第3話 バルタザール・ジェラール

 バルタザール・ジェラール。


 その名は、護衛官の誰も聞き覚えの無いものだった。


「恐らくは小物だろう。金欲しさの暗殺者だと思う」


 スペイン軍の息の手のかかった著名な暗殺者の名前ではないし、名の通った武人にも聞かない。軍の経験も無さそうだ。敵の将官としても記憶がない。


「偽名かもしれない。謁見者や陳情者として、初見の男が来たら、厳重に注意して荷物を改めよう」


「陳情者に紛れてくるのでしょうか?」


 フュヨンの疑問はもっともだ。彼は、まだ一度も暗殺者を見たことがない。


 我々が捕まえた過去の暗殺者は全員、陳情者と偽って接近してきた。


 ジョレギュー事件以来、暗殺者は、オラニエ公に近づくには陳情者が一番手っ取り早いと気付いている。恐らく、今回もその手で来るに違いないし、それ以外の方法が思いつかない。


 なにせオラニエ公の身の回りは、ほぼ顔見知りばかりだ。暗殺者の入り込む余地はない。


 また陳情者以外の人間は、プリンセンホーフ君主の館に近づけたとしても、我々を介さずにオラニエ公に会うのは公の家族以外に方法がない。


「そいつが単独なら、接近するには陳情者が一番やりやすいだろう。もしも複数なら屋敷を襲う。だが、謁見室と寝室は狭い通路の先だ。大量に人数が押し寄せるのに適さない。我々が盾となれば、オラニエ公は逃げのびることが可能だ。それ以上の人数でくるのなら、ここに近づく前に分かりそうなものだ」


「はあ、さようですか」


 フュヨンは納得しきれない顔をしていた。


 そこから二週間経ったが、我々の警戒が強まったことを察知したのか、バルタザールという男は現れる気配を見せなかった。


 護衛官たちはフュヨンの情報を疑ったが、緊張の糸を解くことはなかった。情報の真偽を確かめる方法は乏しかった。


 その間のオレニア公は精力的に陳情者との謁見をしていた。いつ死んでも悔いのないようにと言わんばかりに、今までよりも数を増やし、一人でも多くの陳情者に逢おうとしていた。


 お蔭でこちらの苦労は果てしない。全ての陳情者の持ち物を調べ、訪問の意図を聞き出し、常時陳情者の後方に立ち続け、何か疑わしい動きをすれば、抑え込む。


 これには、陳情者が閉口したが、我々としても暗殺者の情報がある以上、納得してもらうしかなかった。


 オラニエ公はそのような過密な陳情の合間に、更に公的業務をこなしている。殺人的な忙しさだ。


 このままでは、暗殺者に殺される前に、仕事で殺されるのではないか。たまには休んでいただきたいと願い出ると、オラニエ公は一笑に付した。


「私は忙殺されるために仕事をしているのかもしれないよ。それ位がちょうどいいんだ。私のために誰かが死ぬよりもね。そういえば、ローデヴェイクは、ハールレムに所縁があったんだっけ?」


「はい。祖父の弟が、役人をしていたらしいですね。あまり私と関りはないのですが、ハールレムに立て籠もった一人だと聞いています」


「そうか。私は、ハールレムに私の友人を送り込んでいてね。それを私の力不足で見殺しにしてしまった。ハールレム落城以来、その友人が私の仕事を見つめている。このネーデルラントを死ぬ気で救え、とね。だから私は、積極的に動くことにしたんだ。もしも、その忙しさで死ねるのなら、我が友、リッパーダも許してくれると思うよ」


 そう言って笑う。


 確かに、遊んでいられないかもしれない。それ故に、危うさを感じずにいられない。もしも、オラニエ公を失ったとしたら……


「ははは。大丈夫だよ。私がしているのは、意思を植え付けているだけだ」


「それはどのようなことですか?」


「なんというべきかな……。みんなに夢を見てもらいたいんだ。決して私への忠誠心が欲しいのではない。新しい神の国を作りたいわけでもないんだ。みんなが『誰からも怯えずに暮らせる国』が、ひとつ欲しいだけだ。その為に、この地の者の知恵とお金を集めようというだけのことだ。たいした野心ではないよ。もし私が死んでも同じ夢を見るものが必ず現れるはずだよ」


「それは、たいした野心ではありませんか? 国造りですよね?」


 その言葉に、一瞬、オラニエ公は戸惑い、そして再び大声で笑った。


「そうか。確かに、見たことがない国の国造りだな。私は大した野心家なのかもしれない。それは命も狙われるわけだ」


 ようやく、自分の立場に気付いたようだ。


 それから数週間経っても、そのバルタザールという男は現れなかった。


 私は、フュヨンがその噂を聞いたという街の酒場まで出向いたが、バルタザールの噂も、そのフュヨンがその噂話をしたという男にも巡り合えなかった。


 時が経ちすぎているのかもしれない。警戒を強めたのを知られたのか。もはや、この街から逃げられた可能性もある。


 しかし、そのような気の緩みこそが、暗殺者の一番狙う瞬間だ。


「門番と下男には短銃を持たせようと思います」


「構わんよ。ああ、そうだ。フュヨンも、もうフランスに帰そう。危険に巻き込むわけにはいかん。いつ暗殺者が来るか分からないんだろ? 今日まで尽くしてくれてありがとうと伝えてくれ」


 オラニエ公の計らいで、フュヨンには、報酬とフランスまでの旅の路銀が与えられた。


 フュヨンは、せめてその暗殺者が現れるまではと渋ったが、亡きフランス王弟の兵を巻き込むわけにはいかない。もしものことがあって、フランスに叱られるわけにはいかない。


 またオラニエ公は思ってなかった様子だが、フュヨンの身に何かあって、オラニエ公が助かった場合、フランスに無用の恩を売られるのも避けたかった。


 侍従武官が考えるべきことではないが、フランスなら言い出しかねない話だ。


 フュヨンも最後には諦め、それから数日こそ滞在したものの、その間にもらった報酬を使って、わざわざ服を新調し、髪を切り、身なりを整え、オラニエ公にうやうやしく最後の別れの挨拶をした。


 オラニエ公の厚恩に感謝し、オラニエ公の身辺警護をした唯一のフランス人として、胸を張って帰っていった。名残惜しそうに何度もこちらを振り返っては手を振るのを、公と私が笑って見送った。


 フュヨンがいなくなると、すぐに門番と下男に短銃が配られた。


「もしいざという時は、相討ちを厭わずに撃て」


 その大きな銃声がするだけで、オラニエ公は逃げることができる筈だ。


 そして私は単独でバルタザール・ジェラールという男の情報を街で集めた。幸い、この日は、週に一度の「陳情者のいない日」だった。


 怪しいものが屋敷に近づけない日だ。ここを警護するより、この街に潜伏している奴を探したほうが合理的だった。


 すると、ひょんなところから、バルタザールの情報が入ってきた。




★★★

 話が長くなったので二回に分けました。

 最終話は本日中に投稿いたします。

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