第33話 帰ってこない貴方が泣きたいほど恋しい



 十一月に入って半ばが過ぎた。

その間、汐からは何の連絡もなかった。

眷属である山の神様たちにも、報せもなかったらしい。

彼らにも事態がわからぬまま、汐は完全に行方をくらましてしまった。


 松里さんがそんな危機を改めて口にしたのは、贄の神事の夜のことだ。

月に一度の神事であるそれは、神様たちのいなかった先月は行われていない。

表向きには私は、いつもと同じく祭殿で過ごしたけれども。

神様たちは皆、出雲に行っていたのだから神事そのものは無かった。

だから十一月のそれは、いわばふた月分の霊力を補うものになるはずだったのに、肝心の汐がいない。


「……他の月ならともかく、時期が不味いわね」


 松里さんの深刻そうな顔に、本当に神様たちも困っているのだと感じる。

祭殿には初めての神事の夜のように、山の神様たちがたくさん集まっていた。

皆が一様に困惑しているのが分かる。

こんなこと、長い歴史の中でも初めてなのだろう。


「はなから贄のいなかった時期ならともかく、アテにしてたものも多いでしょうし……。しかも、先月は皆、留守だったからね。もう霊力すっからかんでしょ。……困ったわ」


「……汐の行先に心当たりのある人はいないんでしょうか」


 私が訊くと、みっしり祭殿の中に詰まった神様たちは、がっくり肩を落として首を振る。

すみっこにいたハムスター姿の小さな神様が、きゅう、と鳴いて項垂れた。

ご、ごめんなさい、悲しまないで。

貴方達を責めている訳じゃないの。


 私がおろおろしていると、松里さんがハムちゃんを手に乗せてこしょこしょと撫でた。


「でちちゃんも、辛いわよねえ。このままだと」


 でちちゃんて言うんだ。なんだか可愛い名前。


「神事の日を遅らせる事とかはできないんですか?」


「月齢が関係してるから、それもちょっとねえ……。でも、どちらにしろ今夜は汐が神事を行うのは無理ぽいわね」


 松里さんがそう言うと、神様たちは諦めたようだった。

三々五々、祭殿を去っていく。

最後に残ったのは、私と松里さんだった。


「……里ちゃん」


 ひどく思いつめたような顔で、松里さんが私を見た。

そのことに緊張して、私は居住まいを正す。


「な……なんでしょう」


「アタシが代行するから、神事に協力してもらえないかしら」


「え……代行、なんて出来るんですか」


 私が驚いて問い返すと、松里さんは小さく頷いた。


「できる。……里ちゃん次第だけど」


「……」


 できる、と言い切られてしまったけれど。

……あれを?

あの交感を、松里さんと?

考えてしまって、私は自分の中が真っ白になるのを覚えた。


「……やっぱ、嫌よねえ」


 そんな私の表情を察して、松里さんが苦笑する。

嫌だとかそんな。

そう言おうとして、私の口が凍りついていた。


 松里さんだから嫌だとかは、ない。

松里さんのこと大好きだし、松里さんだと嫌だなんてこと、絶対にない。

だけど……。


でも、あれは汐と二人の時のもので……誰かに見られるのは、なんだか違う。

汐も私も、そんなことを言ったわけでもないのだけど、少なくとも私は……私にとっては、あれは二人の間の秘めたことのような気持ちでいた。

手のひらを重ねる、ただそれだけのことだ。

だけど、私の中ではちがうの。

意味が違うの。

胸の中で何かがそう叫んでいて、私は言葉に詰まった。


「……あの、私……」


 汐以外の神様とは、嫌だ。

不意に胸に浮かんだ言葉に、私は愕然とする。

何考えてるの私。

今はそんなこと言ってる場合じゃない。


 さっき見た、小さな神様。

すごく弱ってた。

あんな神様が大変な思いしているのに、汐以外は嫌だなんて私のわがままだ。

第一、松里さんに失礼すぎる。


「ごめ……ごめんなさい、私……大丈夫ですから……」


 ようやっと言うと、松里さんは困ったように少し笑う。


「無理して、そういうこと言わなくていいのよ」


「……」


 俯いてしまった私の視界が、潤む。

それを隠したくて、ごしごしと手の甲で目許をこすると松里さんの手のひらが、私の頭の上にそっと置かれた。


「里ちゃん。確かにアタシたち汐の眷属は、霊力を分けてもらえないことで大変なんだけど。

 里ちゃん自身、汐がいないことで心が大変なことになってるって、自覚しなさい。……全然、大丈夫じゃないでしょ」


「……」


 その言葉に、私は目を開かせられたような気がしてハッとする。

ああ、そうだ。

私、汐がいなくてすごく寂しい。悲しい。


 だけど、こんな場面でそう言ってくれて笑ってくれている松里さんて、誰より男前でかっこいいと改めて思う。


「……ごめんなさい……、ごめんなさい……私……汐がいないと、駄目……」


 吐きだしてしまった言葉は、弱音に他ならない。

こんな時に口に出してしまっていい言葉じゃないことも分かっている。

だけど、松里さんは言っていいんだよと許してくれた気がして、こらえた喉の奥からあふれ出た。


「ん、知ってる」


 あっさりとそう言われて、私は泣き笑いをしてしまった。

そっか……ありがとうね、松里さん。

私のみっともないところを、知っていてくれて。

それから堰を切ったように溢れて止まらなくなった涙を、絞りつくすくらい泣いて。

泣いて泣いて泣いて……。

私はやっと少し浮上できた。

落ちるところまで落ちたら、後は浮かぶしかない。

とはいえ泣きすぎて頭の芯がぼうっとしている。


 松里さんはそんな私の様子を見て、ちょっと呆れたみたいだった。

でも、やっぱり笑ってるんだけど。


「……少しは、前向きになれた?」


 ずっと頭をなでていてくれた手を下ろして、松里さんが言う。

私は何とも情けない気持ちになったけれど、すっきりしたのも事実だったので小さく頷いた。


「ほんっと、あのボケ猫どこをほっつき歩いてるんだか」


 溜息と共に言って、松里さんは口許を引き攣らせる。

あ、かなりお怒りなんだ。


「で、だ。前向きになったとこ悪いんだけど。神事はやんないと、どうにもなんないのよねえ……」


「……はい」


 覚悟はできたと思う。

これは尋常でない事態の救済なんだから。

私のわがままは無視してくれていいんだ。


「そっか。覚悟できたなら……ちょっとだけ我慢しててくれるかな」


 そう言ったかと思うと、ゆらりと松里さんの輪郭が溶ける。

驚いて目を瞠る私の前で、松里さんの姿が金色の毛並みの狐に変わっていった。


 え……変化できるんだ。

一度もしたことなかったから、出来ないのかと思っていた。

でも……。

その狐には、以前に言っていた通り、尻尾がなかった。


 これって、たぶんだけど。

あんまり他者に見せたい姿ではなかったからなのでは。


「ごめんね、里ちゃん。なるべく、すぐに済ませるから」


「松里さん……」


 ごめんねは、私の方だ。

たぶん私なんかに見せたくなかったと思うのに、こんなことさせてしまって。

私は金色のふかふかとした毛並みに魅せられたように視線を外せないまま、呟く。


「……松里さんて、かっこいいね」


「気付くの、おっそ!!」


 茶化すように言って、狐さんは口を開けて大笑いする。

声だけ松里さんで、違和感が全開。

でも、そのかっこよさは、どんな姿でも変わんないね。


 人の姿ではない交感は、初歩的なものだと知っている。

汐とは違うのだと、私に教えてくれる。

ただ、少しの霊力を分けるだけの儀式。


 松里さんは、手を、と言って私の手を自分の頭の上に乗せさせた。

伏せた姿勢で、狐の姿の彼はそっと目を閉じる。

眠るように穏やかな空気で、私の中の霊力を受け取ってくれる。

浅瀬でおだやかな波に足元をくすぐられていくような。


 これは、明日は筋肉痛にならずに済みそうだ。

汐との交感は、時に奪いつくされるのではないかと思うような激しい感覚を覚えることもあるけれど。

神様によっての違いなのか、それとも松里さんが手加減してくれているからなのか。

そこは分からないけど、ただ、これであの小さな神様たちが困らずに済むと思えば安堵だけがあった。


 だからかもしれないが、松里さんは儀式の後少し難しい顔をしていた。

神事自体は無事に終えられたけど、どうしたのだろうかと思っていたら、ううんと呻って考え込む。


「神事はともかくさ……これって、おかしいわよね」


「……うん?」


「里ちゃんが他の神との神事を嫌がるってことはさ。汐にしてみても、里ちゃんがそういうことするのは嫌だろうなって思うのよ。……あらやだ、アタシ、後で汐に殴られるんじゃないかしら」


「さ、さすがにそれはないかと……」


 殴られるとかはないんじゃないかな……。

思ったのだが、松里さんは大真面目なようだった。


「ま、殴られたらカウンターで殴り返すけど。それはともかく。里ちゃんにこんな真似をさせるのは、汐にとっても本意じゃないと思うのよね」


「はあ……」


 松里さんが何を言いたいのか、よくわからない。

ぽかんとして、曖昧な相槌を打っていると、にぶいわねーと怒られた。

……よく言われます。


「つまり……汐が『今、ここに居ない』不在は、汐自身の意思じゃないってことよ。……高天原にでも、ちょっと探り入れてみようかしらね」


 たかまがはら。

たしか、汐もそんな名前を口にしていたことがあった。

それは一体なんなんだろう。

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