一時限目が解放のチャイムと共に終了した。ずっと独りでムカムカの引き継ぎ作業をし続けていたら、あっという間に午後の授業も終わった。そんな感じだ、今日は。

 吹奏楽部の活動も休みなことだし、このままソッコーで家に帰ってHMDヘッドマウントディスプレイを装着できればいいのに、生憎、月イチの通院日の予約時間が控えている。そもそも、吹奏楽部の活動は諸事情で、つまりはこれを理由に、私と、顧問に宛てられた楓の手紙の効力が休みにしたのだ。

 ──高飛車なお嬢様のよがり方の正解は? そんな話題で帰宅部員の同志たちと会話しつつ、私は校門の手前で楓の車の到着を待っていた。本当はクラスメイトの前でお迎えの車に乗り込むなんて嫌だけど、路駐以外の駐車が苦手な楓は、中学校に近いコンビニで落ち合おうという私の要求を呑まなかった。

 つくづく、楓だ。私がハッキリと理由を伝えられなかったせいでもあるんだけど、それは突き詰めれば楓が悪いとなっちゃうことだし、世の中の母親は子どもに関するあれやこれやを突き詰めないと気が済まないそうだし……結局さ、隠蔽するしかないんだよ。

「──ビザールももー美輪明宏みたいな感じになっちゃったしなー。斎藤ちゃん、いいなー。話せたことあるんでしょ? 羨ましー」

「間延びした喋り方はアホっぽく聞こえるよ。美輪明宏みたいな感じって?」

「ほんとにいるのか分からないみたいなさー。遠い存在になっちゃったよねってこと。あと、間延びってどういう意味?」

 どうにも噛み合わないやり取りの直後、ワインレッドのトヨタ車が中学校の敷地のぐるりを囲う塀とあわやのところで停まった。

 ──綺麗ー! 

 ……だから嫌だったんだよと心の内で嘆きながら、私は半端に開かれた車窓の隙間から飛んでくる呼びかけを止めにいく。

「じゃあねー、ちゃん」

 普段は聞き馴染んでいるはずの呼び方がいやに皮肉っぽく聴こえたのは、ニヒリスト由来のアンテナが張られているせいだろう。きっと。

 私の名前は、綺麗という。誤解されがちなんだけど、これはなにも名づけ親である楓がよほど自分の容姿に自信がある考えナシだったから、じゃなくて、赤ちゃんの頃に皮膚炎を発症した娘がたった一つの揺るぎない真実を忘れないように、ってことで、そういうの、当事者以外には美談なんだろうけど、さあこれから皮膚科に行きますよの道中で「綺麗」を連呼されていると、当事者としてはさ、次第に、あんまりじゃない? って気持ちにもなってくる。

 しかも、いまは「斎藤ちゃん」呼びの件について詰められている最中だ。気分はますますげんなりする。もしもクラスメイトや吹奏楽部員に楓呼びをキャッチされたら同じように詰められるんだろうな──あの女の人、斎藤ちゃんのお母さんだよね? どうして名前で呼ばされてるの?──とか考えながら、私は嫌味にならないように、さながら落ち葉を運搬する穏やかな川の流れのごとく、波風立てずに楓の追及をかわしている。

「斎藤ちゃん、って呼ばれてるの?」

「あの子にはね」

「そうなの? みずきーとかふゆかーとか、いっつも話してる子たちは?」

「フツーに、名前で呼ばれてる。さっきの子はシャイで、あんまり仲良くもないし」

「ああー、なんだかあの子、綺麗には合わなさそうだったもんな」

「……そんなパッと見で、相性分かるの」

 ぼそっと呟いた一言は、信号待ちの空き時間にもかかわらずスルーされるのがオチ。ま、仲良くもないとその場しのぎの嘘をついた時点で、楓の押しつけに気分を害する資格なんかないのかもだけど。

 もっと明るく、分かりやすいキャラクターを演じなくちゃ。そうでないと『楓の理想の親子像』には応えられない。さすがに見捨てられるってことはないだろうけど、こうも『綺麗』のロールプレイングが上達しているのは、母親に愛されちゃったりしたいからなんだろうな、そう考えると泣けてくる。ヨヨヨ……嘘、ほんとは泣いてなんかないんだけど。

 でも、悲痛な気持ちにはなる。だって、私が頑張れば頑張るほど、二人は友達親子に近づいていって、母娘からは遠ざかっていくのだ。

 楓はたぶん、私に教えられることがないんだと思う。まるで家を空けるときに置いておく余分な餌みたいな感じで幼い私の身の回りに積まれた本、本、本……ほんとう、疑問の答えは自力で読み解けって、たとえ口にはせずとも言われているのと同じだった。

 それでも、心の距離が開くのは嫌なのだ。それが読書の醍醐味でもあるのに、楓は私が秘密を持つことを許そうとしない。お互いに名前で呼び合えば心を開いているとなるんなら、私は楓以外には誰一人として心を開かれていないことになる。

 私は綺麗なんかじゃないよ──そんな風に告げたとき、楓はどうせ身も世も私すらもないように悲しむんだろうなと、想像しただけでムカついた。自分の正しさを信じて疑わない人間はムカムカする。

 ANATAメンバーもビザールも、その点、良い人間だ。私は少女で、しっかりしてなくて、『綺麗』と、今後改名する予定の新しい自分との境界をぐらぐらしている始末だけど、あの人達はそんな私を「愚か」だとか、ましてや「生産性が無い」だなんて下したりはしない。

 私の秘密──本来十八歳以上にのみDLされる色電話をANATAに特別な方法で斡旋してもらっていること、それと、ビザールがくれた「君は、悪い子じゃないよ」の言葉──……なんとしてでも隠蔽し通さなくちゃ。十五歳になった途端に、私は秘密の飛び石をスキップで踏み越えて、そちら側にある私の好きに抱き留められる。


 海を長いこと漂流したおかげで海水が混じった瓶の内側にこびりついた蜂蜜を煮沸したみたいな匂いの、見た目は水の少ない白い絵の具のそれな軟膏をベッタベタに塗ったくられる診察、っていうか苦行の後で、私は助手席に差し伸べられる楓の労りの掌に思わず擦り寄りそうになりつつ、秘密に溢れた仮想現実がスリープしている自宅に帰り着いた。

 つんつるぺたんなボディーが露わになった姿見の自分をチェックするのもそこそこに、私はキティーちゃんと、やたらめったらに乱獲されたリンゴが散りばめられたルームウェア──ちなみに、楓とお揃いだ──にささっと着替える。

 消しカスやシャー芯なんかの形跡が一切ない勉強机に飾られた電気スタンドの足元で妖しい触手みたいな充電コードを伸ばしているHMDを手に取って、ログインパスコードを虹彩認証ですっ飛ばし、ぐるぐる、ぐるぐる……しばらくお待ちください……

 瞼を開けた私の視界には、もう一つの現実が展開している。

 私はANATAメンバーが予め作成したアカウントに──始めたての頃はいちいちパスワードを見返しながらだったけれど、いまならば不意に暗唱できるほど使いこなれている──ログインする。

<他の端末からログインされました>の通知が色電話をDL済みの他端末に送られるだろうし、通常であれば「不正ログインだ!」と慌てられたりするとこなんだろうけれど、私たちが色電話へログインする際のルートで言えば、むしろこっちのほうが正規なのだ。

 オリジナルの肉体でベッドに腰掛けている、仮想が付かない現実の部屋ではテレビ画面に放映されるアクション映画の大音量が反響しているはずだ。よくは知らんけれど、仮想現実との連動を前提にして開発された近頃のボイスチャットアプリにはユーザー本人の声以外の環境音を自動的に排除してくれる機能が備わっている。

 結局は一階でもトークバラエティ番組の大音量と楓の笑い声とが反響していることだろうし、ドアの隙間には防音テープが貼り付けられているしで、あんまし神経質になる必要はないのかもだけど、私は色電話を使用する際には毎度、大規模な予算でドンパチ劇場を繰り広げてくれる海外のアクション映画を垂れ流すことにしている。『ダイ・ハード/ラスト・デイ』は、いまのところ通算十分もまともに視聴したことがないのだけれど、ほとんどエブリデイの使用頻度を九十分超のフル尺で使い込んでいる。

 ちなみに、仮想現実のアバターと身体感覚を同期させられるほどのテクノロジーはまだ運用されていない。私たちはなんにも感じていないままに、言っちゃえばただのゲーム感覚で目の前に表示される接触範囲やらピストンの間隔やらを参考にあんあん演じているだけに過ぎないのだ。

「え、そんなのって虚しくない?」と言ってのけちゃう感覚のほうが世間知らずとして扱われるような時代──喘ぎ声なんて演技ですよ~、当たり前じゃないですかぁ~……一時期SNS上でフリー素材と化した街頭インタビューの女の子が答えていた通りのことが、いまでは世間一般における性交の常識になりつつある。

 HMD内部で構築された私の視界には、長ーい長ーいホテルの廊下みたいな空間が広がっている、というよりも、伸びている。

 艶やかに照明を反射する黒い壁にはノブの○とノッポの□で簡略化されたドアがずらーっと並んでいて、それぞれの覗き穴に目を向ければ、それぞれが所有するナグサミビトに扮してくれるVAを待ち構えるユーザーがコーディネートした内装やらナグサミビトの服装やらが覗える。

 私は練習も兼ねて、ヴィヴィアン・ポメロを所有するユーザーに招かれた。入室した途端に、私は炎症なんかどこにも見当たらない色白肌の金髪碧眼美少女に変身する。

 モノクロームな色調でまとめられたモダン風の部屋には、多種多様な服装やメイクをも施し可能なナグサミビトと比較するにはあまりにもおざなりなレンダリングが……施された、と形容していいものかどうかも定かではないような剝きたてゆで卵スキンのアバターが、さながらホラーゲームのマップに配置されたマネキンみたいにうろついている。

 私はANATAに色電話を斡旋されている以上、真っ先に壁の装飾を見回して、つと、一枚の写実絵画に目を留めた。……となると、私にはやらねばならぬことがある。普段は余計な会話を挟まずにプレイするのがいいんだけど、致し方無し。

 私扮する、鴉揚羽をイメージしたゴシックドレス姿のヴィヴィアン・ポメロは、写実絵画が飾られてある壁の側まで移動する。その間もずっと、まるで何事かを図るかのような視線が、無機質な裸体のアバター越しにでもそこはかとなく感じられた。

「この海は何色なんでしょ」

 私は問う。

「紫紺だね」

 ユーザーは答える。

「泳いでもいいの?」

「遊泳している人がここに描かれてる」

「きっと、勝気な少女ですね」

 夕闇に沈んだ紫紺の海の写実絵画には、実際、遊泳している人など描かれていない。これは私たちがANATAのシンパであるかどうかを見定めるためのサインなのだ。ANATAメンバーは時々こうして『全人類無意志計画』の進捗具合を確認する。

 私は陰鬱なタッチの写実絵画に目を向けながら、あかるい倦怠に包まれていた。

 ANATAは、人間が誰も生まれてこない世界の実現を真剣に望んでいる。そのために成就させんと企んでいる『全人類無意志計画』の一端が、新世代ヒロインを育成するための疑似性行為体験システムに──つまりは世間一般の言語で変換するところの色電話に──担われている。らしい。新世代ヒロインが具体的にどういう人物像なのかとか、疑似性行為体験システムがそれにどの程度貢献するのか云々かんぬんは、ただの〝新世代ヒロイン〟の卵ちゃんである私には見当もつかない。

 私は自分の下腹部に埋まっているとされる子宮がプラスチック製で、精子の一匹もへばりつけないんじゃないかしらって夢想することがままある。特に、こうして疑似性行為をしているときには。

 私はこの頃、高圧的に振る舞えば振る舞うほどANATAメンバーには悦ばれるんだと気づきだした。なんで、私はANATAメンバーとの遊びが嫌いではない。むしろ私のほうが喜ばしいほどだ。彼ら相手にならばムカつきを存分にぶつけられるなんて。

「女の子には、賢者タイムがないんだ」

「なにそれ?」

 ふしだらな遊びを終えた後で、相手に同調しているせいか、私はあかるい倦怠に包まれているような声色の呟きに問い返した。

「ラブドールの腰を掴んで本当に感じている僕を、君らは下劣な男と思いながら相手にしてるんでしょ。その事実が達した後の悲哀と後悔に拍車をかけるんだ。だけど、リビドーに支配されている状態よりも、デストルドーに包まれている状態のほうが個体としては正しいんだ。僕は賢者になって、世界の真理を認識する……」

 ぶつぶつと、電車だったら別の車両に移動しますねってな様子で呟いているユーザーを置き去りにして、私は♡の評価と無難なレビューとを収穫に意気揚々と退室してった。

 私たちが色電話で得た収益はANATAメンバーが作成したアカウントへ、つまりはANATAの懐に入るらしいけれど、それを元手に、今後、それこそ無差別テロ的な事件を起こされたりしたら、多少なりとも罪悪感が湧き上がるのかしら……私は思考力を食い潰しやがる腹の虫を撃退しに、色電話をログアウトする。

 HMDを取った後は毎度こうなるんだけど──手櫛てぐしでマシになったとはいえ如何せんなボサボサ頭で、案の定、バラエティ番組のガヤが音量25でわっひゃわっひゃと垂れ流されているリビングに降り立った私は、食堂の椅子に足をのっけてる楓を横目に台所へ向かい〝テキトーに食べな〟と、冷凍庫の扉に貼りつけられたメモ用紙に羅列された冷凍食品の品揃えをチェックする。もうずーっと長いこと、食事は一日くたばらずに動けるぶんのカロリーを摂取するためだけの行為だ。

「ねえ、綺麗。ほら、こんなに顔が変わってる」

 私は台所のカウンター越しに投げかけられる楓恒例の整形茶化しにテキトーな受け答えをしつつ、あんまり気分のよくない方向に話の舵が切られたことを察する。

「独り身だって。なのにあんなに着飾って、むなしい気持ちにならないのかね。周りに支え合える人はいるのかしら。ねえ?」

 これも恒例っちゃ恒例なんだけど、私は毎度げんなりする。

「人は独りじゃ生きてけないのにね」

 ……この言葉を、楓は独り身とか交友関係の狭い人に対して行使する。んなら私のことは人と思ってくれなくていいんですけどー。ウィーン、ガッシャンガッシャン。私は生産性の無いサイボーグでありんす。

 私は家庭科担当の女性教諭が食品添加物がどうのと散々戦慄していたコンビニの冷凍スパゲティを平らげた後、まだ現実の解像度に慣れ切っていない目のままで洗面所の鏡と相対して、まことに遺憾な気持ちになった。……これが綺麗とは、母娘でも感性は合いませんね。


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