第15話 夏が来て神様も雨宿りをする



 梅雨の季節がやってきた。

私は重たく雲のたれ込めた空を見上げて、ため息をつく。


 今日は仕事はお休みで、たまった家事を片付けようと思っていたのだけど、雨ってそういう気分を見事にくじいてくれる。

すくなくとも、洗濯は進まない。

仕方なく掃除でもしようかと立ち上がろうとした。


 その私の足元に伸びたゴムのようになっていた汐が、視線だけを動かしてこちらを見上げてくる。

汐はあの春先の神事以来、なにかと機嫌が良くない。

こうして私のところにやってくるけれど、態度はつんとしたままだ。

一体、何が気に入らないのだか……。


 今も、だらだらと私の横に伸び切って寝転がっている。

私はそんな姿を見下ろして、ムッと眉を寄せた。


「……汐。そんなところに寝転んでいても、今日は色々と忙しいんだから、遊んであげません」


 いつまでもつんつんしている積りなら、こちらにも考えがある。

あくまでクールに言い放つと、汐はぴょこと顔をあげて何かひどく傷ついたような顔をした。


 いや……いつまでも拗ねてるのは、そっちだよね。

思ったのだけど、猫はわがままで気まぐれだ。

びよん、とゴムのように長く伸び切っていた汐は、そのままよく転がる丸太のようにぐるぐると畳の上を転がり始めた。


「にあああ……ッッ!!」


 鳴き方こそ猫だけれど、低音ボイスは変わらない。

そして、ごろごろとものすごい勢いで転がっていき、壁にぶつかって止まった。


「……」


「……」


 そこからどうするのかと思って見守っていたら、ちらとこちらを窺う視線を投げてよこす。

ただし、私が動く気配がないのを見て取ると、今度は反対側へごろごろと転がり始めた。


「なあああああ……ッ!!」


 やはり丸太のように私の足元まで転がってくると、そこでぴたりと止まる。

そして、ちらと私を見上げてくる視線。


「……」


 か……可愛くなんかない。

可愛くなんかないぞ。

神主姿の方を思い出そうとして、私は必死に脳内の妄想を掻き立てる。


 あの姿のままでこんな仕草をするところを想像して、ほら可愛くないと自己暗示をかけた。

見た目だけはイケメンなのに、こんな猫っぽく甘える姿を……。


 ああ、駄目だ。

ちょっと可愛いと思ってしまった。

だって今はどこから見たって、猫なんだもの。


「……仕方ないなあ。じゃ、おやつにしましょうか」


 そう言うと、汐はピンと尻尾を立ててすりすりと私のくるぶしのあたりに身体を摺り寄せる。

どうも拗ねてたのが少し機嫌を直したみたい。

それで私は、本当にしようがないなと苦笑いした。


 足元にまとわりつく汐に気を付けながら、お湯を沸かしに台所に向かう。

しとしとと降る雨は、今はまだ止む気配もなかった。


 里山の梅雨は、少し体の芯が冷えるような気がする。

だから温かい御茶を二人分淹れて、私は囲炉裏端に座る。

ふわりと汐の猫としての輪郭が溶けて、白衣姿の神主汐が現れた。

端然と座る姿は、さっきの黒猫からは程遠いように思う。


 こうしていると、本当に見た目は完璧なイケメンさんなんだけどな。

お茶請けに、三重子さん手作りの梅干しと、頂き物の御煎餅を出す。

神主汐は、ここの御煎餅が好物なのだ。


「……ねえ。何かずっと機嫌が悪かったけど。なんでだったの」


 機嫌が直ったとみて訊ねると、汐は少し眉を寄せた。

思い出すと、面白くはないらしい。


「お前は、俺の氏子だろう」


「……うん」


「なのに、他の土地神に親切にしてやるなどと」


「……」


 あれ。氏康さんとの喧嘩を止めたこと、そういう風に思ってたのか。

なんだか、焼きもちみたい。

思って小さく笑ってしまったら、じろりと睨まれた。


 私は慌てて、顔の表情筋を引き締める。

せっかくご機嫌が直ったのに、また拗ねられたらたまらない。


「別に親切にしたわけじゃなくて、喧嘩を止めたかっただけなのよ。……でも、三重子さんのこと知ってるみたいだったのは、気になるかな。……汐は、何か知らない?三重子さんと氏康さんのこと」


「知らぬ」


 にべもなく言って、汐は横を向く。

でも御煎餅をつまむ手が止まってないから、拗ねてはいないんだと思う。


「三重子さんにも聞いてみたけど、ポメラニアンなんて知らないって言ってたしなあ」


 そう言ったとき、雨音に交じって草を踏む足音が聞こえた。

開け放した障子の向こうを透かし見ると、三重子さんがやってくるのが見える。


 慌てて振り返ると、汐はすでに黒猫の姿に変わっていた。

さすが、素早い。


「こんにちは、里ちゃん。よく降るね。お野菜たくさん貰ったんじゃよ。おすそ分けどうぞ」


 玄関じゃなく、もう縁側の方から顔をのぞかせた三重子さんが、にこにこと笑う。

わあい、今日はサラダにしちゃおう。


 ありがたく野菜の入った包みを受け取って、ふと視線を上げる。

雨にかすむ景色に黒い小さな影が見えた気がして、私は瞬きをした。

おぼろな影は私に気づいたのか、するりと姿を消した。

それでも気配のようなものは、まだ消えていない。


 私はそっと汐を振り返った。

汐は三重子さんの膝の上にのって、頭をなでられている。

満足そうに喉を鳴らしている様子は、特にいつもと変わらなかった。


 私は少しだけ考えて、縁側からおりる。

軒下に置いてあったつっかけで、庭に出た。


「三重子さん、私ちょっと宅配の受け取りに行ってきます。少しだけお留守番してて」


 声をかけると三重子さんは、はいはい、と笑って頷いた。

私は立てかけてあった傘を手にして、外へと続く小道を行く。


 さっき影が見えたあたりで、きょろきょろと周りを見回す。

道の脇の桜の下に、小さな黒い影が悄然と佇んでいるのを見つけた。


 桜はもう緑濃く葉を茂らせて、その小さな姿が雨宿りをするにはちょうどよさそうだった。

逃げるかな、と思って足音を忍ばせて近づいてみる。

でも私に気づかなかったか、小さな犬は逃げることはなかった。

汐といい、神様って意外と周りの気配に鈍感なのかも。


 そっと傘をさしかけてみる。

桜の葉が雨を遮ってくれてはいたけど、ぱたぱたと傘に降りかかる雨音が強くなって、氏康さんが顔をあげた。


 私の姿を見つけて、びくっと震える。

なにその、トラウマっぽいものに遭遇しましたみたいな反応。

私は精一杯、笑顔を作ってみた。


「……こんにちは。三重子さんに会いに来たの?」


 訊ねると硬直していたポメラニアンは、ゆるゆると緊張を解いていく。

そして、ふんと鼻面をそらした。


「生意気な人間が。話しかけてくるとは不遜だな」


 神様って、口先だけは何か上から目線なのも共通なのかな。

でも見た目がポメラニアンなので、威圧感はほぼない。

私は氏康さんの隣に並んでしゃがんだ。

彼を見下ろして、にやりと笑って見せてやった。


「……抱っこするぞ」


 低く脅すと、氏康さんはキャインと鳴いて後退りした。

あ、やっぱり、この間の抱え上げたのがトラウマなんだ。


「き……貴様には神に対する畏敬の念とかが」


「ないよ」


 私はきっぱり言った。

だってもう、汐に慣れてしまって神様なにするものぞ。

人型の時はともかくとして、むしろもう扱いは猫だもんね。

すぐ拗ねるし、かと思うと甘えん坊だし、そのうえ気まぐれでわがまま。


 私は氏康さんの顔を覗き込むようにして、かくりと首を傾げる。


「どうせ雨宿りするなら、うちにきませんか」


 言うと、氏康さんは硬直した。

おお、固まってる固まってる。


「泥だらけで気持ち悪いでしょ。温かい毛布くらいは提供できるけど」


 どうかな?と訊ねると、ポメラニアンはしばらく無言だった。

いや、人語を話している方が異常なんだけども。


 じっと、雨音を聞きながら待つ。

すると根負けしたみたいに、長くため息をつかれる。

犬もため息つくんだ。


「……少しだけなら」


 こたえて、小さな黒いポメラニアンはつんと鼻面をあげた。

行ってやってもいい、なんていう生意気な物言いは改まらなかったけど。

私は破願して、立ち上がった。


「荷物を受け取りに行くのに、少しだけ付き合って……ください。神様」


 付け足すと、氏康さんは重々しく頷いた。

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