色褪せない夢の話
柴犬美紅
第1話
やけに現実味を帯びていて、何年経っても思い出せる忘れられない夢を見たことはあるだろうか?
私にはある。何気ない日常を過ごしている時、ふと思い出す夢。
その夢を見た日、前触れのような物語を読んだり話を聞いたなんてことは一切ない、普通に生活して普通に眠った日に見たもの。
【私】として見た景色、思考、願い、全てにおいて今なお忘れられず思い出せる、10年以上前に見た夢、もしくは、誰かの記憶かもしれない話。
始まりは、木製の小屋で正座しているところだった。昼も夜もわからない積み重なった木々の隙間から入る太陽の光で、昼か夜かを判別するしか出来ない狭い部屋だ。そんな薄暗い中でも、夢だからか自分の姿がはっきりと見えた。紫色の新品で上等な着物を着て狭い部屋の隅で正座していた。どうしてそんな質素な部屋で高い着物を着ているのか、夢の中の【私】は今自分がどういう状況かきちんと知っていたからか動揺していなかった。
【私】は悪いことが起こるととある風習でそれを鎮めようとする村に生まれ、【私】は今、生贄を閉じ込めるための小屋にいるとわかっていた。普通なら嫌だと思うだろう、しかし【私】は自分が生贄になるために生まれてきて、自分が生贄になることで人々が救われるのだと何故か知っていた。確実な未来がわかる感覚については説明しづらいのだが、物心ついてからずっとそう思って生きていて、誰かにそう言われて育てられたわけではなかったことは確かだった。
幼い頃から悟りを開いたような態度だったようで、両親と村人からは微妙に敬遠されていたらしい。小さい戸口から食事を差し出される時以外誰もこの小屋に近づかなかったらしいが、寂しさという感情は全く感じなかった。どちらかといえば、心静かに村の平穏を願い続けていたようだ。
外の喧騒からして、今日が【私】の人生最後の日、生贄として捧げられる日だと思って、これまでの自分の生きていた日々を思い出し、いつものように平穏を願って心を静めていると、滅多に開かない出入り口用の扉が半分だけ開いた。何だろうと思ってそこを見ると、男が顔を覗かせて手招きしていた。
夢のせいで顔は朧げでわからない。しかし【私】は彼のことを知っていた。村人の1人で【私】と同い年、よく遊んだり話をしたりしていた唯一の男性だった。
【私】が小屋に入ってから一度もここに来なかったのに、何かあったのかと不思議に思って近づくと、そのまま彼は【私】の腕を引っ張って小屋から出したのだ。
「どうした?村に何かあったのか?」
「此処から逃げるんだ、村を出るんだ。」
彼は【私】にそれだけ言って、背を向ける。離さないように腕を掴んだまま、慎重に長い草木に身を隠して村から充分に距離を取ると一気に獣道を走り始めた。
初めて此処が山道の中にある村だったことと、空の色が薄紫色と朱色の混じったような色で、朝方に近い時刻だと【私】は知った。
着物のせいで走るのが大変だが抵抗せずついていくがままの【私】。必死に走る男の背中を見ていて、小さい頃から彼が【私】と夫婦になろうと言っていたのを思い出した。【私】はその時から既に生贄になって早くに死ぬんだと知っていたから、夫婦になれないと伝えていたと思う。
でも彼は諦めていなかった。生贄の風習がない山を超えた何処かへ【私】を連れて行こうとしていた。本当に結婚して夫婦になって、一緒に生きるために。
しかしそんなことをしたら村は不幸になってしまう。そんな予感が過ぎって、【私】が戻ろうと声をかけた、でも彼は振り向かなかった。
「もうすぐだ、村から離れられる、絶対に諦めるな!!」
【私】を生贄に戻すまいと必死に走る姿と声、腕を掴む強い力、男の背中に、彼のことがずっと好きだったのだと今更思い知った。彼は村の中で変わらず【私】と絆を深めようとしていたし、村のことを語る【私】の話を真剣に聞いてくれたかつての過去も思い出す。それこそ、夫婦になりたいと思うくらい好きだったと気づいた。
けれど【私】は村の為に今死ななければならない。そういう星の元に生まれたなら従わなければいけないから村へ戻ろうと伝えようとした時、後ろから男達の野太い声が近付いてきた。
「生贄も殺せ!!」
「追え!!殺せ!!」
そんな意味を持った言葉が聞こえたから後ろを向くと、村人の何人かが黒い棒を持って走ってくるのが見えた。猟銃がこっちを向いている。このままでは彼も巻き添えになる。
私は咄嗟に、男を前へと思い切り押し飛ばした。
掴まれていた腕が緩んで離れ、男の姿勢が倒れるように前へつんのめる。押し飛ばした【私】の身体、ちょうど左側の腹部に何かが入って、抜ける衝撃がした。痛みはなかったがその強い衝撃に自分の死を悟った。振り向いた彼が、傾いていく私の身体を見て驚いた顔をした。
(ああよかった、生きている。)
怪我一つない男の姿を確認した【私】は、安心して、嬉しくて笑ったと思う。ただ【私】自身は大丈夫ではなかった。ドラマでよくあるスローモーションがかかった感覚で、身体は浅瀬の川へ倒れ込んだ。着物に水が染み込んでいくのを感じる。生贄として捧げられた日は寒さが厳しい時期だったようで、身体がどんどん冷たくなる。
(私は此処で、死ぬのか。)
流れる水の飛沫が顔にかかる感覚まで繊細に感じても、元々霞かかっていた視界が余計霞んで、何も見えなくなるまで時間は掛からなかった。
【私】を連れ出そうとした男が【私】の名前を叫んで、近付いてるような気配を感じた時、【私】の最後の感情が強烈に流れ込んだ。
(ああ神様、彼を幸せにしてください。)
死ぬことへの恐怖は一切なかった、誰かのために死ぬこと自体が初めてじゃないような気がしたからかもしれない。しかし、死んで己の本懐を遂げられ、愛する人の幸せが約束された、その未来に喜びのような、幸せと呼べる気持ちで満たされたのは初めてだった。
その気持ちのまま、【私】は祈った。
(私の命は約束通り捧げられました、私を連れ出そうとしてくれた彼は何も悪くない、どうか咎のない幸せな一生を与えてください、平穏を叶えてください。どうか、どうか……。)
目の前が真っ暗になるまで、現実の私が目覚めるまで、【私】はずっとずっと、祈り続けた。
色褪せない夢の話 柴犬美紅 @48Kusamoti
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