ハジ

# 01

 迷宮には階層ごとに季節がある。

 厳冬期に入るとほとんど全ての階層が一斉に凍りつくが、そうでなければ穏やかな気候を見せることもある。


 クラウディオたちは春の階層を潜行中だ。

 険しい壁にはところどころ苔が生えており、時には小さな草が花を咲かせている。


 美しいが、その分滑りやすくもなるため、事故が増える。

 春の階層レイヤーが増えるこの時期は趣味の先行者も増え、その分救難信号Dシグナルの数も急増する。

 だが、ギルド側も対応人数を増やして備えている。


 おかげでクラウディオも本業――つまり迷宮潜行に関わる仕事に精を出せるというわけだ。


 今回は、二日間はレスキューコールを鳴らさないという約束を取り付けて、クラウディオたちも半ば趣味の潜行を行っている。


 クラウディオはクラック(岩肌にあるひび割れ)にナッツを差し込み、ロープを連結するとクラックの更に奥に手を伸ばす。

 

 目的はクラックの奥にひっそりと生えている花の蕾だ。


 セントエクレール大学の植物学者、ヒューズ・ロングランド助教授からの依頼で、花が咲く直前のものを根ごと採取してくれと言われている。


 趣味と実益を兼ねた深層植物の採取。


 なんでも、地上でも開花させることができるかもしれず、それにより瘴気の正体がわかるかもしれないとかなんとか……しかしクラウディオには難しいことはわからない。


「くっ……! 狭くて、手が……届かん……!」


 クラウディオの掌は分厚い。

 手袋グローブを脱いで頑張って手を伸ばしているが、狭いクラックの奥を好むこの植物の採取には向いていない。


 専用の採取道具を持ってくるべきだったか……と思ったところで、同行人が「クロ、ちょっと動かないで」とクラウディオの肩を掴んだ。


 クラウディオが何を、と思ったところで、同居人である9歳の少年ハジがクラウディオによじ登りはじめた。

 クラウディオを怪我させないようにだろう、クライミング・シューズと靴下も脱いでロープに引っ掛け、裸足になっている。

 ハジはクラウディオの肩までよじ登ると、肩の上に立ち上がった。


「ハジ、重い」

「クロは黙ってて」


 爪先立ちで手を伸ばすが、ぎりぎりつぼみに手が届かない。

 ハジは躊躇なくクラウディオの顔を裸足で踏んづけた。


「おい、やめろ。顔を踏むな」

「踏みやすいところにある顔が悪い」


 クラウディオの抗議に耳を貸す様子もなく、ハジは蕾を指先でそっと摘んだ。


 ▽


 ハジは、10年ほど前に流行った「迷宮出産ブーム」の被害者だ。


 迷宮には謎が多い。

 故に、世間には詐欺じみた――あるいは詐欺そのものの似非科学が横行しており、時にはどう考えても頭のおかしいような主張が罷り通ることもある。


 迷宮出産もその一つだ。


 曰く、迷宮の瘴気は本来悪いものではなく、むしろ子供の頃から浴びていれば人間の本来の免疫力が発揮される――云々。


 もちろんそのような事実はない。

 ただの似非科学である。


 しかし、いつの時代にも似非科学や陰謀論、スピリチュアルなものに惹かれる人はいる。

 そうした馬鹿馬鹿しい主張を信じ、本気で迷宮で出産を実行したがる夫婦が続出した。


 当然、迷宮管理局――通称迷宮ギルドはそれを禁止した。

 迷宮出産を勧める斡旋業者も逮捕され、厳しく取り締まられたが、抜け道はどこにでも存在するものだ。

 さらには「禁止するのはギルドが迷宮のを独占するつもりだからだ」などいう陰謀論が広まり、迷宮出産の権利を主張するデモまで発生する事態に発展した。


 このようなめちゃくちゃな状況の中、迷宮の安全地帯の端ギリギリにテントを貼り、そこで出産したがる夫婦は後を立たなかった。


 当然だが、非常に危険な行為である。


 結果、出産しながらに触れてしまう素人が続出し、迷宮に関する似非科学や陰謀論絡みの事件において、過去最悪の犠牲者を産む事態となった。


 迷宮のトラップは凶悪だ。


 そしてどこまでも平等である。


 決して「妊婦だから」「新生児だから」と容赦してくれるような類のものではない。


 時には雷に打たれ、時には水分を一瞬で蒸発させられ、時には人類が生息できないような深層に転移させらるなど、さまざまな手段のよって大量の死者が量産された。


 ここまできてようやく、暗愚な大衆は迷宮出産にメリットなどないことに気づくことになる。


 大量の犠牲者を残して。


 かくして、迷宮出産ブームは終焉を迎えた。


 ▽


 ハジは迷宮出産の犠牲者だ。


 両親が嵌ったは燃焼トラップ――体が一瞬にして燃え上がる、凶悪かつ迷宮では最もありふれたトラップだ。


 当時まだ20歳過ぎだったクラウディオは、たまたまテントの近くを通りかかった燃え上がるテントを見て驚愕した。

 そして迷わずそこに突入。燃え上がる3人の人間――母親、父親、そして生まれたばかりで臍の緒がまだ繋がっている新生児を目撃した。


 クラウディオは一切の躊躇もなく臍の緒をナイフで切り、新生児を引き剥がしてそこを離脱した。


 新生児の命は救われた。


 男の子だった。


 なんの皮肉か、臍の緒の切り口は瘴気と炎で消毒され、奇しくも迷宮信者たちの主張する「瘴気は人の健康を守る」ことを証明してみせたが、これが特殊な例であることは考えるまでもないことだろう。


 だが、少年の左半身は酷く焼け爛れ、左目の視力もほとんど失われた。


 両親はシェルパ族――迷宮を聖域と信じ、冒険者の迷宮潜行をサポートすることを生業とする少数民族の血を引いていたらしい。

 迷宮出産が推奨される根拠の一つとなった、世界でも珍しい迷宮に生きる民族である。

 

 少年の肌はシェルパ族らしく浅黒く、故に、白く抜けた火傷の跡がひどく目立った。


 ▽


 子供を育てることなど想像もしたことがなかったクラウディオは、どうしたら良いか頭を抱えた。


「迷宮で生まれた子供は、長く外界で生活できない」


 ギルドに泣きつくと、まず最初にこう言われたのがこれだ。

 若手だが、迷宮に関する医療の第一人者と呼ばれる青年、オットーの言葉だ。


「どういうこと?」

「生まれた瞬間に瘴気を浴びると、瞬間的に迷宮に順応させられる。そうした子供が外界に長く留まると、皮膚に発疹やひび割れが出る。ほっとくと死ぬ」


 迷宮出産ブームなど、本当に馬鹿馬鹿しいものが流行ったものだ、とオットーは憎々し気に子供を睨む。


「おい、子供に罪はないぞ。睨むな」

「わかってる。だがその子をどうするつもりだ? どうせ死ぬぞ」

「どうせ死ぬって……救済措置はないの?」

「ない。洗礼も受けていない子供に生存権はないし、両親は灰になった。奴隷として売っぱらえば衣食住は保障されるが、迷宮生まれなんぞ誰も欲しがらん」

「そんな言い方は……」

「外界に出せば死ぬんだ。仕方ないだろ?」


 現実は残酷だ。


 オットーの言葉は冷酷に聞こえるが、決して悪意があって口にしているわけではない。単に現実がそうであることをクラウディオに伝えているだけだ。


 もちろん、クラウディオにもそれはよくわかっている。

 だが、目の前の子供が死ぬと言う事実は受け入れ難い。


 なにしろ、子供は今現在、目の前で生きているのだ。


「施設とかないの?」

「アホか。迷宮から出たら死ぬと言ってるだろうが。迷宮内に養護施設なんぞ作れるわけがあるか」

「……なら、この子の生きる道は」

「ない。あるいはお前が育ててみるか?」


 それなら死なずに済むかもしれんぞ、とオットーは吐き捨てるように言った。


 もちろん冗談だ。

 笑える要素は何ひとつないが。

 

 そもそも、迷宮出産の犠牲者はこれまでも居た。

 すでに世界では二桁を超える子供が迷宮で生まれ、そしてほとんどは死んでいった。

 情報伝達が遅いこの世界では、そうした現実は周知されることがなく、ギルドが必死に訴えるも、にべもなく無視されてきた。

 

 この少年もそんな大勢の犠牲者の中の、たった一人に過ぎないのだ。

 

「うぅ……うぁ、うぁーーん……、うぁーーーん」


 少年が猫のような、酷く力無い泣き声を上げた。

 

 クラウディオはなんとも言えない顔をした。

 父性本能が刺激されたとか、小さな命を守りたいとか、そんな殊勝な気持ちがあったわけではない。ただ、どうしていいかわからないだけだ。

 

 クラウディオは迷宮に関すること以外はからっきしだ。

 だからこそ、現実を受け入れて子供を見殺しにするようなこともできなかった。


「それに、他にも問題はある」


 オットーが顔を顰めながら言う。

 この男の顔はいつも不機嫌だ。

 それは単に地顔がそうであるだけなのだが、ことこの時に限っては本当に不機嫌である。


 オットーは現実主義者だが、冷酷ではない。

 だから目の前の子供の運命に同情くらいはする。


「サンプルが少なすぎて確実ではないが、迷宮で生まれた子供は歳を経るにつれ、傾向があるらしい」

「ってことは?」

「今は LC1ここ でも問題はない。が、成長すればどんどん深層に拠点を移す必要が出てくるかもな」

「それは……きついな」

「だから無理だと言ってる。第一、そもそもお前に親権はないぞ。はあるかもしれんが、がないんだよ」


 もちろんもな、とオットーは冷たく言い放つ。


「だったらさ、オットー」

「なんだ?」

「この子を奴隷として売り出そう」

「……それで?」

「その上で俺が買い取るよ。そうすれば、親権うんぬんについては解決だろ」


 はぁー、とオットーはため息を吐く。


「……言うと思った。だが、そうするとお前の目的は果たせなくなるぞ。つまり……」


 クラウディオの目的。

 それは迷宮の最深階層、Lレイヤー73 の最深部、前人未到の 8849Dデプスへの到達。

 最も深く、地上と見まごうまでの広大さを持つ大階層。

 さまざまな方法で深度デプスは判明したものの、未だ誰も最奥には到達できていない領域。

 

 通称――〈遥かなる地平〉。

 ――世界で最も深い場所。


「まだ誰も到達したことがない迷宮の深淵、あるいは〈遥かなる地平〉は、子育てしながら到達できるようなものではないぞ?」

「わかってるよ。子育てするだけじゃなく、いつかこの子にも手伝ってもらうさ」

「筋金入りのソロのお前がか?」

「実はずっと仲間が欲しかったんだ」

「抜かせ」


 オットーは肩をすくめる。

 つい先日、クラウディオに命を救われたオットーは、ソロだというクラウディオにパーティを組もうと懇願し、やんわりと断られている。

 だから、オットーはクラウディオが誰ともパーティを組まないことを知っている。

 

 クラウディオは決して人が嫌いなわけではない。

 むしろどちらかと言うと人懐っこい方だ。

 

 しかしクラウディオはこれまで、一度もパーティを組んだことはない。


 誰も自分のスピードについてこれないため、目的を果たすためには仲間は障害になると理解しているからだ。

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