第35話 白いものが舞うのに貴方の傍はあたたかい



 晦日──年のあらたまる二日前の夜明け。

私はどうしてだか、これ以上にないほどはっきりと目を覚ました。

枕元の時計を見ると、午前五時。

冬の夜明けは、まだ遠い。

雨戸の隙間から漏れているのは、ただ暗闇でしかない。


 けれど早くなる動悸を押さえきれなかった。

私は布団の上に起き上がると、部屋を明るくした。

すぐに布団を抜け出て、手早く着替えを済ませる。

今日のバイトは昼前に出ればいいことになっていた。

だから時間なら、たっぷりある。

その筈だけれど、何かに急かされるように私は朝の支度をはじめる。


 囲炉裏に火を入れて、部屋を暖めた。

思いついて炬燵も温めておく。

湯を沸かして、たらいを用意しておく。

他に何か、と考えて猫用のミルクも温める準備をしておく。


 近く──本当に、もうほんのそこに、汐の気配を感じる。

私は、縁側近くに座って隙間ほど障子を開けて待った。

瞼を閉じると、細く長く金色をした糸のようなものがどこかへ繋がっているのが見える。

それは瞳を開けると、うっすらと小さな輪郭をして視界にとらえられた。


 窓の外に小刻みに震えながら佇む、子猫。

私は息もつけないような感情の奔流に流されるまま、窓を開け放った。

頼りなく途方に暮れるようにしていた子猫が、伸びあがるようにして窓枠に前足をつく。

幼なすぎて、自力で縁側によじ登ることもできないでいるのだった。


「……汐……!!」


 呼んで両手を差し出すと、子猫は私の腕に齧りつくようにすがる。

その四つ足は、白いタビをはいていて尻尾もひとつ。

全身が真っ黒だった汐とは、あきらかに様子が違った。


 とけかけた雪を踏んで泥だらけの子猫は、寒さに震えながら、にぃにぃと何かを訴えるように鳴く。

たしか猫の足って雪の上を歩くには向かないとか、何かのテレビで言ってたのを見たことがある気がした。

こんな子猫が走ってくるのは、さぞ辛かっただろう。


「……松里さんから、だいたいの話は聞いてます。わかってます」


 そっと、もち上げた小さな体を抱いて、私は障子を閉めて温かい部屋に運ぶ。

ぬるい湯を張ったたらいに、子猫を下ろす。

すると水に入るのを嫌うたちの猫だが、気持ちよさそうに目を細めておとなしくしている。

はじめの湯で泥汚れを落とし、もう少し温かくした次の湯で、丁寧に手足をすすいでやった。

すっかり綺麗になったら、乾いたタオルで包んで水気を切ってやる。

ドライヤーで乾かすと、大きな音にも驚く様子もない。


 おとなしくされるままになる白足袋くんの様子に、私は小さく笑ってしまう。


「巻き込まれちゃって、大変だったね。汐が無茶をしたせいで」


 声をかけるのは、今はこの身体を支配していないのだろう子猫の方へ。

汐の反応なのだろう、不満そうに私を見上げて鼻を鳴らす様子に、また笑ってしまう。


「無茶でしょ。本当にあなたときたら皆にどれだけ心配をかけたか……」


 そこまで言って、私は突然込み上げたものに声を詰まらせた。

自分でも不意打ちのような感情の起伏に、うろたえる。

涙が、溢れて止まらなくなってしまった。

こらえても、こらえても、後から後から。


「……私なんかのために、無茶を……」


 やっとのことでそう言うと、私は身を折るようにして嗚咽を殺そうとする。

叶わないそれに、白足袋くんが私の周りをおろおろとして歩き回った。

そして、頬をざりざりと舐めてくれるのはいつものように。

痛いよ、と私が笑えるまで宥めてくれた。


 ──高天原なんてのは、めんどくさいところでさ。

そう言ったのは松里さんだ。


「アタシたちなんて、もう人とほとんど一緒に暮らしてるから、そんなに偏見もないんだけど。たかーいところで暮らしてる神様たちは、そうもいかないのよね。ほら、高いとこにいる政治家ほど、能もないのにプライド高い奴が多いのと一緒」


「国会みたいなものですか……」


「人間なんてって見下してるわけ。で、そこに汐が人と添い遂げたい、とか言い出したもんだから、だったらただの猫に戻って村に帰る、くらいの芸当をしてみせろ、ていう話になったらしいのよ。でないと人となんて、下等な生きものとの関係は認めないっていって」


「ただの猫……この季節にですか?」


 私は話を聞いて、ぞっとした。

冬だよ?下手すると雪の積もってるような季節だよ?

それを、あんな小さな猫に、ここまでの距離を踏破しろって命じたっていうの。

無茶にもほどがある。

相手は偉い神様なのかもしれないけど、考えるとくらくらするほどの憤りを覚えて私は唇を噛みしめた。


「……そんなの、眷属の松里さんたちにだって、どんな迷惑がかかるか分からないのに」


「いやあ、アタシたちにしてみたら、よくやったって感じ」


 松里さんは言って、笑った。

本当に清々しいような、晴れやかな顔をして。


「神族だってね、恩義くらいは感じるもんなのよ。いつも霊力を分けてくれてる里ちゃんを悪く言われたら、ムカつくくらいにはね」


「……私、そのエライ神様にはそんなに評判が悪いんですか」


「里ちゃんが、じゃなくて人間が……てことかな」


 松里さんは少し困ったように眉尻を下げる。

ああ、そんな顔をしないで。

私は別に偉い神様に嫌われても、なんとも思ってない。

松里さんたちに嫌われたら、悲しいけど。


「アタシたちには人間の戸籍みたいなものってないじゃない。だから、汐の奴は里ちゃんに何も約束みたいなことがしてやれないのを気にしてたのよ。それで、高天原には認めてくれって申し出たみたいなのよね。せめて、人の世界で認められなくても、神である自分の伴侶として」


 ──伴侶。

ずっと、一緒にいていい人。

言葉の重さに、胸が詰まる。

嬉しくて。

あの日、聞いた言葉は夢でも幻聴でもなかった。


「で、ただの猫に魂押し込めて放逐されたらしいのよ。たぶん、神としての記憶も朧なんじゃないかな。なにしろ、猫の脳の分しか記憶も留めておけないから。だけど……危なくなった時、ちゃんと里ちゃんを呼べたのね」


 やりおる、なんて茶化していたけど松里さんも、すごく心配していたのだと思う。


 思い出した、あの夜に松里さんが話してくれたこと。

それに私は自分で思っていたよりずっと、汐のことが心配だったんだ。

少しずつ高ぶった気持ちが穏やかになっていく。


 弱り切っているだろうに、私を慰めてくれる白足袋くんへ、私は温めたミルクを出してやる。

子猫だから、たぶん専用の母乳を真似たものがあると思うけど、さすがにそこまでは用意できなかった。

普通の猫用ミルク。

とにかく何か口にして温まってほしいと思ってのことだったのだけど。

無心に皿の上のミルクを舐める様子を見ているうちに、私はまたひどく強い眠気を感じた。

予感のように理解する。


 これって、神域という夢の中に行く前兆だ。





 だめだ、このまま眠ってしまったら風邪をひかせてしまうかもしれない。

あれ?猫って人間みたいな風邪はひくのかな。

だけどせっかく温まったのに、湯冷めさせてしまうのは確かだ。


 私はあわてて、ミルクを飲み終わった小さな身体を抱き上げる。

そのまま、炬燵に直行した。

囲炉裏の火を落とすのを忘れずに。

そして子猫を抱いたまま、炬燵の中にもぐりこんだ。

もぞ、と今は乾いてふかふかになった毛並みの白足袋くんが腕の中で動く。


 それを感じながら目を閉じた。

墜落するように心地よい闇の底に落ちていく。

どこからが夢だったのかも、もうわからない。

ただ一度瞬きをして、目を開けた時には辺りは白く温かな雪みたいなものに覆われていた。





 それは雪なのか桜吹雪だったのか。

白く小さなものが風に飛ばされていく。

風花なのか、桜の花びらなのか。

見ていても、わからない。

どういうわけだか寒くはなかったので、雪ではないのかもしれない。


 私は眠ってしまう前と同じに、白足袋くんを胸に抱いて座り込んでいた。

白足袋くんは、すやすやとおとなしく眠っている。

だから、視線を巡らせて探す。

汐を。


「──やっと、帰ってこられた」


 低く、懐かしい声が上から降ってくる。

顔ごと視線を上げると、私の傍らに佇んだ長身は、穏やかな顔をしてこちらを見下ろしている。


 ああ、やっと。

やっと、顔が見られた。

何日ぶりなのだろう。

もう何年も長い間、離れていたような気さえする。


「……しお」


 そっと呼ぶと、汐の黒い瞳が細められて笑みを浮かべた。

視界が歪んでしまって、私は唇を震わせる。

しお、汐、と何度も呼んで、そのたびに返事が返る。

たったそれだけの事が、胸に痛いほどに嬉しい。

傍にいるって、こんなに幸せなことなんだと、あらためて気づかされる。


 神主姿の汐は、私の傍らに膝をついた。

視線が合う高さになって、私は懸命に涙で揺らぐ視界に彼の姿をとらえようと瞳を見開く。


「心配をかけた……」


「うん」


 ゆるく肩を引き寄せられて、私は汐の胸に頬を寄せる。

髪をすくように撫でられて、目を閉じた。


「皆が心配したんだよ……こんな無茶なことして……」


「──里の存在を、高天原に認めさせたかった。無茶はした。……すまぬ」


 素直に謝られてしまうと、困ってしまった。

無茶が私のためだということも、分かっているから。

なにより、こうして帰ってきてくれた汐を責めたいわけじゃない。

そうしたら一番伝えたいことは何だろうか。

そう考えて私は、汐を見上げた。


「無事で……帰ってきてくれて、ありがとう」


 私がそう言うと、汐はほんの少しだけ瞳を瞠ってから、ゆるく穏やかに笑ってくれた。


「──ただいま」


 その言葉が嬉しい。なにより、嬉しかった。

私はくすぐったいような心地で、片手に白足袋くんを抱いたまま、もう片手を汐に伸ばす。

汐がその手をつかまえてくれた。

手のひらを重ね合わせて、捕えられてしまった指先が離れてしまわないように、そっと指を絡ませる。


 ──繋がる。

汐と私は、繋がっている。

鼓動を重ねるみたいに、同じ音を聞いていた。


「……汐がいない間、色んなことを考えてたの」


 私がそう言うと、汐はただ、うんと頷く。

それが嬉しくて、私は笑っていた。


「やっぱり、汐がいる場所を守っていきたい……。私、宮司になるための勉強がしたい」


 何かを我慢する選び方じゃない。

私がしたいこと。

それを理解してもらえるだろうか。

見上げた視線で問いかける。


 汐は、ただ笑った。

笑って、そして頷いてくれた。


「共に生きるというのは、そうやって互いが努力をするのだということを。俺は知ったと思う」


 神様は、見ていてくれる。

私が生きていく、その先をずっと見守っていてくれる。


 散る白い風花が、薄紅に色付いてあたりが一面、春になる。

南から帰ってきた神様は、年が明けたらゆっくりと季節をひとつ巡らせ。

──やがて来る春を運んできたのだ。

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