第55話 マーディーシャの雪原


~前回までのあらすじ~

 マーディーシャの雪原まで到達したボクたちは、雪原を突っ切ってフミル入りを目指す。ひとまず雪原の上に立ってみたところ、イチセが急にいなくなった。

 え、かくれんぼ……?

 じゃないっ、なんか、落ちたんだ!


 ***


「イチセ!」

 イチセの姿が見えなくなり、ボクは慌てて氷を蹴った。


 幸い、イチセはリタと一緒だった。

 イチセの握っていた手綱はいまやピンと張り、リタはたたらを踏んでいたが足を踏ん張ってこらえている。


 近づくと、雪の間にぽっかりと開いた穴にイチセが身体の半ば以上を埋もれさせているのが見えた。

 何が起こったか分からないきょとんとした顔で、リタに少しずつ引っ張り出されている。


 ボクは急いで手綱を引っ張り、リタに協力した。

 そして最後に、アズマがイチセの腕を掴んで強引に引っ張り上げた。


「た、たす、助かりました……」

 イチセは荒い息を吐きながら雪の上にへたり込んだ。

 幸い、目立った怪我はなさそうだ。


 イチセが踏み抜いた場所を覗き込むと、そこにはちょうどイチセが一人すっぽりとはまってしまうくらいの氷の亀裂が、底の見えない穴を青白く開いていた。


 ぞっとした。


「おっ、おっ、お、お父さんに聞いたことがあります。天外山脈の氷の下にはたくさんの穴ぼこが空いていて、そうした穴ぼこは山の奥底に繋がっているんです。穴は山の呼吸口で、山の奥底の精霊の許まで繋がっているんだとか」


 ボクがテンパってお父さんの豆知識を披露すると、がくがくと震えていたイチセが食いついてきた。


「そっ、そうなの?

 ええと。そこに行っちゃったらどうなるの?

 戻って来られるんだよね?」


「いえ……。精霊の一部になって、死ぬこともできずに山をさまよい続けるんだとか」

「へえぇええ、怖いな~!」


 へたり込んだままのイチセを助け起こそうとすると、イチセはがっしとボクの腕にしがみついてきた。


 よほど怖かったらしい。

 そうだろうね、傍から見てただけのボクでもめっちゃ怖かったもん。


 ちなみに左手は、命の恩人のリタの足にしがみついている。

 河を渡った時にも助けられたっていうし、イチセはリタに頭が上がらないな。


「……どうする?」

 シノ様が顔を顰めてアズマを振り返った。


「どうするったって……。諦めるか?」

 アズマに言われて、シノ様は静かに瞑目した。

 そしてボクの方を振り返る。


「ロープは、ゴドーさんたちに渡してなかったわね」

「あ、はい。荷物の中にあったと思います」


「それで身体を結びましょう。誰かが落ちても、引き上げられるように」




 出発は早朝の夜明け前と決まった。

 新しく雪が降らないうちに、ということと、陽が出て氷が解け始めると、歩きにくくなったり、陥没したりが考えられるからだ。

 お昼を過ぎる前には峠を越えてしまいたいところだ。


 氷のない場所まで一度戻って天幕を張った。


 この日の食事はいつもよりも豪勢だった。

 乾燥チーズと練り麦を鍋に入れ、塩と干し肉の塩分で味付け。

 内容は然していつもと変わらないのだが、量がいつもより多い。

 お腹がいっぱいの大満足だ。


 なにせ明日は早さが重要だ。

 荷物はなるべく軽くする必要がある。

 それならここで大盤振る舞いをしてしまおうとなったのだ。


 峠を越えてフミルでは雨が多いらしい。濡れた状態で旅を続けることなんてできないから、天幕はやっぱり必要だ。

 鍋や塩みたいな調理器具も必要だし、衣類も必要。


 元々旅に必要なものしか持っていないのだ、削れるものと言えば、念のため多めに持っておきたい食糧くらいのものだった。

 まあ、その食料もほとんど使い切っていたので、そんなに削れるほどもなかったのだけど。


 この日は食事をとるとすぐに眠り、明日の出立に備えた。


 高所の夜は冷え込んだ。シノ様に買ってもらったコートがなければボクの旅はここで終わっていたかもしれない。


 ボクとイチセがシノ様にくっついて眠っているのを見て、アズマが羨ましそうにしていた。

 ……仕方ないな、もう少し近う寄れ。


 朝、夜が明ける前から起き出して熾火を起こした。

 茶の香りが天幕の内側に漂い始めると、全員が起き出して眠い目を擦る。


 天幕の隙間から頭だけ突き出して空を見れば、星々が静かに瞬いていた。

 どうやら天気は快晴。

 出発できる。


 東の空が白み始める頃、解体した天幕をリタの背中にくくり付け、それぞれに食糧を背負って歩き出した。


 シュンケル山の稜線に立って見下ろせば、辺りがまだ薄暗い中、雪棚の白だけが亡霊のようにうすぼんやりと浮かび上がっていた。


 イチセはまだ昨日のことが心に引っ掛かっているのだろう、小さく身体を震わせた。


「イチセ。一応言っておくが、リタに何かあっても助けようとするなよ」

 アズマが囁くと、イチセはぴくりと身体を震わせた、


「……分かってます」

「お前も見ただろ、俺がヘマやらかしたのをさ」


 河を渡った時のことだろう。あの時アズマは、バランスを崩したロバの手綱を手放すのが遅れたせいで死ぬところだった。


「迷惑は、かけませんから」

 イチセはアズマを睨みつけた。アズマは、そうかよ、と言って頬を緩めた。


 そうして氷上の強行軍が始まった。


 ボクを先頭に、アズマ、シノ様、イチセが一本のロープに腰の帯を結び付けた。

 これで誰かが滑落しても、他の三人で助けられる、はず。


 歩けば足の下でがりがりと凍り付いた雪が音を立て、時々金属音のような高い音を立てて砕けた。

 ボクは薄明かりの中、氷の亀裂や雪の柔らかなところがないか注意して歩いた。片手にはアズマの棒を持って、行く先に用心深く突き立てる。


 この中に、ボク以外に雪に慣れた者はいない。

 雪山育ちと言ってもこんな氷塊の上を歩いたことなんてない。きちんと危険を察知できるかは分からないけど、折角信頼して先頭を任せてくれているんだ、期待には応えたい。


 歩き始めは順調だった。

 雪は凍り付いてほとんど氷の状態で、ボクたちは大きな段差や亀裂を避けて蛇行するように氷の上を歩いていった。


 しかし次第に太陽が照り始めると、雪の表面がゆっくりと解けているのが分かった。水浸しになるほどじゃないけど、少しずつ足元が脆くなっていくのが分かる。


 どんっ、と鈍い音が響いて、慌てて音の方向を振り向いた。シュンケル山の白い山肌から、ちらちらと白い煙のようなものが立っているのが見えた。


「雪崩だ」

「ああ。だが、遠い」

「でも、急ごう」


 しかし次第に足元は悪くなっていった。

 雪の表面が解け始めているだけじゃない、きっとこの辺りは最近雪が降ったのだ。まだ固くなりきらない雪が氷の上を覆っている。


 体重の軽いボクは大丈夫だけど、アズマやリタが雪に足を取られることが多くなった。

 まだ先に進めないほどじゃない。けど、どうしてもスピードは遅くなる。


 まだ新しい雪は足元程度しかないけれど、これ以上に降り積もっていたら前に進むどころじゃなくなる。


 本当にこんな雪原を通ってシュベットとフミルを行き来する人がいるんだろうか。

 本当は、アマミヤの手先はグルンさんで、ガセネタを掴まされたんじゃないだろうな……。


 いや、いや。ありえない。


 だってあんなにシノ様に感謝していたのに。

 それに、別の道がないかと尋ねたのはシノ様だ。

 

 不安だから、こんな考えたってどうしようもないことを考えてしまうんだ。

 今はどうにかここを通り抜けることを考えなくちゃ。


 幸いというべきか、雪はそれ以上には厚くならなかった。

 しかしその代わり、近づくほどに山の方から吹き下ろしてくる風が強くなっていった。この風のせいで、少しの雪では分厚く降り積もらないのに違いない。


 今や雪原を取り囲む稜線も白く染まっていた。

 稜線は次第に高くなって、今や登れそうもないくらいの急斜面となっている。山肌のくぼみには雪が入り込み、時折黒い岩の地肌が洗いだされて見えている。


 斜め左に見えるシュンケル山は高く切立った山肌に陽の光を浴びて、青い石の積み重なったような縞模様の山肌を誇示している。

 見上げれば天に突き立てる剣尖のような頂きは薄く白煙をたなびかせている。おそらく風が山肌の雪を削り、舞い上げているのだろう。


 前方に見えるペネペネスディ山は、ガラウイ山に似た扇状の巨大な山体で大地を塞ぐようにして重く鎮座している。

 山肌の色や、山頂に雪煙のたなびく様はシュンケルと同様だったが、スマートな印象のシュンケルと比べ、ペネペネスディ山はどっしりとして厳かな威厳があった。

 

 シュンケルとペネペネスディ、二つの威容に包み込まれたマーディーシャの雪原の向こうに見える広い峠は、白い絨毯に飾られた巨大な門のように見えた。

 まるで資格無き者は立ち去れと言わんばかりに、その門は強い風を吐き出してボクらを退けようとしてくる。


 ボクらは風を避けて身体を前に倒しながらとぼとぼと進んでいく。

 ゆっくりとだが、関門は近づいてくる。なだらかだった雪原はにわかに急峻さを増し、中でも緩やかなところを辿っている。


 ふと風に混じり、小さなものが頬に当たるのに気づいた。

 雪だ。


 今や峠は雲で覆われ、シュンケルとペネペネスディの誇り高き稜線は中腹まで雲で隠されている。


「ちっ。なんつー道だよ」

 アズマは肩で息をしながらやってきて、ボクが立ち止まっているのに気づいて立ち止まった。


「どうした、イヅル?」


「このままだと、吹雪の中に突っ込みます」

 ボクが振り返って言うと、アズマも、シノ様も、イチセも、疲れ切った表情をして何も言わなかった。


 ボクは顔を上げてここまで辿ってきた道を振り返った。


 もう陽は高く昇っている。

 吹雪が迫っていることを皮肉るかのように北の空は青く澄んで、陽光はじりじりと熱い。

 その空の下に、これまで歩いて来た踏み痕が、最早遥か遠方に見えるシュンケルの東の稜線へと続いていた。


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