、ぎゃあぎゃあと大袈裟に騒ぎ立てる。

「わー! どうしたの、これー!」

「ああ、なんか……転んじゃったみたい」

 その後は騒ぎを聞きつけた他の生徒が本当に心配している風な教師陣を呼んできて、猟銃で撃たれた猪さながらな怪我人は、担架でえっさほいさと、若干辱めの行進で去っていった。

 まったく、被害者がその場にいる状況で犯人の名前を聞き出そうとするなんて阿呆の極みだ。だけど、咄嗟にそんな考えも浮かばないほど私の心が浮足立っていたんだと解釈することもできる。

 死んでしまってもいいと思っていたのかな──気の抜けるような楽器の調律音が響く音楽室で、私はここぞとばかりにゴシップ好きの部員たちの注目を集めようとしている滑稽なあぶれ者を視界の端に捉えつつ、じっと口を噤んで胸の高鳴りを堪能していた。


 その日の帰りだ。

 家へ帰ってすぐ、下腹部の違和感をさとりながらトイレへ入ると、洒落っ気のないパンツは経血を吸い込んで重たくなっていた。

 いやだいやだ、と、狼狽の泥沼に嵌まった。生まれてこなければよかったと考えている私が、生命のサイクルに組み込まれる。どうしてよ、私の子宮はプラスチック製だったはずなのに……トイレの壁に背をもたせかけながら、ずりずりと、次第に笑けてきてしまった。胸の高鳴りはまだ続いていたけれど、それもどうせ、慣れない痛みと慣れたもんな悲哀に侵食される。

 突き飛ばされた悪い奴の口から溢れる血……私のものなのに勝手に身体を流れ出る血、私に受け継がれた血……ぽたぽたと手首を垂れていく、血! 血! ……血! 頭の中に浮かぶのは、血のことばかりだ。

 私は不良品のラブドールみたいにへたり込んで、真剣に、私の消滅を切望する。私がこんな目に遭っていることを誰も知らない世界に存在する価値あるんだろうか。あるんだろう。それが分かる私だから、こんな目に遭っている。──逆光のシルエットが不意にフラッシュバックして、目の前の経血を映している網膜に涙の膜を張った。

 私はひとまず、なんの意図があってかトイレや洗面所に生理用品を貯蔵していない楓にバレないように、なけなしのお金を入れた財布を携えて、近所のドラッグストアへ向かった。欲しくもないものを買ったのはこれが初めてだ。家のトイレで、せっかく取り替えたばかりのパンツに赤い点が付いているのに舌打ちする。

 私は購入した生理用品を自室の衣装ケースの奥に仕舞い込んで、手洗いしたパンツをレースカーテンと暑い布カーテンの隙間に干した。証拠隠滅は万全のはずだ。いつかはバレることなんだけど、気丈に振る舞える余裕がない状態でバレてしまうのは避けたかった。

 私は本気で落ち込んでいて『ダイ・ハード/ラスト・デイ』が大音量で垂れ流される部屋のベッドに腰掛けながら、これまでの生命の営みを冒涜するかのような台詞を読み上げる、生産性の無い疑似性行為に没入した。

 やがて、軟膏を塗った身体とボサボサ頭を映しやがる姿見にタオルを掛けたところで、玄関ドアの開く音がした。楓と顔を合わせるのは御免被りたい心境だったので、私は掛け布団の上に倒れ込み、うっかり寝落ちのフリを決め込む。……そのまま眠りに落ちちゃったのは私の意図したところではない。きっと、泣いたせいだ。

 目覚めた時、夜の十時を少し回ったところで壁掛け時計の秒針はカチコチと律儀に音を鳴らしていた。

 私は猛烈な喉の渇きに促されるまま、マツコ・デラックスの声が閉ざされたドア越しにくぐもって聞こえるリビングへと素知らぬ顔で入室する。

 台所のシンクでコップに水を注いでいた時、食器棚の足元に明日捨てに行くぶんの燃えるゴミがまとめられてあるのに気づいた。斎藤家の家事は──といっても食事なんかはもっぱら冷凍食品のお粗末なもんだけど──出張続きの父親を除外した分担制になっている。今週のゴミ集めは楓の担当だったよな、あっぶねー、と、人心地付いたところで、楓は台所のカウンター越しに心臓を止めるような問いかけを寄こしてきた。

「汚れたパンツはどうしたの?」

「……なに?」

「なにって、生理来たんでしょ? トイレのゴミ箱に違うナプキンの包み紙があったよ」

 ──しくった。

 私は飲みかけの水を無為に捨てた後で眉根を寄せる。なにが万全……こういうとこ、傍からしたら似てるとか思われるのかな。自分ではミスを犯してないつもりでも、重大なとこでしくってるとこ。……ああ、嫌だなあ。なにが嫌って、その訊き方だ。

 初潮が来た事実を確認するよりも、事実を隠蔽しようとした私を咎めるような訊き方……考え過ぎ? いやはや。こういうのに敏感なの、私が文学少女だからかな──コップをぶん投げたい衝動を、握る手に力を籠めて我慢する。割れろ。割れろ。血、血、血、血……! ……まったく、損な人間に仕立て上げられたもんだよなあ。

 子宮がプラスチック製だったらよかった。私は静かにコップを置いて、言葉もなく、立ち尽くした。さながら、弾丸を浴びる兵士の気持ちだ。

「恥ずかしがることなんてないのに。なんでよ? なんで楓に言おうとしないの。この際だから訊くけど、綺麗って学校でどーなのよ。まさか孤立してるってことはないだろうけど、斎藤ちゃん呼びって、綺麗が友達にそう呼んでって頼んでることなんでしょ?」

「はい」だろうが「いいえ」だろうが関係ない。知っている。私がどう思っているかなんて関係ない事柄が、この世界には山程ある。

 未知のウイルスもそう、新性能搭載のミサイルもそう……どうせ破滅に向かうんでも、せめて、私たちがそうしたってことにするんだ。それもなるべく、痛みの少ないやり方で。優しくて、甘ぁいやり方で。じゃないと、命が虚し過ぎる。

「黙ってるだけじゃ分からないよ」

 不意にまた──悪い奴を死なせるつもりで突き飛ばした、誰かさんのシルエットが脳裏に浮かんだ。浮かんだ途端に、堪らなくなった。

 私は鼻の奥に込み上げる痛みをごまかすように、大きな声で言ってしまった。

「私が黙ってるのは、おか、お母さんのためなのに」

 数年ぶりの母親扱いが理解できないみたいに両の目を見開いた楓と、永遠とも思えるような時間、私はブレそうな視線をぶつけていた。

 陳腐な比喩みたいな錯覚を醒ましたのはテレビ画面に放映される新種のギャルの『ウチの彼氏マジモンのクズなんですよー!』で──マジで知らねえよ、とっとと別れろよクズ、と心底思う。

「私がアトピー出たの、いつだっけ? 確か、生後四か月の頃だったよね」

 ──頑張れ、頑張れ、と心の中で唱え続ける。こういう時、つまりは対話を試む時に感情をぶつけ過ぎてはいけないのだ。話の流れで意表を突いて、相手に待ちの姿勢を取らせる。……だけど、本当にこれでいいのかどうかも判断つかずに本心を吐露している時点で、もう充分、私は億劫なほどに感情的だ。

「私がどう思ってるか、とか、関係ない。だって私は、その頃まで『綺麗』じゃなかった。……他の名前が、」

「──ふざけないで!」

 刹那。

 鼓膜をつんざくような絶叫が、リモコンと一緒に飛んできた。楓はまた、近くの床に落ちていたハンガーを手に持って、躊躇なき振りかぶりで投げつけてくる。

「ふざけるなっ、ふざけるな! ふざけるな! 悲劇のヒロインぶるのはやめて!」

 ふざける? 悲劇のヒロインぶる? ──どっちが。ねえ、どっちがだ。だけど、私はそういうの思うだけで言えない。もう、諦めがついているから。

 言わなきゃよかった。なにも言わずに、閉じればよかった。

 私は額に青筋立てて激昂している楓を前にして、とても冷静になっていた。で、楓にも冷静になってほしいので、一旦、激昂の元凶である私は姿をくらませることにした。

 そうこうしようとしている間にも投擲と騒音は止まなかったし、私は努力の賜物とかじゃなく表面上は平然としていたんだけれど、心にダメージは負っていた。まるで本物のサイボーグになったみたいだ。私は人間らしい感情を表明することをしないまま、ほとんど手ぶらで外に出た。

 夜も深い近所の通りには、嫌な思い出がある。

 私は〝どうしたもんかな〟と思い続けながら、ロングコートの前を交差させ、惨めな猫背でただ歩いた。そういえば、あの時も同じようなことを思っていた気がする。ただし、ただ彷徨っている今の状況と違うのは、明確な探し物があったこと──お母さんを探していたことだ。いまはもうそんな人いないと分かっているし、家出しているのは私のほうだ。

 ──四年前。十歳だった私は、家出したお母さんを探しに、夜も深い近所の通りをうろついていた。

 事の発端は悲惨だ。その頃の私には、低学年を引率する上級生として成し遂げた小学校の遠足行事の影響で、お世話願望が芽生えていた。言ってしまえば、妹なり弟なりが欲しいと、生命誕生の過程をつぶさには知らない無垢さで訴えていた。そんな折だ。

「お姉ちゃんなら、いたんだけどね」

 私には、わけが分からなかった。それも当然だ。生命誕生の過程、つまりは妊娠の成り行きを知らない子供が、流産のリスクに思い至るわけがない。

 それで……よほど、よほど悲劇のヒロインぶったような面持ちで、存在しない姉の存在を語るお母さんに、幼かった私は詰め寄った。ふざけている。そう感じた。こっちは、いますぐにでも妹や弟が欲しいのに!

 詰めて詰めて、詰め寄って、いずれ来たる反動を知らずに「なんで」を言い放った私の目の前で、お母さんは手首を切った。

 ぽたぽた、と、白い肌を伝って垂れる血──あの時だったのかあ、と、私はぼんやりした頭で歩を進める。

「これは、あなたがつけた傷」

 震える私をおどかすように、楓は私の頬を両手で挟んだ。

「あなたの名前は、ミライだったの。綺麗はね、生まれてくることができなかったお姉ちゃんのぶんまで、いい子に生きなきゃいけないんだよ」

 ──駅のホームに行き交う人々の足は、どれもみんな忙しそうだ。生き急ぐどころじゃない私のほうが全然ゆったりしていることが、なんだかいやに可笑しく感じられる。

 私の人生の分岐点は、あの時だったんだな。──警鐘のような胸の高鳴りに合わせて、口から溢れる血の残像が脳裏に色濃く浮かび上がる。……同じ血でも、えらい違いだ。いや、私と楓の血はそんなに変わりないようなんだけど──悪い奴を突き飛ばした少年──出方が、違い過ぎる。

 楓に自傷を見せつけられた時、私は、自分に向けることを覚えてしまった。あるいは、この身に受け継がれた血に楓の性質が織り込み済みだったのか……どっちにしろ悲惨な話だ。そして、この後に展開するのは、もっと悲惨な話。

 ロングコートのポケットに入れられるぶんの荷物しか持ってないし、駅前のファミマのゴミ箱へ家の鍵を投げ捨てちゃったことだし、いまはスマートフォンしか手持ちがない。行きのぶんだけでいいんでー、の念を込めてピッとした手帳型スマホケースのPASMOで無事に改札を通り抜けて、私は三分後の急行を黄色い点字ブロックの内側で待つ。

 こんなものなのかしら、と思う。こんなものなんだろうな、と思い直す。

 アンナタは、たぶん、私と世界とを繋ぐ命綱だった。あれやこれやを自分に向けてしまう私──〝内気かつ傷つきやすく受動的〟かぁ……──が生きられたのは、曲がりなりにも、私の性質が素質になる色電話のためで、しかし、生命のサイクルに組み込まれていることを思い知らされてしまった今となっては、それももう、私の生きる動機にならない。

 あー、私は誰として生きればよかったんだろうな……聞き慣れたアナウンスを必死な気持ちで聞き流しながら、これまでに出会った人たちの名前を回想してみる。あの人たち全員に私の訃報が行き渡ったとして、私の物語は誰にも知られないままだ。それは、悲しいことなんだろうな。悲しくてもどうでもよくなるんだ。

 ──危ないですので、黄色い点字ブロックの内側に、お下がりください……。

 私は線路の遠くの方に動いている、ずいぶんと鈍いような電車に焦点を合わせて……さよならのスキップの一歩目を踏み出し──最期に、私自身にも予想づかなかった言葉を言い残した。

「ごめんね、ミライ」

 ──プア――――――ッ! ッガタンコトン、ガタンコトン、ガタンコトン、ガタンコトン…………世界の音は、まだ続いている!

 私は呆然と、電車の扉から零れるように降りてはまた乗り込んでいく人々の群れを見つめている。

 どうやら飛び込み自殺に失敗したらしいと我に返ったのはその時で、私を引き留めた痛みの元を辿ると、そこには私の腕を鷲掴む手が、更に振り向けば、見知らぬ少年の気遣うような眼差しがあった。

「勿体無いことすんなよ」

 外見と違って、その声には憶えがある。

 私は、へなへなと脱力して、背高の少年に片腕を引っ張り上げられたまま、制御できない動悸に犬みたいな呼吸をした。

「あんたが死んだら、未来が困るの?」

 迷惑そうな視線の数々を向けられている中で、背高の少年は私の遺言を面白がるように問うてきた。腕を鷲掴んでいる手に頼りきりのまま、私は息継ぎもままならずに、切れ切れ告げる。

「そういうんじゃ、ない。ミライは、名前」

「名前? あんた、未来っていうの。ふうん。それで自分から未来を捨てるってんじゃ皮肉なもんだね。あのさ、俺の犯行現場を目撃しちゃった人でしょ」

「……やっぱり、君か」

 悪い奴を死なせるつもりで突き飛ばした少年──背高のシルエットを形作っていた逆光が取り払われた目の前の少年の眼差しには、歳不相応な魂の片鱗がアンビバレントな声同様に感じられる。

「確か、気にしてたよね。俺の名前は──」

 私はそれを聞いて、くつっ、と笑った。

 なるほど。尋ねた時に笑われたのは、てっきり、被害者の耳に入るところで名前を白状するわけないだろ、の嘲笑なんだと思っていたけれど、なかなかどうして、綺麗にも負けず劣らずな名前だ。由来を知りたいとこだけど、たぶん本人も尋ねられ飽きてることだろうし、私は一旦、荒い呼吸のみに集中する。

 すると、同じ穴の狢らしい少年は意外そうに口をついた。

「あれれ。茶化されないとは思わなかった」

 人身事故で運休する予定だった急行電車は、平穏無事にそのまま行った。体に力が入らないことと言い、まるでこれまでに構築してきた〝私〟が流れ出てしまったみたいだ。

 過ぎ去る電車を真っ新な気持ちで見送りながら、偶然、私の後ろに立っていたんだとしても先程の電車を待っていたことは必然であるはずの少年に、私は、今の状況下においてはちょっとズレたようなことを聞いた。

「……電車、行っちゃったよ」

「ああ、いいよ。また次のに乗ればいいさ」

 次。

「私は、疲れた」

 また勝手に、お口が喋った。この少年といるとダメだ──私は本能でそれを察する。必死に隠蔽していたはずの本心を吐露してしまったのだって、この少年に仕立て上げられた血生臭い状況がフラッシュバックしたせいだ。

 それでも、私は生命の温みをうつしてくる手を振り解けない。どうせいつかは悲しい思い出になるのに……つと、反芻する。

「勿体無いことすんなよ、って?」

「ああ、やっぱそういうとこ引っかかるんだ。憤る気力があるんなら余計に勿体無いよ。あのね、俺ってば学校行けなくなるの。友達も別れを惜しんでくれたけど、アイツらは結局、上手いこと生きていくわけなんだよ。そういうの、うんざりする。俺達みたいな連中は、どこまでも孤独なんだって」

「俺、達?」

 またもや引っかかった私に、少年は悪魔の悪ふざけみたいに告げた。

「そうだよ。未来だって、自由に踊っていたいだけなんだろ。どうだい、ここで再会したのも何かの縁だし、この世界に反逆してみないか? 俺が、飛び込み自殺よりも楽しくて迷惑が掛かる方法を……正しい反逆の仕方を教えてあげるよ」

 途端に、胸の高鳴りが甦った。空っぽになってしまった私は誰にでもなれる気がして──それは『綺麗』でもなければ『ミライ』でもない。

「私…………私のことは、ビザールって呼んで。人から付けられた名前は、嫌なの」

 あなたは自分事のように納得した後で、私を外に連れ出していった──そうして、世界中の誰に紐解かれるわけでもない物語は、人知れずして、続いてしまう。


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