第22話 まるで置き土産みたいに事件は嵐の後に起こった
落ち着こうよ、私。
好きだというのは料理の話だよ。
そうは思うものの、好きだというダイレクトアタックな言葉は心臓に悪い。
だけどたぶんこの神様にはそんな自覚はないんだろうなあ。
そう思うと、ちょっぴり切ない。
「何が美味しかったですか」
内心の思いは隠して、私はそう訊いてみた。
褒められたことは単純に嬉しかったから、また作ってあげたいと思ったので。
汐は私を見つめる瞳を、輝かせる。
それで本当に美味しかったんだなと伝わったから、私はつい笑ってしまった。
私の神様は食べものに関してはとても素直だ。
「プリン」
「え、プリン?」
意外な答えだったから私は少し戸惑った。
もっと和風なものが好きなのかと思っていたのに。
「この間つくってくれた。柚子の香りの」
「ああ、あれね。バニラエッセンスがなかったから香りを何か代用したかったんだけど、あれはアタリだったかも」
どうだろうと思ったのだけど、柚子の香りは甘いものにもあう。
プリン自体は簡単なものだったけど、香りが好みだったのもあるのね。
「じゃあ、また作ります」
「楽しみにしている」
甘いもの好きなの、可愛いな。
思って、つい小さく笑ってしまった。
人の喧騒が少し離れたこの場所は、風の音が強く聞こえる。
それでも傍にいるのが神様なんだと思うと、嵐は怖いものではなかった。
それに峠は越したようで、今は雨の音くらいしかしない。
いつのまにか、台風は過ぎていったみたいだ。
なら私ももうお酒とかいただいても、いいかな。
そう思ったときだった。
離れた場所であるはずの集会室の喧騒が大きくなる。
私と汐は顔を見合わせて、腰を浮かせた。
なにごとだろう。嵐は過ぎたはずなのに。
妙に不安を掻き立てられて、私たちが部屋を出ようとした時だった。
ばたばたと駆けてくる足音。
そして、人は入ることができない筈だというこの場所の、襖が乱暴に引きあけられた。
「……松里さん」
息を弾ませて険しい顔をした松里さんが立っていた。
「里ちゃん。汐」
「ど、どうしたの……何か……」
「……三重子さんが倒れた」
「……!!」
するりと猫に戻った汐と私は、松里さんについて集会室に駆け戻る。
中は、右往左往する村の人たちでごったがえしていた。
「三重子さん……!!」
人だかりができている方へ駆け寄ると、青い顔をして横になっている三重子さんの姿があった。
呼びかけたけれど、意識が朦朧としているのか三重子さんから答えはない。
噓でしょ……噓でしょ……。
三重子さんが倒れるなんて、そんな。
「き……救急車は」
「呼んだけど台風のせいで、あちこちに出払ってて。今すぐ短時間で来られるのがないらしいわ」
「そんな……」
「車があるから、とにかくそれで病院まで運ぼうって言ってるんだけど」
「わ、私、三重子さんの家にいって保険証とかとって……」
「ちがうの、里ちゃん。そんなことより、アナタ車の免許はもってるわよね?」
「え……も……持ってますけど……ペーパーで」
私は訳が分からなくて、なんだか泣きそうになりながら訊き返す。
なぜそんなことを訊くんだろう。
車の免許なんて。
「みんな、お酒が入っちゃってるから。今、車の運転ができる人、里ちゃんだけなの」
「……ッ!!そ……そんな、無理です!私、本当にペーパーで!いきなりここから山道を運転なんて……!!」
「三重子さんの命がかかってるのよ!!」
怒鳴りつけられて、私はびくりと肩をすくめた。
そんな、そんなこと突然言われたって……。
ああでも、泣いている場合じゃないんだ。
私がやらなきゃ。
他に誰もいないんだ。
三重子さん。大好きな三重子さんが、大変なことになってしまうかもしれない。
嫌だ。そんなことになったら嫌だ。
無理とか言ってる場合じゃない。
私はがくがくと震えながら、それでもなんとか立ち上がった。
「免許証……とってきます……」
言って、もつれそうになる足で駆けだした。
一刻の猶予もない。
免許証を取って戻る頃には雨は完全に上がっていた。
雲の切れ間に、星がひっそりとのぞく。
それでも夜間で、雨の後だということは変わらない。
路面は濡れている。
それを想像するだけで怖かった。
だけど、他に誰もいない。私しかいない。
その思いだけが強く胸にある。
集会所の駐車場には、用意してもらった車が停まっていた。
周りには心配そうに落ち着かない村の人たちが集まっている。
私の姿を見ると、ハッと皆の視線がこちらを見た。
私は出来るだけ落ち着いて見えるように、唇を引き結んで車までを駆ける。
「里ちゃん、三重子さんのこと御願いね。御願いね」
「気をつけてな。麓まではカーブも多いんじゃし」
口々に言う人に、私は今ばかりは雑に頷いた。
はやくはやくはやく。
そればかりが頭にある。
「アタシが付き添うから。みんな、さがってさがって」
松里さんが集まった村の人たちを散らす。
私は運転席に乗り込んで、ガチガチになりながらハンドルを握った。
後部座席に横になった三重子さんの頭を膝の上に乗せた松里さんが、落ち着いて、と声をかけてくれる。
シートベルトをしてからエンジンをかけた。
アクセルを踏むけど、進まない。
あ、ギアだ、と気づいて慌てて入れなおす。
どうしよう、手の震えが止まらない。
上手く入らない。
その私の手の上に、不意に猫の小さな前足が重ねられた。
いつの間に乗り込んだのか、汐が私の手の甲をほたほたと宥めるように叩いていた。
「大丈夫……大丈夫だ、里。落ち着いて。──俺が一緒にいる」
その低く落ち着いたトーンの声に、私は泣き出したいような安堵を覚えて唇をかみしめた。
もう一度、ギアを入れなおして、そっとアクセルを踏む。
するりと夜に滑り出した車は、おっかなびっくり車道へと出た。
私は慎重にハンドルを操った。
ちらとバックミラーを見ると、見送る心配そうな人々の顔が赤いテールランプに照らされて映る。
……託されたんだ、私に。
そう思うと、くらりと眩暈がしそうだった。
気づくと助手席の汐はいつのまにか神主姿になっている。
そうして、私の邪魔をしないようにそっと私の肩に手を置いていてくれた。
……大丈夫。大丈夫。
神様が──汐が、私を見ていてくれる。
ああ、そうか。神様が見守っていてくれるってこういうことなんだ。
見守っていてくれるから、頑張らなくちゃ。
「意識は」
「ないわね。そういえば、この夏の間よく、今年は暑い今年は暑いって言ってたわ。……ずっと、体調がよくなかったんじゃないかしら」
今年は暑いんじゃね。東京はもっと暑いのかい。大変じゃね。
そんな話を何度もした記憶がよみがえる。
三重子さん、我慢してたの。
つらかったなら、なんで言ってくれなかったの。
「はい、里ちゃんは、余計なこと考えない。運転に集中しなさい」
「は、はい……」
思い返して泣きそうになっていたら、見透かしたように松里さんに言われて私は慌ててハンドルを握りなおす。
気を散らしてる場合じゃない。
もっと集中しなくちゃ。
三重子さんの命が私にかかってるんだ。
絶対、無事に病院まで送り届けなくちゃ。
私が前を睨みつけていると、汐が不意に顔をあげる。
松里さんも、ハッとしたように周囲を見回している様子がミラーに映っていた。
私はそれに気を取られる余裕もなかったけれど、ぼそぼそと話す声は聞き取れた。
「……氏康だ」
「ああ、聞こえる」
嵐が去った静かな夏の夜。
聞こえたのは、細く長くどこまでも長く響く遠吠え。
犬神様の声──。
「奴には守らなきゃならない自分の土地があるからな。今夜は動けないんだろう」
「こっちは大過なく済んだけど、氏康のとこはもう住民も少ないからねえ……」
氏康さん。
だけど、それでも三重子さんのこと気遣ってくれているんだ。
犬神様の声の守りに送られて、私たちの車は夜の道をひた走った。
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