第25話 優しい神様たちは、これから……
この水の下に村が?
私は驚いて湖の様子に目を凝らした。
昨夜、台風が通り過ぎたばかりの水は濁って茶色い。
それでも緑の豊かな山肌の木々すら呑み込むほどの水量をたたえた湖は、違和感なくそこに在る。
ずっと昔から存在していたみたいに。
「行こう。ここを向こう岸までまわると、祠がある」
汐に言われて、私は歩き出した。
道は崖のような急峻な斜面を水面までのぞかせ、ぐるりと湖を迂回してつづいている。
しばらく行くと斜面は緩やかになっていき、水際まで下りられそうになった。
道を外れておりていくと、枯れ枝が水面にいくつも突き出ているような景色が続く。
水の下に、かつて村があったのだと私にも見て取れた。
そして穏やかな岸のような場所に、ぽかりと小さな祠が半分ほど水につかっている場所に出た。
台風で水かさが増したのだろうか。
半分水没した小さな祠は、打ち捨てられているような荒廃の色が濃い。
近づくと、祠の上に腰を下ろして足元の水面を見つめている氏康さんがいた。
私たちに気づいて顔を上げ、少し驚いたような顔をする。
ひょいと身軽に祠の屋根から飛び降りると、こちらに駆け寄ってきた。
今日は人の姿だ。
「……どうした!三重子になにか……」
一番にそれが頭に浮かんだのだろう、そう訊ねられて私は首を振る。
「検査のために入院しますけど、大丈夫。昨夜の診察の後は点滴受けて眠ってました。今年の夏は暑かったから、疲れがたまっていたんじゃないかって話です」
私が言うと、氏康さんはそうか、と頷いて落ち着いたようだった。
私はそれへ笑いかけて、持ってきたリュックを示す。
「おなか空いてないですか。お弁当つくってきました。といっても、おむすびだけですけど」
お弁当、という言葉に汐が神主姿に変わるのがおかしい。
食べる気が満々なんだね。
氏康さんは、少し考えてからいただく、と答えた。
私たちは適当な場所を探して、並んで座った。
御茶とおむすびの、質素なお弁当だけど神様たちは黙って食べてくれる。
梅干しもお漬物も、美味しいもんね。
「あの祠って……前に言ってた三重子さんがよくお参りに来ていたっていう祠ですか?」
食べ終えて、それぞれにポットに入れてきた熱い御茶を配りながら訊く。
氏康さんは頷いて、そちらを見遣った。
「汐の神社にくらべれば、雲泥の差だろう。村も大方が沈んで住む人間もほとんどいなくなったからな」
「……人の都合で、こんな風になっちゃってごめんなさい」
思わず謝ると、氏康さんは少し笑った。
「土地神は、人とこそ繋がっている。ならば、これもまた運命だ」
「……」
さばさばと言われてしまったけれど、人間である私にしてみれば申し訳ないって思いがどうしても強い。
汐がお茶をすすりながら、遠い目をして言う。
「人の信仰によって土地神はそこの土地に紐づけられる……。信仰が消えれば、自由になって元の姿に戻るだけなのだから、気に病むことはない」
「……信仰?」
私が訊き返すと、氏康さんが同意を示して頷いた。
「ダムの水没を免れた家は、もうほとんど残っていない。それがなくとも過疎は、村から人の姿を無くしていっただろう。住民も高齢だし……あと数年もしないうちに、この土地から信仰は消える」
「……」
信仰が消えると、土地神様たちはいなくなってしまう。
それってどうなるということなんだろう。
ひどく胸騒ぎがして、私は神様たちを見た。
彼らは飄々として、そこに居る。
「……元の姿に戻るって、どういうことなんですか……?」
おそるおそる訊く。
汐が、御茶のおかわりをしながら淡々と言った。
「もとの、ただの妖怪に戻る。土地のしがらみから解放されて。……別に消えてなくなってしまったりはしない」
付け足された言葉は、私を宥めるみたいだった。
だって、氏康さんが私を見て目を丸くしたから。
わかってしまった、自分が今どんな顔をしているのか。
「……なぜ、泣く」
そういって、神様たちは穏やかに笑ってくれた。
◇
私たちは、しばらく湖を眺めて過ごした。
満々と水をたたえた人工湖は、今は風もなく凪いで見える。
水が濁っていない時は、意外に美しい景色が見えるのだと氏康さんは言った。
それを美しいと言ってくれる神様の言葉に、私はまた泣いてしまいそうになる。
あなたの祠を水底に沈めてしまった、人の勝手が作ったものなのに。
お昼を過ぎるころに、私と汐は帰途についた。
猫の姿になった汐は、軽々と山道を行く。
私はその後ろを少し重い足取りでついていった。
汐は時々、振り返っては私がついてきていることを確かめる。
「午後には、三重子の見舞いにいけるな」
汐はそんなことを言って、私の足を速くさせようとした。
だけど一向にそれは成功しない。
都会育ちで慣れないから、と言い訳する私の心中を見透かすみたいに汐が言う。
「……氏康は別に、もののけに戻る自分を憐れんではいない」
「わかってる……。わかってるけど……」
駄々をこねるみたいにいって、私はむっつりと黙り込んだ。
すると汐は私のところに戻ってきて、二股の尻尾ではたりと私の足を軽くたたく。
「……妖怪に戻ったら、どうなっちゃうの?」
訊ねると、汐はふいと鼻面をそらした。
また前へと駆け戻っていく。
そういう反応はずるい。
「──何も、変わらない」
「ほんとに?」
「ただ、神としての感覚をなくすだけだろう。妖怪に、人との繋がりはないからな」
「私たちのことを忘れちゃったりするの?」
「忘れたりはしないだろう。なったことがないから、よくはわからんが」
「汐にもわからないの?」
そう訊ねると、汐はちらりとこちらを振り返った。
黒猫は小首をかしげる。
「もう長い間、土地神でいたからな」
忘れてしまった、と言う汐に私は何とも言えない気持ちになって、また口を噤む。
実際に忘れてしまっているのかもしれない。
だってたしか千年以上も生きている、と言っていたし。
神社もかなり古くからあるものだと、蓮川さんから聞いている。
昨日の夜、何を食べたかなんて記憶すらが曖昧になるような人間にしてみれば、忘れるのも当然かと思えた。
だけど──。
「汐」
呼んでも、黒猫は今は振り返ってくれなかった。
「……汐も、いつかいなくなっちゃうの」
口にして私は、ひどく苦いものを噛んだような心地になった。
汐は、振り返らない。
氏康さんの土地からは、人がいなくなってしまう。
それは遠い未来の出来事ではない。
そして、それは汐のいる村でも同じことなのだ。
村人のなかで、一番若いのは私だ。
過疎は年々、すすむ。
村のお年寄りは、ここに骨をうずめると言っている人が多いけれど。
彼らが皆、居なくなってしまう未来はどうなるのだろう。
都会にはどんどん人が多くなってるというのに、この村に住む人たちは減り続けている。
そもそも神社の宮司の蓮川さんだって、かなりの高齢なのだ。
蓮川さんご夫婦にはお子さんが出来なかった。
奥さんは、数年前に他界されていた。
跡継ぎがいないんだよ、と困ったように言っていたのを知っている。
この先、汐も神様ではなくなってしまうのだろうか。
そんなのは、嫌だ。
私にできる事はないの。
汐にずっといてもらうために、なにか。
とうとう歩くことを放棄して立ち止まってしまった私の足元に、するりと汐が戻ってくる。
身を寄せて、すりすりと身体をこすりつけるようにされて私は唇を噛んだ。
有無を言わせず、抱き上げて抱きしめる。
ふかふかとした毛並みと、温かな体温に頬を寄せた。
汐はこぼれた私の涙を、舌でぺろぺろと舐めとってくれた。
ざりざりして痛いよ。
「……汐がいなくなったら、嫌だ」
「ならない。安心しろ」
「そんなの、嘘だ……」
「もし、土地神でなくなってしまったとしても」
たとえ話のように口にされたことに、私はきつく目をつむった。
聞きたくない。聞きたい。
どちらもが綯い交ぜになる、その先の言葉。
「……俺は里が好きだ」
ぎゅっと心臓をつかまれるような、あまやかな傷みに心の奥深くを射抜かれて、私は黒猫を抱きしめたまま立ち尽くした。
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