第9話 みちのく その1



 数日たっても、さつきの病状は一向に良くなる気配はなかった。源安が煎じた薬を朝に晩にと飲ませているが、高熱に侵され荒い息をしているさつきには、もはやうわごとを言う体力すらない。


 三月十七日、平太の処分が決まった。義盛の予想通り、二階堂山城判官行村が最近新たに地頭職を宛てがわれた、陸奥国岩瀬いわせのこおりに配流になるという。


 しかし岩瀬郡と言われても、天留にはどの辺なのか、さっぱり分からない。


「いわせのこおり、とはどの辺りでござりまするか」


 さつきの見舞いに来た義盛に、天留は訊いた。


「ほとんど関八州かんはっしゅうと言ってもよい所じゃ。白河しらかわせきを過ぎてから、いくらも歩かずに着く──」


 一昔前まで奥州藤原氏が支配していた陸奥国は、とにかく広い。


 高速道路を東京都心から北に向かって走ると、百九十キロほどで栃木県と福島県の県境に至る。この場所の道路脇には、平成の時代まで「これよりみちのく」と書かれた大きな看板があったが、ここからがかつての陸奥国となる。この地点から東北自動車道終点の青森インターチェンジまでは、それまでの距離の二・五倍以上、およそ五百キロも走らないと到達できない。


 また東京からの直線距離では、津軽海峡に突き出した下北しもきた半島の先端にある大間崎おおまざきは、広島県の東広島市までとほぼ同じである。


 その広大さには、昔の人も驚嘆、あるいは辟易したようである。


 ──三日月の 丸くなるまで 南部領


 という句がある。中世から近世の長きにわたって陸奥国北部を支配した、南部家の領域を指して詠んだもので、三日月の頃に南部領に入ると、それが満月になる頃にようやく通り抜けるという意味だが、あながち誇張でもない。南部領は今の岩手県と、津軽地方を除く青森県にわたっていたので、歩きだとそのくらいの日数はかかるだろう。


「わしも若かりし頃、奥羽合戦で厨河柵くりやかわのさく(現・岩手県盛岡市内)というところまで出張っていったが、彼の地の遠いこと、遠いこと、阿津賀志山あつかしやままで行ったらその先はいくらもない、と思うたら、とんでもない話じゃった……」


 義盛は遥かなる地を望むような顔つきになった。


 阿津賀志山は福島県国見町くにみまちにあり、現在は厚樫山と表記している。歴史愛好家のあいだでは、「阿津賀志山防塁ぼうるい」(*註)で知られている。




 東国完全制覇を狙う頼朝が、恭順の意思を示しつつ半独立を目指していた奥州藤原氏を攻めた奥羽合戦は、文治五年(西暦一一八九年)に勃発した。


 この年の八月八日、奥州軍二万は阿津賀志山防塁に拠って頼朝軍二万五千を迎え撃ち、奥羽合戦最大の激戦を演じたが、彼らは源平争乱を制した直後で戦慣れしている頼朝軍の敵ではなく、絶対国防圏ともいえるこの地を突破されて総崩れとなってしまう。


 この戦いで総大将の藤原ふじわらの国衡くにひらが義盛に討ち取られるなどの大打撃を受けた奥州藤原氏は、八月二十二日に本拠地たる平泉まで攻め込まれて事実上滅亡、平泉を捨てた総帥の藤原泰衡やすひらは、このあと北方の蝦夷島えぞがしまに逃亡しようとしたが、九月三日に出羽でわのくに比内ひない郡にて譜代の郎党だった河田次郎という男に裏切られ、殺害されている。


「……それでも行きは逃げる敵を追って行ったゆえ、さほどの苦労ではなかったが、帰り道はとても難儀したのを覚えておる。それに比べれば岩瀬の郡はすぐそこじゃ」


「ならば、私やさつきのあしでも行けるでしょうか」


「うむ、さほどに大儀なことではあるまい」


 天留はほっとした。もしや彼の地は日の本の最果てにあるのでは、と思ったが、意外にも十日から十五日ほどで着く距離で、道中に越え難い難所もほとんどないという。もしも平太が無事であれば、さつきを連れて行って会わせてやりたい。もしかしたら、さつきの病も良くなるかもしれない。


 さつきが何とか歩けるほどに回復したら、夫を訪ねてみよう。



*註釈


 阿津賀志山防塁 ── 奥州藤原氏が阿津賀志山と阿武隈あぶくま川の間の狭隘地に造った巨大防塁。二重の堀と三重の土塁が四キロメートルに亘って連続していたと見られている。現在も遺構の一部が残り、国指定史跡となっている。なお、この地は現代でも交通の要衝になっており、JR東北本線や国道四号線の他、東北自動車道や東北新幹線も通っている。




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