第2話 プリンセンホーフ(君主の館)
せめて、護衛しやすい場所で、人の出入りを厳密に管理できる場所。
それがオラニエ公に要求した私のたった一つの願いだった。
「ここも気に入っているのだがね」
と、それまで使っていた場所を名残惜しそうに見つめた。食堂は広い庭に面しており、大きな窓と、どこからでも出入りできる構造は、暗殺者に好都合すぎた。
「いえ、引っ越していただきます。それだけは、ご容赦ください」
「引っ越しさえすれば、今まで同様、陳情者に会っても構わないかね?」
「そ……れは、もう、致し方のない事ですが、せめて週に1度は、陳情者を入れない日をお作りください」
陳情者の話を聞くのが、オラニエ公の生きる道であり、神命なのであろう。神が彼をどのように導くつもりか分からないが、ネーデルラントをここまでまとめ上げた功績は、この陳情者の声を聞く姿勢から生まれているのは確かだ。
この戦いに無関心を決め込んでいたアムステルダムも、オラニエ公との対話の中から、味方をすることを選んだ街のひとつだ。それが、このネーデルラント北部州をまとめたユトレヒト同盟の成立に大きく寄与したのは間違いない。
確か、醸造家か造船業をやっている若い男が、積極的にオラニエ公と市の代表との対話に導いたと聞く。
もはや、ネーデルラントの最強の武器は、このオラニエ公の「対話力」にかかっているとも言える。
その為にも、陳情者との対話を前提とした屋敷を探す必要があった。
おあつらえ向きの、捨てられた屋敷がすぐに見つかった。カトリックの修道院だ。窓も少なく、玄関に入ってすぐにホールがあり、執務室まで距離がある。また、謁見の場所も二階にすることで、集団による襲撃を躱せられる。いざとなれば、二階から逃げることも可能だ。問題はカトリックの建物にオラニエ公が入ることだった。
「私はいいんだ。私はカトリックだからね」
オラニエ公は、そういたずらっ子のように笑った。
そうだった。
この方はプロテスタントの為に戦いながら、決して自分がプロテスタントになろうとしない男だった。それどころか、ここまで尽力したネーデルラント北部州の統治者になろうともしない。つい最近まで、フランス国王の弟に、統治してもらえないか検討していたくらいだ。
私利私欲のための戦いではないと強調したいのかもしれない。
私利私欲のための戦いを起こした、スペイン国王フェリペ二世との違いを明確にする為なのかもしれない。
フェリペ二世と、オラニエ公は、かつての友でもあった。フェリペ二世の父、カール五世の若き右腕がオラニエ公であり、カール五世はオラニエ公を高く評価しているだけでなく、フェリペ二世の統治体制に必要不可欠の男と見ていた。彼なくして、フェリペ二世のスペイン統治は危ういと考えていた節がある。
オラニエ公もまた、カール五世の意図を酌んで、フェリペ二世の統治に協力しようとしていた。
しかし、フェリペ二世だけは有能なオラニエ公を排除することしか考えていなかった。王よりも有能な男として人望が集まることを極端に嫌がったのだ。
オラニエ公がスペインから無事に逃げ出せたのは偶然でしかない。たまたまフランス王との対話の中で不用意に「スペイン貴族の中でプロテスタント寄りの貴族は殺されるそうだが、貴公は大丈夫か?」という話が出て、それで慌てて、その場から逃げたというだけだ。
それ以外のプロテスタント寄り貴族は、フランス王の言った通り、全員殺された。ギリギリのところで殺されずに済んだのである。
そう思うと、ジョアン・ジョルギュレー事件といい、スペイン脱出劇といい、この人は死神から嫌われているのかもしれないと思うこともある。
以降、銃弾に晒され、陣頭で指揮を執っても、死ななかった。その家族が同じような境遇の中で死を迎えたとしても、彼だけは生き延びた。
奇跡が起きるのを間近で見ているのかもしれない。
もちろん、それに甘えることはない。
陳情者の中に、いつか、必ず賞金稼ぎがやってくる。お金欲しさに、この重要な人物を殺しに来る奴が必ず現れる。
修道院をさらに改造し、監視しやすく、守りやすく、そして逃げやすくした。名前を「プリンセンホーフ」と改めた。「君主の館」という意味だ。
オラニエ公は少し嫌そうな顔をしたが「まあ、仮住まいだからね」と入居を承諾した。君主という部分が気に入らないのだそうだ。彼には君主として君臨する気がないからだろう。
だが、オラニエ公はそうであっても、私にとっては敬愛する君主なのだ。
回りは信用できるものだけで固めた。女中はプロテスタントの街で、夫や家族をスペイン兵に殺されたものばかりだ。ここ半年以上、オラニエ公爵家に仕えているものを中心にした。
門番は歴戦の勇者。私の顔なじみだ。
コックは特にヘントの料理が気に入りの為、ヘントから逃れてきた料理人を探してきた。こちらから探したくらいだから、暗殺者が紛れ込むのは難しいだろう。だが、刃物を常備できる危険な立場のものでもある。常に彼らを見張れる男を下男から選んだ。
後は護衛兼下男だ。そんな男が五人ほどいる。
内一人はフランスから派遣されている。元々、オラニエ公の護衛にと、フランス王弟が派遣したそうだが、途中で紹介状を紛失している。護衛はネーデルラントのもので十分間に合っているので、フランス王弟に返す途中に、今度はその王弟が亡くなって、オレニア公の元に舞い戻ってきたという人物だ。
名をフュヨンと言う。その父はドールでプロテスタントの為に殉教し、王弟殿下亡き今、自分は最早行くところも無いから、プロテスタントの最高指導者の元で励みたいという。
オラニエ公は、そのような言い方をされるのを好まなかった。かといって叱責することもなく、苦笑いをするだけであった。
フュヨンを何度もフランスに帰そうとするが、フュヨンが頑なにそれを断った。最後には、優しいオラニエ公は、根負けしたのか、フュヨンを下男の一人に加えた。そして新しい靴を買い与えた。何故ならば、とてもフランスまで帰れるような靴ではなかったからだ。
フュヨンは涙を流して、それを喜んだ。
オラニエ公は、一足の靴で、これほどの感謝をされることを驚いたが、そこに可愛げを感じたのか「あのフランスの小男はどうしている?」と事あるごとに尋ねるようになった。
実際、フュヨンは、可愛げのある男だった。
まず聖書を手元に持っていなかったので、それを門番から貰い、大喜びになっていた。プロテスタントにとっては、聖書が手元にないのは落ち着かないからだ。そして、プリンセンホーフに近づく男に、宗教問答して回った。少しでもプロテスタント寄りではないと解釈した答えが出たら、すぐに教えに来た。異端ではないかと。
我々はスペインではないから、宗教の解釈程度で相手を異端とは決めつけないと教えると怪訝な顔をしていた。まだプロテスタントの教義に慣れてないのかもしれない。
更には自ら街まで出て、情報を集めてきた。それはほとんどどうでもいい情報ばかりだったが、ある日、不穏な情報を手に入れた。
「バルタザール・ジェラールという男が、オラニエ公を狙っている」
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