第57話 イザナとミドウ


~前回までのあらすじ~

 雪原の峠は吹雪となった。背後には追っ手の姿が見えている。退くも行くも危険。シノ様は吹雪の峠に行くことを決めた。足を取る新雪、視界を奪う雪の白。しかし峠はもうすぐだ。

 その時、山の高いところで発生した雪崩がボクらの上に降りかかった。


 ***


 その詠唱は、まるで誰かが勝手にボクの口を動かしたかのように薄暗い雪の中に吸い込まれて行った。


「氷の冷たきは水の恩恵なり。氷の熱きは火の恩恵なり。ならば水火をもって陰陽となし、天地を氷界となさん」


 そして周辺は硬い氷に閉ざされていく。

 あらゆるものの動きが頑なになり、そして静止していくのが分かる。

 

 なんだ、どうなった……?

 シノ様、アズマ、イチセ!


 身体が動かせない。

 ずんと重いものに重石付けられたみたいだ。


 あ、あれ。

 これ、拙いんじゃないか?

 息苦しくなってきた。


 っていうか、今の呪言。

 辺り一帯を凍り付かせてどうしようって言うんだ。ただ自分から逃げられないように閉じ込められただけじゃないか。


 ボクが絶望感に塗り込められそうになった時、一帯の氷が音を立てて割れ、崩れた。

 氷は砂粒のように細かくなり、流砂となってボクを深いところへと引きずり込んでいく。


 いや、ボクだけじゃない。

 アズマも、シノ様も、イチセとリタも、氷の流砂の中に落ち込んでいく。


「ああ……!」

 ボクはいつしか半狂乱になり、叫び声をあげていた。


 山の霊力がボクの内側にずるりと音を立てて入り込んでくる。

 ガラウイ山で感じたのと似た感覚だ。

 でもあの時とは比べ物にならないくらい強引で、あの時よりもよほど暴力的で荒々しい。


 ボクは山の力の一部になり、力はボクという人格を否定する。

 ボクは力の流れの中にきりもみしながらすり潰されて消えていく。


「ああ……っ!」

 ボクは叫び声を上げ、自分を取り戻そうとする。


 けれどボクはその時にはもう、剥奪されきった後だった。


 ボクは気が付けば、真っ暗闇の中にいた。


 ああ、ボクは。

――ボクは……、誰だ?




 ボクは暗闇をさまよっていた。


 どのくらいの間さ迷い歩いたか分からない。

 何年もか、それともほんの一瞬の間に過ぎなかったのか。


 けれどボクは、苦痛も絶望感も感じていない。

 なぜなら、ボクは意味を失っていたからだ。


 何かを求めて、何かを探し回っている気はしていたが、それが見つかるとは思えなかった。

 自分がそれを見つけて何をするつもりなのかとか、どうしてそれを自分が探し回っているのかも分からなかった。

 

 しかしボクは、それを考え直してみることもしなかった。

 疑問を持つという思考上の行為すら、ボクには許されていなかったからだ。


 もはやボクは、惰性でそれをするだけの存在に過ぎなかった。


 肉体もなく、誰にも認識されない場所で漂うだけのボクに意味などなく、意味のないボクはただ、世界から放逐され、忘れられているだけだった。


 ボクはきっとその時、確かに死んでいたんだろう。

 意味を消失した存在のことを表す言葉で、死という文字以上に適切なものがあるだろうか。


 しかしある時、ボクは疑問を持った。

 胸の内に一滴、なにか問いかける声が響いたからだ。


――いいのかい、忘れたままで。


 それが誰の問いかけなのか、ボクには分からなかった。

 けれどその言葉と同時、ボクの止まっていた時間が動き出した気がした。


――シノ様……。

 ボクは一言、その言葉だけ胸の内に呟いた。


 ボクはふっと自分が目覚める心地がした。


 そしてその時、誰かがボクのことを見つけたことに気が付いた。





「ほお。こんなところに珍しい客人だ」


 たぶん、耳で聞いたわけじゃなかった。

 ただ、誰かがそういう風にボクに向けて言ったことが分かった。


 そいつはボクを見つけて、にいと性格の悪そうな笑みで唇を歪めた、気がした。

 というのも、ボクにはそいつがどんな姿をしているのか、どんな声をしているのか、ちっとも分からなかったからだ。


「君も、山の霊力を求める、力に呑まれた愚か者かい? それとももっと謙虚に、ちょっとした修行のつもりでここまで踏み込んできたのかな。

 いずれにせよ、人の身で過ぎたる力を持つことはお勧めしないよ。まあ、僕が言っても説得力がないんだけども」


 彼は一人で訳知り顔に喋り、自分の言ったことにくつくつと笑った。


「僕は長いことここに一人でいてね。時々遠くに人の気配を感じることはあったんだけど、ここまで意識を保ったまま潜って来られるようなヤツは中々いなかった。だから、歓迎するよ。君はどうやってここまで来たんだい?」

「…………」


「う~む。なんだ、君はちっとも喋らないんだね。それとも愚かと言われて怒ってるのかい。意外と狭量だなぁ。もう少し心を広く持たないと。生きづらそうって言われない?」


 余計なお世話だ。

 あと、喋らないんじゃない。喋れないんだ。


「ああ、なるほど、喋れないのか。そいつは逆に驚きだね。よくその程度の腕でこんなところまで来られたものだ」


 彼はくつくつと笑いながらボクに何かをしたようだった。

 間もなくボクは、辺りの様子を見られるようになり、そして、口や手足を動かせるようになっている自分に気が付いた。


 ボクがいたのは青と緑の光の満ちた薄暗い洞窟の中だった。

 岩の表面に生えた角ばった結晶がどこかから降り注ぐ淡い光を反射して洞穴の中で光輝いているのだった。


 五感がよみがえるのと同時、ボクの全く空っぽだった内側が、少しずつ何かで満たされていくのを感じた。


 ボクは……、えっと。


「雪崩に……、呑まれたんだ。それから不思議な感覚がした。どこか、落ちて行くような……」


 うっすらとよみがえった記憶を、ボクは自分に言い聞かせるように声に出した。

 すると男は感心したようにふぅんと頷いた。


「なるほど、ここへ来たのは偶然か。それならむしろ、類い稀な才能と言ってもいいかもしれないね」


 ボクの前には、白髪交じりの髪に異国風の服をまとった老人が値踏みするような目をして立っていた。


 いや、立っているというか、ちょっと浮いている。

 まあ、それはボクもか。


 いや、それよりも……。


「ミドウさん!」

 ボクは思わず大きな声を上げてしまった。


 そこにいたのは間違いなく、シノ様の師匠、ミドウ・ツチミヤだった。


 しかしミドウさんは、ボクの声にきょとんとした表情で首を傾げた。


「なんだ、君は。僕を知ってるのかい?」

「えっ……、あの。忘れてしまいましたか?ほら、去年の夏にナンキの町で会った、シノ様の、弟子の……あれ?」


 ボクは首を傾げた。

 おかしいな。ボクの名前……。


 しかしミドウさんは、ボクの様子には目もくれずにぱちんと手を叩いた。


「お前、何か見たことのある形をしていると思ったが、イザナ・アマミヤか!」

「いや、だから……、えっと」


「いや~、ははは。久しいな、イザナ。ケスでのナガミタマ封印以来か。いや、イツツバを完成させた後も一、二度は会ったかな?

 いやいや、違うな。アル・ムールで埋葬して以来だ。

 ……うん?

 ということはお前、死んだのか」


 ミドウさんは急に声のトーンを落としてボクのことをしげしげと見た。そして目元をしかめる。


「お前、イザナではないな」

「だから、初めから違うって言ってるじゃないですか。ボクは……、ええと」


 ダメだ、やっぱり思い出せない。


「ふん、名を失ったか」

 ボクが焦っていると、ミドウさんはふっと鼻で笑った。


「未熟者の証だ。イザナならこのようなことはあり得ん。やはり偽物だな」

「ボクが未熟なのは否定しませんけど、偽ったつもりはないんですよ……」


 ボクは少し泣きそうな気持だった。


 目が覚めたらなんかよく訳の分からない場所にいるし、シノ様たちがどうなったのか心配だし、帰れるのかも分からない。

 自分の名前も思い出せない。

 ミドウさんを見つけてひと安心と思ったら、ぜんっぜんボクの話を聞いてくれない!


 そもそもこのひと、本当にミドウさんなんだろうか。

 前に会った時には、訳が分からないなりにもう少し話の通じる人だと思ったんだけど。


 その時ボクの口を使って、ボクじゃない誰かの声が聞こえてきた。


「お久しぶりだね、ミドウ。僕だよ。イザナ・アマミヤだ」


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