第56話 雪中登行


~前回までのあらすじ~

 フミル入国のため、ボクらはマーディーシャの雪原を歩いていく。目標は昼までの峠越えだったが、雪に足を取られて思うように進めない。そんな中、峠に雪雲がかかった。進むべきか、退くべきか。


 ***


「イヅルはどう思う?」

 シノ様はまずボクに尋ねた。


 ボクは前方に見える峠をもう一度振り返り見た。

 もう行く道は少なく、帰りの道の方がずっと遠い。


「……今なら、まだ積雪もあまり多くないと思います。通り抜けることも可能でしょう。ただ、もしも通り抜けられなかった場合、かなりの体力を消耗した上で今夜はこの雪原の上で休むことになります」


「今から戻れば日が暮れる前には土の上に戻れそうね。けど……、もう一度この雪を越えてここまで来るのは、厳しいわね」


 シノ様は顔を顰めた。

 正直もうやりたくないって顔だ。


 アズマもイチセも、戻るべき道を振り返ってげんなりした顔をしている。

 体力オバケのアズマでも、慣れない雪の上を歩くのは辛いらしい。


 なら、このまま進んで吹雪の中に突っ込むのか?

 でも、ちょっとのなまけ心で無理に進んで誰かが死んだら目も当てられない。


 いや、まだ季節は冬の入りだ。

 雪がそんなに多く降り積もるとは思えない。

 積もっていても、最悪、短い距離だけなら焼き払って進めるだろう。


 それに吹雪が長く続くとは限らない。

 今は雲がかかっているが、さっきまでは快晴だったのだ、すぐに晴れるかもしれない。


 シノ様は歩きどおしで疲れている上に病み上がりだ。

 アズマもイチセも、慣れない雪道で疲れている。

 もう一度来るのは厳しいと言ったシノ様の言葉の通り、ここで戻れば二度と峠を越えようとは思えないかもしれない。


 でも……。


 それならそれで、いいのかも知れない。

 今度はもっと計画的に、一年後の夏に峠を越えればいい。


 それに、ボクは元々フミルに行くのなんて反対だったんだ。


 一年もあれば、シノ様もフミルに行くことなんて忘れてしまうかもしれない。

 シュベットにはいられないかもしれないが、もっと安全な他の国へ行けばいい。


 天外山脈は南下も西進も阻んでいるし、北も無人の山岳地帯が続く。

 けれど東の国のセンを目指すのであれば、冬の間も旅を続けられることだろう。


 うん、なんだかそれがいい気がしてきた。


 よし、そうしよう!


 ボクが内心ちょっとしめしめという気持ちで撤退を提案しようとした時、あっ、とイチセが声を上げた。


 イチセの指差した先を見れば、人影が一つ、二つ……。

 いや、六つの人影が、ボクらが今朝までいたシュンケルの稜線に見えている。


 それを見た時、さっと胸の奥が冷たくなるような心地がした。ボクに帯飾りをくれた時のセリナさんの顔がふっと脳裏をよぎる。


 あそこには道なんて無い。

 雪原を越えてフミルへ行こうという人は、パーリ谷を通って真北からやってくるはずだ。

 あんな場所にいるってことは、彼らはきっとボクらを尾行してきたに違いなかった。


「……やはり、殺しておくべきでしたか」

 イチセの呟きが雪原に冷たく響いた。


「尾行には気を付けてるつもりだったけど……。あの程度で逃げ切れると思ったのは甘かったか」


「どうするよ。ゴドーのおっさんくらいの使い手が六人って考えると、正直かなり厳しいぜ」

 アズマが眉をしかめると、シノ様はふんっと鼻息を吐いた。


「是非もないってことね。……行きましょう」




 間もなく雪が降りだし、一気に視界が悪くなった。

 雪は肌に触れると水に代わり、蒸発して体温を奪う。

 降り積もった新雪は踏みしめればあっさりと沈んで足をとった。


 なだらかだと思って踏み込んだ場所が実はただの吹き溜まりで、急にずぼりと身体がはまり込んでひやりとすることも何度もあった。

 吹き付ける風は強く、ごうごうと河が流れるような音を立てて山が鳴った。


 降り積もった雪のせいで、安全な足場の確認も難しくなっている。

 もしもこの吹雪にもっと峠から離れた場所で遭っていたら、きっと方向を見失っていたに違いない。

 しかしここまで来れば、吹雪はまだ山陰を見失うほどの激しさではない。


 ボクらだけが辿れる道であるのなら、この天候はむしろボクらの味方と言えた。

 今や追っ手の影は吹雪に隠れて見えなくなっている。

 ということは、追っ手にとってもボクらの居場所は見えないということだ。


 それに加えて、吹雪はボクらと追っ手の間を阻む壁になる。

 きっと彼らはトモン峠を越えてここまで、夜の間も歩き通して追って来たはずだ。疲労した彼らには、この吹雪を越えて雪原の上を追ってくることはできまい。

 この吹雪のおかげで、彼らが足踏みをしているうちに峠を越えて姿をくらませられるだろう。


「峠を越えた先の村で待ち伏せされてる可能性は?」

 ないとは言えないわね……、とシノ様は雪で冷え切った顔を凍えさせながら言った。


「でも、トモン峠越えが奴らの本命のルートだったはず。この先に待ち伏せがあったとしても保険程度の戦力のはずよ。蹴散らしましょう」


「一戦交える前に是非とも身体を休めたいところだな」

 アズマがぜえぜえと荒い息を吐きながら言った。


「俺は、寒いのだけはどうにも……」

「ここ最近だけで二度も凍死しかけてるからね」


 ちっ、とアズマが無理した感じで苦笑いした。


「ああ。感謝してるよ、イヅル」

「もう身体で払えってのは帳消しでしょ?」


 ボクが笑みを含んで言うと、なによ、それ、とシノ様が力なく言った。


「盗賊のとこから逃げ出した時、命の恩だから身体で払えって、アズマが」

「なにそれ……、聞いてないんだけど。アズマ。後で、殺すから」


「へっ……。へろへろのくせに、威勢のいいこった」


 アズマが鼻で笑おうとして失敗すると、リタに寄り添いつつよたよた歩いて来るイチセが、なんか、余裕ありますね……、と呆れ気味に言った。


 リタはよく辛抱して付いてきてくれていた。

 体重が重いため時々雪にはまりながらも、その度に億劫そうに立ち上がって歩き出す。イチセが必死で励まして、元気づけようとしているからかもしれない。


 愛されてるってことは、伝わるものだ。


 ボクも昔、ヤクの世話をしていた時、みんな、よく懐いてくれていたと思う。顔を擦りつけてきてくれて、ボクはよくバランスを崩して、こけて踏みつぶされそうになったものだった。

 あいつらもみんな、ボクと同じように売り払われてしまった。


 あ、なんか。

 会いたくなってしまった。


 いや、いや。今は峠越えに集中しなくちゃ。

 じゃなきゃ死んでから再会ってことになる。


 そんな不吉なことを考えたせいではないだろうが。


 ごう、と微かな低い音が遠くで聞こえた気がした。

 それが何かが分かるよりも一瞬前、ボクは脳の奥が痺れるような感覚がした。


 幼い頃から幾度も聞いたことがある、身体の奥底が寒くなる、その音。


 雪崩だ。


 音はシュンケル山の高いところから聞こえたが、吹雪で軌道が読めない。

 回避行動をとることもできない。

 こっちに来ないことを祈るしかない。


「みんな、伏せて!」

 ボクの号令で一斉に雪の上に身を屈める。


 しかし音は、静かに、しかし確かな質量感を伴って迫ってくるように聞こえた。


「みんな、流されないように。イチセはリタを!」


 ボクは手に持った棒を深く雪に突き立て、両腕でしがみつく。


 大量の雪がボクらの上に降りかかってきたのはそのすぐ後のことだった。

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