第13話 夢の中の祭は神様たちの世界
◇
あたりは明るくて白い靄のようなものに包まれていた。
私はふわふわとした足元の感触に、おっかなびっくり歩いていく。
それはやがてピントが合っていくみたいに、草を踏む感触と、桜の花のピンク色に変わっていった。
瞬きに閉じた瞼の、開いた瞬間、景色が一瞬で変わる。
春の温かさを含んだ風が、頬をなでていった。
広々とした緑の丘。
そこに枝垂桜の古木。
緋毛氈が敷かれて、野点傘があちらこちらに立てられていた。
けれど用意されているのは御茶ではなくて酒器のようで、ふわりとお酒のいいにおいがする。
風は、はらはらと舞い落ちる桜の花びらをどこまでも運んでいく。
それを胸一杯に吸い込むと、春の香りがした。
あたりには、思い思いに宴を楽しむ山の神たちの姿がある。
「里ちゃん。こっちこっち」
呼ばれて振り向くと、松里さんと人型になった汐とがいた。
私は、どこか夢見心地でそちらに向かう。
普通にパジャマで寝たはずなんだけど、私はいつのまにか巫女装束をまとっていた。
「こんばんは。……あれ、こんにちは、なのかな」
あたりは昼間のようだけど、時刻はどうなっているのだろう。
今は真夜中の筈だけど。
「どっちだって、いいじゃなあい。お酒があれば、それはいい時間よお」
松里さん、もう酔ってるのだろうか。
さあさあ、と杯を持たされて片口からとろりとした透明なお酒を注がれる。
すこし甘い、いい匂い。
一口含むと、きりっと冷えていて、それでいて柔らかい口当たりの美味しいお酒だった。
日本酒って、こんなに美味しいんだ。
ちょっと、シャンパンみたいに気泡がある。
「美味しい……」
「でしょお。さ、じゃんじゃんいっちゃって」
片口からは、いくらでもお酒があふれてくるみたいだった。
松里さんは、すごい上機嫌である。
汐は酔った様子はないけど、それでもクイと杯を干す。
私は飲むほどに気持ちよくなっていくみたいだった。
このお酒だと、悪酔いとかしなさそう。
おつまみは木の実などの簡素なものだけど、塩加減がちょうどよくって、ついお酒が進む。
「山の神の春の祭はねえ、秋の豊穣を願うのよ。だから田植えの前あたりね」
「ちゃんと意味があるお祭りなんですね」
「メインは、猫神の奉納舞ね」
「奉納……てことは、もっと上の神様がいるんですか」
「そうそう。神様の間にも格があるのよね」
アタシはほとんど無視してるんだけど、と松里さんは笑う。
そういえば、汐にも横柄だったりするよね。
遠慮がない間柄といえば、そんな感じではあるけれど。
汐は杯を置いて、すらりと立ち上がった。
私を見て、少し笑うと手を伸ばしてポンと頭をひと撫でされる。
あ、笑ったところをはっきり見たのって初めてかもしれない。
端正な面差しは、笑うと途端に華やかだ。
「……見ておれ」
言うと、汐はしずしずと桜の下へと足を運ぶ。
能舞台とかを見ているみたい。
所作がしなやかな優雅さで、私はお酒のせいもあってうっとりと見惚れていた。
……一陣の、風。
それが通り過ぎると、汐の衣裳がいつもの白衣から、平安時代の貴族みたいな装束に変わっていた。
どこから響くのか、楽の音があたりを満たす。
汐はゆっくりとした動作で、装束をさばく。
す、と扇を持つ手があがる。
私がよく知るような、激しいリズムのダンスとはまるで違う動き。
猫特有のしなやかで、ゆるやかな動きで腕が弧を描く。
くるりと巡った袖が、装束の裾が、散る花びらにも似た様子で宙を舞う。
その一幅の絵のような光景を、私は息をすることすら忘れて見入った。
重力を振り切ったように、汐は舞う。舞う。
くるりくるりと、ふわりふわりと。
やがてすべての舞の終わりに、桜の下に端座する姿まで。
所作の何もかもが美しかった。
「これが……神様の舞」
ほう、とため息交じりに呟くと、松里さんが綺麗でしょう、と自慢げに言う。
「踊りの苦手な神なんてのもいるけれど。猫はとにかく、動きが優雅だもの」
「うん、すごく綺麗だった……」
舞を終えて、汐が私たちのいるところに戻ってくる。
綺麗だったよ、と声をかけた。
ちょうど、その時だった。
ずず、という地鳴りが響いた。
次に、ずしん、と重い地響きが辺りを揺るがす。
「……!!」
「……ッ!?」
小さな動物の姿の神様たちなどは、その揺れで飛び上がった。
え、なにごと!?
夢の中だっていうのに、地震!?
宴を台無しにする、その響きが何なのか。
確かめようとして見回した視線の先に、人の姿があった。
大昔の甲冑みたいなものを身に着けた、背の高い人。
時代劇なんかで見る、侍のように見えた。
誰?なにもの??
私が戸惑っていると、汐が低く呟いた。
「……氏康」
汐の呟きに私は瞳をパチパチと瞬かせた。
初めて聞く名前だ。
うじやす?
響きからして、戦国武将の名前みたい。
それとも、パッと見た姿が昔の侍のように見えたからそう思ったのかな。
「氏康……。近くの別の土地の神よ。本性が犬だからか、汐とは仲が良くないの」
私がキョロキョロとしていたのを見たからだろう、松里さんがそっと耳打ちしてくれた。
別の土地の神様か。
それであんなに偉そうなのね。
だけど、そんな神様がどうしてこの土地の祭に来たんだろう。
侍姿の神様は、どん、と汐の前に片足をつく。
桜の下、舞のための装束のままな汐と対峙する姿は、祭事の続きのようにも見えた。
「やい、猫の」
惚れ惚れするような低音が、朗々と響き渡る。
神様って、みんな声は低音なのかな。
汐とタイプは違うけれど、いい声だなあ。
「贄を得たそうだな。それでいい気になってるんじゃねえぞ」
脅しにしか聞こえない物騒なセリフに、私はハラハラする。
だってこの神様、やたらと長い刀を背負っていたりするし。
喧嘩になったらどうしよう。
対する汐は、ちらりと視線を上げて侍を見た。
けれど、ついと鼻先を背けるように横を向く。
見事にスルーされて、侍は鼻白んだ。
猫と犬の喧嘩ってこんな感じがする。
上から見下ろして涼しい顔の猫と、吠え掛かる犬。
「うじやす……って、何か戦国武将みたいな名前だけど。何か関係があるんですか?」
ひそひそと松里さんに訊くと、彼は珍しく神妙な顔つきで頷いた。
他の神様たちはみんな、固唾をのんで汐と犬の神様とを見つめている。
「北条氏康……あの顔の傷、見えるでしょ。あれは向こう傷っていって敵に背中を見せないって意味の傷なの。本物の北条氏康も、顔にふたつの傷があったと言われてるわ」
「むこう傷……」
すごく武闘派っぽい御話に、私は緊張した。
そんな、汐なんていかにも猫っぽくて勇猛とかいう言葉からは遠いのに。
そんな乱暴そうな神様を相手にしたら、きっと大変なことが……。
そんな心配に重ねるかのように、松里さんが重々しく言った。
「おもに、汐の猫パンチでついた傷よ……」
「……」
汐……手加減してあげて。
よくよく見ると、氏康さんは古いものから新しいものまで傷だらけだった。
あれを全部、汐が……。
「で……でも、犬なんだったらやっぱり本気を出せば強いんでしょう?」
軍用犬とか警察犬とか、人間より強いって聞くし。
私が言うと、松里さんは沈痛な面持ちで俯いた。
「そうね。氏康は野犬の群れのボスから成りあがった妖怪よ。強さは計り知れないわ」
「野犬……」
今の時代、街中で野犬を見かけるなんてことはほとんどない。
それでも、それが危険な存在なのだろうということくらいは、私にもわかった。
ぞっと足元から恐怖が這い登ってくる。
大丈夫なの、汐……。
見守る先、猫の神様と犬の神様の間には、ただならぬ緊張の糸が張りつめていた。
どちらも、一歩も譲る様子はなくにらみ合う。
「祭事の邪魔をしにくるとは。覚悟はできていような」
低く、汐が威嚇する。
けれど氏康さんは、臆せず肩をそびやかす。
「お前こそ。俺と戦う覚悟はできているのだろうな」
氏康さんが言うやいなや、汐の姿が溶け、黒い猫に変化する。
ぐる、と不穏な喉の音が大型の肉食獣のようにあたりに響いた。
それに呼応するように、氏康さんの姿も溶ける。
四つ足の獣に変わった姿が、汐の前にあった。
「……!!」
ざわ、と。どよめきにあたりの空気が揺れる。
そこに居たのは、汐と同じ黒い獣。
けれど見た目は全然ちがう。
「……とうとう本性をあらわしたわね、氏康」
「……」
そこに居たのは、黒い獣。
どう見ても、小型愛玩犬。黒いポメラニアンだった。
「……えっ……ちょっ……え、あ……?」
ギャップのひどさに、私の言語中枢が不安定になる。
野犬の群れのボス……ポメラニアン?
たしかに威圧感はあるけど。
オーラは十分にあるけど。
見た目がギリギリでアウトじゃないかな……。
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