第20話 神事の夜の密やかな言問い

 夏の短い夜を彩るのは、少し気の早い虫の音と遠い蛙の鳴き声。

それでも祭殿の周囲は、しんと静まり返っている。

その中で対峙した私と汐は、その静けさのままに無言だった。


 灯火のほのかな暗がりに、じっと私を見つめる汐の姿が綺麗だ。

揺れる炎の色を宿した、黒い瞳。

猫の時は金色なのにね。


「前々から思っていたのだが」


 沈黙を破ったのは、汐の方だった。

無表情に近いような顔つきは、今はほんの少し眉を寄せた困惑と不審とが混ざったような感情をあらわしている。


「里は、猫の姿の俺と人の姿の俺とは別物だと思っていまいか」


「……」


 問いかけに否定は出来なくて、私は少しだけ俯いた。

だって、猫の姿の時はそのまま猫だし。

人の姿の時は、妙に迫力のあるイケメン神主で。

同じと思えと言われても、それは難しい。


 そう思うのだけど、言葉にしようとするとそんな感情の機微は伝えるのが難しかった。

私が黙っていると、汐は私の顔を見つめたまま小さくため息をつく。

ああ、困らせているのだろうか。

そう思うと、申し訳ないって思う。


「……俺は猫でも人でも、中身は変わらない。だから、人の時に猫の時にはしない反応をされると、少し」


 汐は言葉を切って、私をまた真っ直ぐに見た。

それで私は、ひどく胸の奥が痛む気がしてしまう。


「──傷つく」


「……!ご……ごめんなさい」


 咄嗟に出たのは、謝罪の言葉。

傷つくとか告白するのって、勇気が要るよね。

私の態度がそれを言わせちゃったんだ。

そう思うと、本当にすごくすごくごめんなさいと言いたい。


「あと、氏康を可愛がられるのも、腹立つ」


「……」


 あっちはあっちで、犬そのものだから。

ポメラニアンだとしか思えないから。

実家の犬に対するのと同じになっちゃうから。


 だけど、そんな風に感じさせていたんだと思うと何とも言えない気持ちになった。

なにしろ実家で飼っている犬にすら、扱いがぞんざいにされてしまう私なので。

そんなことを言われると、内心、浮かれたくなるほど嬉しかったりする。


「……少しは、お前の氏神に気を遣え」


「はい……」


 顔がにやけてしまいそうになるのを押し隠して、私は頷いた。

それを確かめて、汐は納得してくれたようだった。


 そして、そっと手をあげる。

掌を私に向けるみたいにして、手を、と静かに言った。

重ねろ、という意味なのだと気づいて私の心臓が跳ねる。


 え、本当にこのまま交感するの。

気を遣えとは言われたばかりだけど、猫に対するのとは訳が違うよ。


「……すごく困ることがあるんだけど」


 おずおずとそう言うと、汐は不思議そうに首をひねった。


「困ること?」


「その……私、女子高育ちで」


「うん」


「なんなら、大学でも友達はほとんど女の子で」


「うん」


「……彼氏とかいうものも、もったことがなくて」


「……」


「この距離感に慣れないというか」


 近いです。

と一言で表すことができる筈のことを、口にするのが難しい。

そんなぞんざいな言い方をして嫌われたくないという打算が働く私は、かなりあざといことを言っている気がする。


「……猫の俺は平気で膝の上に抱くくせにか」


「やめてえ……認識を改めてそれを言われると、とてつもないきまり悪さで死にたい……」


「……存分にもだえ苦しめ」


 ひどい言われよう。

だけど、この真逆のこととはいえ、今まで汐に嫌な気持ちをさせてきたんだよね。

そう思うと、ごろごろと一周して転げまわって恥ずかしさを発散したら、おとなしくまな板の上に乗ろうと思います……。


「里……」


 低くて優しい声に呼ばれて、私は思わず目をつむる。

手を──。

そう言われて、うすく瞳を開いた。

何かの誓いのように上げられた手は、逃げないし引かれることもない。

無理強いはされないけれど、断固とした意志でもってそこに在る。

私は戸惑ったのと気恥ずかしいのと、ああもう。

色々な自分に都合の悪いものが綯い交ぜで、なかなか行動できずにいた。


 だけど、汐は急かさない。

ただ待っていてくれる。

それはそれは、長い時間をかけて心の準備をして。

私はぎくしゃくと手をあげる。

震えてしまう掌を、上手くできなくてあわあわと狼狽えながら、重ねた。


 掌同士をあわせると、指先を絡めるみたいに握りこまれてしまって心臓が止まりそうになる。

温かい、てのひら。

真っ直ぐに私を見る汐の眼差しが、近い。

近すぎて、熱を感じるくらいだ。

頬のあたりと、耳元が熱い。


 じわりと滲むみたいな体温を、わけあう儀式。

撫でて、と乞われて何も考えずに猫を愛でていたのとは、意味合いが違うように思える。

これって、今までの儀式と全然ちがうって感じた。

ふれた指先から、溶けていく。

感覚が、それどころか現実の身体自体が溶けていく気がした。


「……」


 しお、と呼ぼうとして溶けてしまった身体からは、声にならなかった。

私という器の奥底、深い場所でつながった気がする。

私を通して汐が人というものと絆を結ぶのと同時に、私もまた神様というものに触れる。


 あらためて理解できた。

交感ってこういうことなのだと。

感覚が現実から離れて、神気のなかをただよう。

落ちていく、落ちていく。

黒々とした闇の底へ。

けれど、その闇は暖かくてやわらかくて、優しく私を受け止めてくれた。


 こんなことは初めてだ。

私は儀式の途中で、受け止めきれなかった感覚に意識を飛ばしてしまった。


 そうしてすべての感覚がバラバラになったみたいだった私の意識が、再構成されて人として目を覚ましたのは、翌朝の事だった。

見慣れた天井は、私の、祖母の家のものだ。


 思考までもが鈍くなってしまっていたけれど、昨夜、儀式の後に連れ戻ってくれたのだと理解はできた。

ゆらゆらと抱き上げられて、運ばれたおぼろな記憶。

それらを反芻しながら、視線だけをあげる。

頭の上から覗き込んでいる黒猫は、私の神様だ。


「……目が覚めたか。里」


 呼ばれて私は、何か言おうとする。

喉が渇いてカサカサで音にならなかったけど。

瞬きをすると、目の端から涙がこぼれた。

何が悲しかったわけでもない、ただ生理的に眩しくてたまらなくて。

生まれたての赤ちゃんは、こんな感じなのかもしれないと思う。


「具合はどうだ」


 低い、いつものバリトンで訊ねられて私は茫洋とこたえる。

今度は慎重に唇を湿らせて、言葉を綴った。


「……筋肉痛で、もはや指一本も動かせません、神様……」


 汐の背後で、松里さんが大声で笑う声だけが聞こえた。

うん、いると思ってたよ。

そっちを見ることもできない。うう、悔しい。

全身が、錆びた鉄の塊にでもなったようだ。


 だけど。

ああ、もしかして。ううん、もしかしなくても。

今までの交感は、手加減してくれていたのね、汐?

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