第44話 ベング谷


~前回までのあらすじ~

 天外山脈へ至るため、極寒の河に足を踏み入れたボクら。しかしその途中、アズマが水中に消えた。ボクは何とかアズマを助け出すことに成功した。

 やれやれ、全くアズマは世話が焼ける。


 ***


 河を渡ると、急にどこか、天外山脈の領域に入り込んだ実感があった。


 唐突に景色が色を失ったり、足元が凍てついてきたりするような劇的な変化はもちろんない。

 けれど河近くまでせり出した山裾のなだらかな起伏が、その輪郭に沿って辿って行けば、やがて天外の白い峰に行き付くことをそれとなく予感させたのかもしれない。


 しかしまだしばらくは河を右手に見ながら西向きに進む。

 今南下しても天外山脈の丈高い峰に阻まれ、回れ右して戻ることになるだけだ。


 斜めに突っ切ることができれば速いのだろうが、もう左手に見えているのは丘陵などではなく立派な山岳地帯だ。

 しっかりと入る谷筋を選ばないと、目的地へはたどり着けない。


 フミル王国へ続くトモン峠は赤峰サイラスの西にあるらしい。

 サイラスがどの山かは知らないが、南下するにはもうしばらく歩き続ける必要があるのだろう。


 河に近くなると道の跡は薄くなり、ほとんど見た目には分からなくなってしまっていた。


 口惜しいが、こうなると一度この道を通ってきたイチセがいることが心強かった。

 彼女がいなければ、本当にこの道でいいのだろうかと迷いながら慎重に旅をすることになっていたはずだ。

 確信をもって歩いて行けるということは、そうでないのと比べて格段に歩く心持ちが違う。


 河を渡ってから一日、南の方向へ山の尾根がひらけた場所で、山際に手のひら大の石を組み重ねた四角形の大きな石塔を見つけた。

 イチセはその石塔の前で足を止めた。


「ここから五日ほども歩けば、狼の鼻面のような形をした山の麓に、これと似たような石塔が見えてきます。それがサイラスへの道の目印です。

 似たような石塔は谷筋ごとに立っていますが、よく見ればそれぞれたどり着く谷の名前が刻まれていますから、迷ったらよく調べてみるといいですね」


 それから二つ石塔を見送り、谷から流れ込む河の浅瀬を二度越えた後、イチセは三つ目の石塔にサイラス山を擁するベング谷の名を確認した。

 河を渡ってから五日後の、午後を過ぎたころのことだった。


 進路は山々の深い谷間、南西へと向けられる。

 これからは河に流れ込む幾分細くなった流れの脇を、山裾の起伏に沿うようにして歩いて行くことになる。


 現在の一行は、六人とロバ一頭、ラバ一頭となっている。

 河を渡る際、ロバを一頭失った。

 流されたロバは助からなかったのだ。

 まあでも、アズマまで欠ける羽目にならなくて良かったと思うべきなのだろう。


 イチセとゴドーさんは夕方になる頃、いくつかの荷物と共にロバ肉を抱えて帰って来た。


 ロバはしばらく流されて、幸いこちら側の岸に流れ着いたのだという。

 ロバは既に息はなく、その場で解体し、持てる分だけ持ってきた。

 荷物は水に濡れ、半分は失われているが、半分戻って来ただけでも僥倖だろう。


 河渡りで全員が体力を消耗していたし、その日は豪勢にロバ肉を煮て塩で味付けして食べた。

 味付けはとてもたんぱくではあったけれど、初めて食べたロバ肉はうまかった。柔らかくて優しい味わい、とでも言ったものだろうか。


 ただ、あんまり有頂天になって喜んで食べる気にはなれなかった。

 ほんのしばらくの間であっても、彼は共に旅をした間柄なのだ。感謝の気持ちを込めて神妙に頂く。


 失われた食糧の分は、ロバ肉が加わったのでそこまで大打撃という感じではなかったが、それよりも荷物の運び手が減ったことが痛かった。

 残ったロバとラバのリタにみんな持たせるわけにもいかないし、全員で少しずつ荷を分け合う。


 その結果歩く速度は少しずつ遅くなって、感じる疲労も大きくなった。

 その上ベング谷に入ると次第に起伏も増え、途中に挟まる休憩の数も多くなった。


「この辺はまだまだなだらかだから、音をあげてる場合じゃないですよ。奥に行くほどより道は厳しくなりますから」

 イチセが無慈悲なことを言う。


「ちなみに峠までどのくらい歩けばいいの?」

「わたしは十日くらいかかりましたが、下りでしたからね。ざっと倍くらいみておけばいいんじゃないですか」


 ってことは二十日、こんな道を歩き続けなきゃいけないのか。


 ボクはシノ様にちらと視線を向けた。


「……なに?」


 シノ様はガラウイ山地を踏破した時点で足を痛めていた。山育ちのボクだってしんどいなぁと思っているのに、毎日歩き詰めで辛くないはずがない。


「シノ様。今夜、揉んで差し上げますね」

「はあ?」


 シノ様がなぜか、胸元の辺りを抱きしめるようにして両手で守った。


「わっ、わたし、揉むほどないわよ。イチセに頼みなさい」

「え。お姉ちゃん、酷いです。わたしを差し出すなんて!」


「いいでしょ、妹なんだったら姉の身代わりに揉まれてきなさいよ」

「嫌ですよ!」


 シノ様とイチセはぎゃいぎゃいと口論を始める。

 ボクはシノ様が何を勘違いしているのか分かったけれど、ツッコむ気力もない。


 これまでボクはシノ様に対してかなり紳士的に接してきたつもりだ。それでもこんな風に野獣扱いされるならもう知らない。

 今晩、覚悟しておくんだな!


 というのは置いておいて、どうやらシノ様は意外に元気そうだ。


 他の面々は、ゴドーさんは、流石と言うべきか、やせ我慢しているだけなのか、平気な顔をしているけれど、先日死にかけたアズマはまだ完全復調できていないようだし、セリナさんは、若いっていいですね、とか言いつつも死んだ目をしてボクの隣でほほ笑んでいる。


「イチセは元気だね、山越えしてきたばっかりだっていうのに」

 ボクが言うと、イチセはふふんと得意げな顔をした。


「鍛えてますから。それに、わたしにはリタがいますからね。荷が軽くなってからは、乗せてもらってもいました」


 イチセはすぐ後ろを歩く忠実な獣の首を優しく叩いた。リタはそれにこたえるように鼻づらをイチセの首許に擦り付ける。

 イチセはこのラバのことをかなり可愛がっている。


「お父さんがいなくなって、旅に出ることを決めてから買ったので、もう一年ほど一緒にいるんです。そうだなぁ……、わたしにとっては、お兄ちゃんか弟、くらいのところでしょうか」

 イチセは無邪気に言った。


 ボクはふと、残った方のロバにも名前を付けてやるべきなのだろうかと思い立った。

 けれどゴドーさんには曖昧に首を振られてしまった。


「名前を付けると愛着がわく。愛着がわくと、見捨てられなくなる」


 確かに、もしもボクが河で死んだロバに名前を付けていたら、アズマだけに集中して助けようと思えただろうか。

 アズマを助けてから、あいつも、と思ったかもしれない。


 そうなれば、もしかしたらロバを救えたかもしれないが、アズマは手遅れになったかもしれない。

 少なくとも肉を美味しくいただくことはできなかったと思う。


 これから何が起こるとも知れない。あいつにはしばらく名無しでいてもらおう。


 ただ、山越えをして無事に安全な町に下りられたなら、その時には何かいい名前を考えてやっていいかもしれない。

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