第9話 儀式の夜に神様たちは集う



 翌日の日中の仕事は滞りなく終わった。

春先、ずいぶん長くなり始めた陽が落ちて社は静謐に満ちる。

祭殿に蠟燭の明かりがともされ、暖かい色をした光がほのかに辺りを照らした。


 揺れる炎が、少しだけ不安をあおる。

蓮川さんは、祭殿の中には入らずに入り口に正座した。

神事の贄役の巫女以外は、中に入ってはいけない仕来たりなのだという。

私は御神酒の用意された空の首座を前に座った。


 開け放たれた入り口扉の向こうで、蓮川さんが祝詞をあげる。

かしこみかしこみ、という呪文のようなものだ。

老齢の蓮川さんがあげるそれは、少し錆びた声が落ち着いていて心地よい。

聞いていると、少しずつ少しずつ不安だったのが薄れていく。


 祝詞をあげ終わると、それだけで儀式自体もおしまいのようだった。

蓮川さんは、一時間ほど経ったら明かりを消して帰っていいからと言い置いて、社務所に戻っていった。


 私はひとり、祭殿の静かな闇の中に取り残される。

炎の揺らぎが、ひどく眠気を誘う。

昨夜は緊張して、神事の事ばかり考えてしまったせいであまり眠れなかった。

そのせいだろうか、少し寝不足だった。


 気付けば、舟をこいでしまっている。

かくん、と前のめりになってしまうたびにハッとして姿勢を正す。

ぺちぺちと自分で自分の頬を叩いてみたりするのだけど、しばらくするとまた眠気が込み上げる。


 神事なのに、もっと真面目にしてなくちゃだめだ。

そう自分を𠮟咤するのだけど、睡魔ほど抗いがたい魔物はいない。

重くなる瞼が、視界を一瞬で闇に変える。

もはや、落ちていく意識を引き留めることもかなわない。


 私は板敷の上に、ゆっくりと身を置くように倒れていく自分を自覚した。

硬いはずの床は、なぜだか柔らかく私を受け止めた。





 そして、意識を取り戻すまでにどのくらいの時間がたったのか。

私は、何度も瞬きをした。

周囲が闇ばかりだったからだ。


 たしか、蝋燭の明かりは消していない。

そう思ったのだけど、周りは暗かった。

まさか、蝋燭が燃え尽きるほどの長時間居眠りをしてしまったのかと思って、私は焦った。


 早く起きて、片づけをしなくちゃ。

なにより神事で寝てしまっただなんて、慣れていないバイトとはいえ神様に申し訳がたたない。


 だが床に突っ伏すような形で倒れこんでいる私の身体は、ぴくりとも動かせなかった。


「……ッ!?」


 私はそれだけは動かせた視線をあげて、外をうかがおうとした。

入り口はたしか、蓮川さんがあけ放したままにしてあったはずだ。

だが扉はぴたりと閉められて、外の月明かりが白い障子紙を透かしてほのかにひかる。


 その四角い枠に、黒くいくつもの生き物の姿が影となって見えた。

それは獣の形をしていて、私を取り囲むようにぐるりと輪を作っている。

黒々とした獣たちの影がわだかまるようにして、息をひそめていた。


「……!!」


 私は恐怖で凍りつく。

いったい、どこから入り込んだのだろう。

闇に慣れてきた瞳には、かすかな月光をはじいて金色をした獣の瞳が何対も見えた。


 なんなの、これ。

何の危険もない神事だと聞いていたのに。

逃げなくちゃ。

ただ震えながらそう考えた。

自由にならない身体を、渾身の力で立ち上がらせようとする。


 だけど、意識ははっきりしているのに身体は全く自由にならなかった。

助けを求めようにも声も出ない。


 ……嘘でしょう。

そう思った瞬間だった。


「逃げられないよ……」


 どこか笑いを含んだような声が響く。

周囲に人の気配は感じなかった。

少なくともこの状況で人が近くにいるなら、異常を感じて声をあげるなりなんなりしてくれるはずなのではないかと思う。

だけど、感じるのは獣の息遣いと気配のみ。

じわじわと私を取り囲んだそれらが輪を縮めるのが分かった。


 ……怖い。助けて。誰か。誰か。

おばあちゃん。お父さん、お母さん……。

半分泣きだしそうになりながら、心で念じる。

その時だった。


「……よせ」


 低く響いた制止の声に、私は瞳を見開いた。

聞き覚えがある声。


「お前が食わないなら、俺が食っちまうけどいいんだな」


 笑い含みの声は、そう制止した相手を脅す。

息を呑むような間があいて、制止した声が駄目だ、と呟く。


「じゃあ、さっさとやっちまいな。お前だって、もう飢えて飢えて仕方ないはずだろ」


「……」


「命まで取ろうってんじゃないんだ。何を遠慮することがある」


「……」


「さあ、やれよ」


 低い声の方は、苦悩するように黙り込んだままだった。

だけど、意を決したように影がひとつ動いた。

黒い小さな影。

金色の瞳をした──猫。


「……ッ……ぉ……」


 私は声を振り絞った。一歩、また一歩と近づいてくるのは、闇に溶け込んで黒い猫。

でもかすかに輪郭だけは分かった。

ピンと立った尻尾が、ふたつに割れている。


 ……汐。

心で呼んで、私はぎゅっと目を閉じた。

ぺたり。小さな肉球が私の手首のあたりに置かれる。

そのやわらかな感触。


「言えよ。欲しいんだろう」


 煽るように声が言う。

それに汐はぐるると喉を鳴らして威嚇する。

けれど抵抗はそこまでだったようだ。

項垂れるように小さな頭を項垂れて、汐は小さく何かつぶやいた。


「な……」


「……?」


 な……って、何。

小さすぎて聞き取れなかった言葉。

いやそれより、汐が人の言葉を話しているんだと気づいて、私は戦慄する。

そんな馬鹿な。


「小さくて聞こえない!」


 打つように容赦なく、もう一つの声が叱咤する。

汐はそれに、また苦しそうに喉でグルルと鳴く。


「……っ、な……な……て」


「もっとはっきり!」


「……」


 ……これ、なんのパワハラ?

言え、と強いる声に汐は抗おうとしている。

しかしやがて、汐は膝を屈した。

屈辱に震えながら誇り高い野良猫は、叫ぶ。


「撫でて……ください……ッ!」


 あ、はい……。それを言うのが嫌だったのね。

納得してしまって、私はなんとも微妙な気持ちになった。


 ふと、身体が自由になっていることに気づいて、私は半身を起こした。

目の前には屈辱に打ち震える黒猫がうずくまっている。

訳が分からないままに、手を伸ばして汐の身体をそっと撫でてみた。


 手の下で猫の身体が強張りを解いていき、ふにゃと柔らかくなっていくのが分かった。

同時に力強く、何かがみなぎっていくのも。


「汐……あなた、何者なの?人の言葉が話せるの……?」


 混乱したまま訊ねると、私の背後で何かが動く気配がした。

ぎょっとして振り返ると、消えてしまっていた蝋燭に火をともす松里さんの姿があった。


「……えっ!?」


「お疲れ様、里ちゃん。儀式はこれで終わりよ」


 明るくなった室内には、たくさんの山の獣の姿があった。

イノシシ、犬、イタチ、ねずみ、ハムスター。

いや、ハムスターは何か違う気がするけど。

あ、あそこにいる狸ってここに来た日にバス停近くですれ違った狸じゃないかな。


 とにかく、たくさんの動物たちに囲まれていて、私は呆然とする。


「あの……これは一体……」


 何から訊ねればいいのだろう。

松里さんは、いつものように、にこにこしている。


「ここにいるのは、贄の生気のおこぼれをもらいに来た山の神たちよ。と言っても、もう人型になれるほど霊力が強いのは、アタシと汐だけになっちゃったけどね」

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