第19話 蝉しぐれのふる里は夏休みの思い出のように
◇
本格的な夏がやってきた。
あれから氏康さんは、ポメラニアンの姿でたびたび三重子さんのところを訪れるようになった。
隣村にいた頃には犬の姿を見せたことがなかったということなので、三重子さんは彼の正体については全く気付いていない。
よくやって来る、どこかの人懐こい飼い犬だと思っているようだ。
今日も三重子さんの家の庭で、元気に駆け回っている。
犬の姿でいると本性がそちらに引きずられるらしく、見た目はもちろん中身もほぼただの犬になっていた。
私は今日は仕事がお休みなので、三重子さんの家で梅干しづくりを教えてもらっている。
つけた梅を干す最終段階なので、緊張もしてしまう。
ここまできて失敗は許されない。
絶対美味しい梅干を作って、色々と活用するんだ。
それにしても梅干しにこんなに手間がかかるとは思ってもいなくて、教えてもらうたびに驚くことばかりだ。
だけど、これであの三重子さん手作りのおいしい梅干ができるのだと思うと、それだけでよだれが出そうになる。
あのしょっぱくて酸っぱくて奥深い味わい……。
梅雨が明けてからは晴天続きで、少し雨も欲しいところだけど。
この天日に干す作業が終わるまでは、お天気が続いてほしい。
「お昼は、おそうめんにでもするかねえ。里ちゃん、食べていくじゃろ」
「いいんですか。わあい、おそうめんー!」
この辺りはさほど暑さが厳しいということはないけれど、それでも冷たいそうめんは夏の定番だ。
そして三重子さんのそうめんは、本当に美味しい。
なにがいいって、つゆが市販のものではなくて三重子さんのお手製なんである。
これが美味しいのなんのって。
「じゃ、畑に行ってネギと大葉とトマトときゅうり、とってこようかねえ」
畑と言っても、そんなに大きなものではない。
自分が食べる分くらい、と三重子さんが作っているのだけど。
家の裏の日当たりのいい場所に、色んな種類の野菜が育てられている。
その時食べる分だけ収穫して、湧き水にひたして冷やしておく。
おやつ代わりに齧ったりもする。
畑に向かおうとすると、氏康さんはとことことついて来るけど、やはり遊びに来ていた汐は縁側の日陰に寝そべったまま欠伸をしていた。
猫だなあ。
というか私たちが移動するのに気づいてないっぽい。
案の定、収穫を済ませて戻ってくると気づいた汐が、がば、と立ち上がった。
そしてものすごい勢いで駆け寄ってくる。
さらに、野菜の入ったざるを抱えた私の足に肉球パンチが飛んできた。
爪は引っ込んでるけど、痛いよ痛いよ。
「いたい、いたいってば、汐」
訴えても止む気配はない。
はいはい、置いていかれておこなのね。
別に置いていったわけじゃないんだけど、そこはわがまま神様なのである。
氏康さんは、ちゃんと三重子さんのお供してたのにな。
私たちは仕事で来られなかった松里さんの分まで梅の天日干し作業をしつつ、お昼の準備に取り掛かった。
出来上がったおそうめんは、安定のおいしさだ。
つるつるとした冷たいのど越しに、薬味のきいたつゆの味がたまらない。
汐と氏康さんが、すごく羨ましそうに私たちを見る。
まさか三重子さんの前で人型になるわけにはいかない二人は、しばらくお預けだ。
帰ったら、あらためておそうめん作ってあげるから今は我慢しててね。
「今年はいつもより暑さが厳しいねえ」
「そうなんですか?東京からくると、ここらの涼しさってすごいと思っちゃうけど」
「東京ってのは、そんなに暑いんじゃろか。大変なところに住んでるんじゃね」
言われてみれば、そうかもしれない。
こんなに過ごしやすい場所もあるのに、あのヒートアイランドで蒸されてた去年を思うと夢を見てるようだと思う。
今だって、軒先につるされた風鈴をちりちりと鳴らして過ぎていく風は、少しひんやりとしている。
「そういえば明日の夜は贄の祭事の日じゃったね」
「あはは、そうですねえ」
贄の神事は何度か経験するうちに、筋肉痛は少しマシにはなってきた。
身体が慣れてきたのかもしれない。
それでもなかなかにきついので、蓮川さんは祭事の翌日は言えばお休みにしてくれている。
御蔭で何とかこなしているのだけど、老齢の宮司である蓮川さんにお掃除などを任せるのは申し訳ない気持ちになった。
もっと慣れて、ちゃんと翌日も毎回、仕事ができるくらいになりたい。
神事の話をしていると汐は自分の事だと思うのか私の膝の上に上がりたがる。
抱き上げてやると、そこに納まって丸くなった。
「今年の夏は暑いねえ……」
三重子さん、さっきも同じことを言ってたよ。
そう言って笑おうとしたのだけど、ふと見た三重子さんの顔色があまり良くない気がして私は顔を覗き込んだ。
「……三重子さん、もしかしてあまり体調が良くないの?」
訊ねると三重子さんは、少し瞬きをしてから笑った。
「いやだねえ、私も年を取ったもんじゃねえ。なんでもないんじゃけど、同じこと何度も言うてしまう」
たしかにお年寄りって同じ話を何度もすることが多いけど。
私は、ついじっと三重子さんの顔を見つめた。
調子はさほど悪そうではない。
「最近はね、二里ほども歩くとちょっと疲れてしもうて。よく眠れるんじゃよ」
二里とは、約八キロである……。
すみません、私より元気ですね。
「それはむしろ元気すぎかも。そんなに歩くの?三重子さん」
「買い出しに行こうと思うと、そうなってしまうんじゃよ」
田舎だからねえ、と笑う三重子さんは楽しげでもある。
車がないと暮らせないっていうけど、自分の足で出かける元気があるってすごいな。
私は免許だけはあるから、車が欲しいなって思ってるところなのに。
「私……バイト頑張って車を買おうかな」
「車を?」
「そしたら、三重子さんとドライブにもいけるじゃない?」
「ドライブ……!!」
驚いたように言って、三重子さんは目を瞠った。
そして、なんだかそわそわし始める。
「ドライブなんて。そんな、ドライブなんてしたことないんじゃよ」
「楽しいよ、きっと。いろんなところに行けるから」
私がそう言うと、三重子さんは嬉しそうに頬を紅潮させた。
「行ってみたいね。遠いところ……隣村にも行けるじゃろうか」
「それはすぐだよ」
お弁当作って、行こう。ドライブ。
考えただけで楽しそうで、私はバイト頑張らなくちゃと思う。
よし、目標ができた。
お金をためて車を買って、三重子さんとドライブ。
そんな話をしながら、私たちは梅干しの天日干し作業を終わらせた。
帰り際にそうめん食べたさで氏康さんがついて来るのかと思ったけれど、黒いポメラニアンはぴたりと三重子さんの傍から離れない。
その様子に、ああそうかと思い当たる。
さっき体調が良くないのではないかと言ったのを、気にしているのだろう。
……そっとしておこう。
私はそう思って汐を抱いて、三重子さんの家を出た。
蝉時雨が途切れて、里に静けさが戻る。
白い入道雲がもくもくと空を侵食し始める様子を見あげて、帰り道を急いだ。
◇
神事の夜。
私はいつものように祭殿で、それを待つ。
昨日の夕立がすべてを洗い流していったように、空気は澄んでいる。
目が暗がりに慣れた頃、ほのかに揺れる灯火の向こうに汐が姿を現すのも、いつも通りだ。
黒い小さな影は、私が控える下座へとおりてくる。
そして、撫でて、という密やかな懇願の言葉が神事の始まりだ。
初めての日には贄である私の姿を見ようとしてたくさんの山の神たちが詰めかけたものだが、本来は対面する汐と私だけでよいのだそうだ。
なので今宵は他に神様たちの姿は見えなかった。
いつもと同じく、撫でるという交感を行おうとして手を伸ばした私は、直前で黒猫の輪郭が溶けて人の姿に変化するのを見た。
「……」
「……」
私は、神主姿の汐と無言で向き合った。
……え。
ど、どういうこと。
いつもみたいに猫の姿になってくれないと、その、なんだ、困るんですが……。
「……どうした」
「……」
お前がどうした。
い、いやいやいや。
まさか、人型で交感しろということですか。
無理だよ、猫ならともかく人の姿の汐をなでるとか……!
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