第43話 渡河2


~前回までのあらすじ~

 サイラス山はトモン峠を目指すボクたちの前に一本の河が現れる。目的地まではこの河を渡らないでは行かれない。ボクらは冷たい流れの中に足を踏み入れたが、どうしても渡ろうとしないロバの為にアズマだけは対岸に残った。

 アズマのことだし、大丈夫だと思うけど……。


 ***


 おそらくそう長い時間を河の中で過ごしたわけではあるまい。


 しかし向こう岸に着いた頃、シノ様たち三人の顔は白くなってぶるぶると震え、川岸のまばらな草の上に倒れ込んで動けなくなっていた。

 ゴドーさんは濡れた荷物や服を下ろして、ロバの足を揉んでやっていた。しかし身体の動きは鈍く、ひどく億劫そうだ。


 ボクは急いで火を焚き、鍋に湯を沸かした。

 シノ様は青い唇をしてぬるめの白湯のコップを受け取り、ありがとう、と強張った顔でほほ笑んだ。


 全員が身体を休め、動けるようになるまでにはしばらくの時間を要した。


「アズマはどうしましょうね」

 ボクがゴドーさんに近寄って言うと、そうだな、と難しい声で言った。


「イチセが一人で渡れたんだ、あの男が渡れない道理はない。ロバの機嫌次第だが、じきに追いかけてくるだろう」


「でも、急に川底の地形が変わることもあります。ロバは嫌がっていますし、一人ではもし流された時……」

 ボクが不安そうな顔をすると、ゴドーさんはボクの頭をぽんと撫でた。


「大丈夫だ。アズマはそんなやわな男じゃない。信じて待っていればいい」




 アズマが河を渡り始めたのは、陽が傾き始めてからのことだった。


 もう河の冷たさにすっかり体力も消耗してしまったし、アズマも、渡り切ってからしばらくは休息が必要だ。

 この川岸で野営することにする。


 ロバはまだ嫌そうにはしていたが、アズマに宥められて渋々と河の中に足を踏み入れた。


 向こう岸からゆっくりとアズマが歩いてくるのを、ボクは祈るような気持ちで眺めている。


 アズマの足は遅々として進まない。

 ロバがやはり嫌がって、時折足を止めるためだ。ロバは背丈も低いし、水の中に首の下まで浸かっている。無理もない。

 アズマはその度になだめたり、無理やり引っ張ろうとしたり、苦心している。


 ボクが行って温めてあげれば、納得して歩いてくれるかもしれない。

 ボクだってまたこの河を渡りたいなんて思わないけど、精々痛みを感じる程度だ。一人で行ってアズマに手を貸すくらいのことはできるんじゃないのか。


 そんな風に考えたけれど、自分を過信するものじゃない。逆にボクが一人流されて、アズマを巻き込む可能性だってある。


 ボクが迷っている間にも、アズマは河の中ほどまで到達していた。

 ゴドーさんがはまった深みのある辺りだ。


 アズマの姿が水の中に一瞬消える。

 まさか流されたのでは、とドキリとしたが、ゴドーさんがしたように進路を確認しただけのようだ。

 すぐに河から顔を出して水を払った。


 しかしほっとした次の瞬間、深みにはまったのか、不安定な石を踏んでしまったのか、ロバの身体が大きく傾いだ。


 手綱を握りしめていたアズマは、ほんの一瞬だけ、咄嗟にロバを助けようと綱を引いてしまった。


 アズマの身体がグリップを失くし、ふわりと水の中に浮かび上がるのが見えた。


 それを見た瞬間、ボクの身体は走り出していた。


「イヅル!」

 シノ様の声も後ろにおいて、ボクはもどかしく服を脱ぎ捨てて極寒の河の中へ走り込む。


 水は冷たくボクの肌を刺した。

 即座に身体の中に火を起こしたけれど、その冷たさに一瞬息ができなくなった。


「シノ様は、ロバを!」

「分かりました」


 そう答えたのはイチセだった。

 彼女はリタの上に飛び乗って、ゆっくりと下流へ流されるロバを追っていく。


 アズマは手綱を手放し、今は水面から顔だけ出して必死に足で川底を掴もうとしている。

 しかし冷たい水に冷やされた身体を上手く動かせないのだろう、うまくいっていない。

 もがいて河から抜け出そうとするロバの後を追うように、アズマもゆっくりと流されていく。


 ボクはばしゃばしゃと飛沫を立てて水の中を走る。

 でも分厚い水の壁が足にまとわりついてなかなか前に進めない。


――このままじゃ追いつけない。


 ボクは意を決して川底を蹴った。

 首の下まで水の中に沈めて、水中を跳んで進む。


 もしもバランスを崩せば、ボクは泳ぎなんてしたことがないんだ、すぐに溺れてしまうに違いない。


 でも不思議と恐怖心はなかった。

 夢中だったし、アズマが死んでしまうかもと思う方が怖かった。


 けれど、焦りはボクの足元をおぼつかなくさせた。


 川底の泥の中に潜んでいた石がごろりと転がって、ボクは次の瞬間、冷たい水の中の世界にいた。




 そこは清廉でけがれたところのない完全な場所だった。


 身を引き締めるような冷たさも、ぼんやりとかすむ黄土色の川底も、宝石のような水の色も。

 そこにはボクを一瞬で見ほれさせるに十分な美しさ、神々しさがあった。


 ボクはその美しさに陶然と胸を打たれた。


 この輝きは一体なんだ。


 ボクはたぶん、感じたことがある。


 ガラウイ山の霊力と同じものがここを確かに流れている。

 水の夢の中で感じたあの水の一滴が、今、ここに現れ、流れている。


 ボクはそんな物思いと同時、身体の奥にじんと痺れる感覚を覚えた。


 その感覚は、身体を苛む痺れ、痛みとリンクし、ボクの意識を呼び覚ました。


――そうだ、ボクは……。ボクはアズマを助けなくちゃ!


 ボクはすぅと息を深く吸い込んだ。

 呼吸をするような感覚だったけれど、そうしてボクの中に流れ込んできたのは河の流れの清冽な霊力だった。


 そしてボクはこの河が、天外山脈の山々から雪解け水を集めて流れるマンドスの大河の、そのほんの一部であることを知る。


――偉大なるマンドスの流れよ。いずれ東の地にして山々の亀裂より零れゆくものよ。ほんの少しだけでいい、ボクに力を貸して!


 ボクは河の霊力を身体の内で練り上げ、そして再び吐き出していく。

 ボクのいる流れだけを、流れの中に落ち込んだもう一つの命の元へと引き寄せていく……。




 唐突に身体が何か温かなものに触れて、ボクははっと気が付いた。

 一瞬だけ水面に引き上げられて、必死で空気を肺の中に取り込んだと思ったら、また沈む。


 なんの意地悪だと思ったら、水中でアズマと目が合った。


 身体は凍えて痺れ、満足に動けもしないくせに、アズマはボクを呼吸させるために引き上げてくれたらしい。

 アズマのたくましい腕が、今は激しく震えながらもボクの身体をがっしりと捕まえてくれている。


 アズマは、なんで来てんだよ、とでも言いたげな目をしていたが、すぐに胡乱になった。

 意識を失いかけているのだ。


 ボクはアズマの身体を暖めるのが先か少し迷い、しかしすぐに後回しにすることを決めた。


 多少身体を温めた程度では、アズマもすぐには動けないだろう。

 少しでも浅瀬に近づいてまずは身体を安定させなければ、共倒れだ。


 身体の内に宿した火の呪力もとっくに消え去っている。

 今やボクの身体の感覚も鈍い。アズマの腕をしっかり捕まえているはずなのに、その皮膚感覚が曖昧で少しだけ不安になる。


 急いで岸に戻らなきゃ。

 でも、水の中じゃどっちが岸かも分からない!


 その時不思議な感覚があった。

 シノ様のにおいが、ボクの鼻を微かにくすぐった。


 ボクは身体の下に水流を起こし、アズマを必死で捕まえたまま水流に押されて河の中を横切って行く。

 水は流れ、掴みどころがなくて動かしにくい。ボクは全力でにおいのする方へ向かっているつもりだったけれど、あまり速くはなかったと思う。


 けれどじきに、何かが地面にぶつかるのが分かった。何かというのは……、たぶん、肩だ。

 すぐに誰かの手がボクの手を引っ張って強引に水の中から引き揚げた。


「イヅル、生きてる?」

 シノ様の必死な顔が目の前に見えた。


 ボクは何か安心させてあげられることを言いたかったけれど、歯の根も合わないほど身体は震え、何も気の利いたことを思いつかなかった。


「あ、アズマは……」


 傍らを見ると、セリナさんがアズマから水を吐かせるところだった。

 しかしそれでもアズマの目は虚ろなままだ。忙しない呼吸を繰り返し、身体を硬直させていた。

 明らかに様子がおかしい。


 ボクは支えてくれるシノ様の腕の中から転げるようにアズマの上に屈みこんだ。


 血行がゆっくりと戻っているのか、全身がぴりぴりと刺すように痛む。

 けれど、ボクのことなんて気にしている暇はない。


 ボクはアズマの胸に手のひらを押し当てた。

 火の呪力を練り、手のひらを通してアズマの身体へと送る。


 あまり強くしすぎるとアズマが火傷してしまう。

 そう分かってはいるけれど、つい心がはやる。


「戻って来いよ……」

 ボクは祈るように呟いた。


「ボクはお前に貸し作ってばっかで……。死ぬならそういうの、取り返してからにしろよ!」


 その声が聞こえたのか、どうなのか。

 アズマは薄っすらと瞼を開いた。


 やがて呼吸が安定して、血の気のなかった頬に赤みが戻ってくる。


「よう……、思い出すな」

 アズマはぼんやりとした顔のままで言った。


 廃村から二人で逃げたあの夜のことを思い出しているらしい。

 確かあの日も、アズマは夜の冷たい風を裸のまま浴び続け、寒さで死にそうになっていたんだった。


「うん……、だね」

 ボクは少し泣きそうになりながらくすりと笑った。


 それからすっかり安心して力が抜けて、ボクはシノ様の腕の中に倒れこんだ。

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