第7話 さつき その1



 平太には六歳になる娘がいる。数え年六歳は、満年齢では四歳か五歳になる。かわいい盛りだっただろう。


 この娘の名前は、「吾妻鏡・吉川本」には、「荒鵑(こうけん、と読ませるのであろうか。けんはホトトギスの意)」と書かれている。しかし、「荒」というネガティブなイメージの漢字と、一般的ではない「鵑」という漢字を組み合わせた、荒々しいホトトギスなどという意味合いで全くかわいげのない名前を、出家でもない女児に付けるだろうか。筆者にはそうは思えない。(*註)


 今日、織豊期までの女性で本当の名前が判明している人は極めて少なく、彼女たちが近しい人からどのように呼ばれていたかは分からない。その理由は、彼女らの名前はあくまでも家庭内での通り名で、公的な文書に記されるべき性格のものではないからであろう(十五世紀に備中国びっちゅうのくに新見荘にいみのしょう(岡山県新見市)で荘官をしていた福本ふくもと盛吉もりよしという武士の妹で、新見荘の領家りょうけだった東寺とうじに署名入り自筆書状を送った「たまがき」という女性や、相続関係の書類に本名が載っている女性の例はある)。


 この稿に出てくる源頼朝の妻の名前も、実は不明である。よく使われる「政子」は、建保けんぽう六年(西暦一二一八年)、朝廷から従三位の位を授かった際に貴人の名簿などに記載するための事務的要請によって付けられたいみなであり、日常で使われる名前ではない。同様に平安時代などの「彰子しょうし」や「薬子くすこ」といった名前も宮廷に上がる際に付けられた諱であろう。


 「曾我そが兄弟の仇討ち」という事件を描いた「曾我物語そがものがたり」という軍記物では、政子の本名は「万寿まんじゅ」または「朝日あさひ」となっているが、そもそも「曾我物語」は多くの人々によって語り継がれた創作物であり、名前は誰かがイメージで付けた可能性が高い。


 戦国武将の妻の名前もまたしかりである。


 たとえば織田信長の正室斎藤氏は、織田家中で濃姫と呼ばれていたが、あくまでも美濃から来た姫ということで呼ばれていたのであって、本名ではない。よく知られている「帰蝶」は、後世の誰かが付けた名前であろう。


 また、松平元康(徳川家康)の正室関口氏は築山殿といい、「瀬名姫」という名前も知られるが、これも同様である(「瀬名姫」は山岡荘八の大河小説「徳川家康」が大元か。あるいは父親の関口親永が瀬名氏出身なので、濃姫のように松平家中で通称として使われた可能性はある)。


 ところで、豊臣秀吉の妻、北政所きたのまんどころは実名として「おね」、あるいは「ねね」が伝わり、その妹で浅野長政の室になった女性は「やや」とされているが、これらは秀吉などの書状に記されているので間違いなさそうである。ただし筆者が推測するに、「ね」は姉、「や」または「やや」は小さい子供、あるいは赤ん坊という意味であり、これは現代の姉妹を指すときに姉を「お姉ちゃん」、幼少の妹を「ちいちゃん」などと呼ぶのと同じニックネームだったのではなかろうか。これに関して、小児、あるいは乳児のことを「やや」、あるいは「ややこ」という地方は今でもある。


 なお、この二人には姉がいるが、「くま」という、この当時では何の変哲もない名前が伝わっている。



 閑話休題。


 平太の娘のことである。


 古文書のように「平太のむすめ」と書いてしまっては、文章としていささか締まりがなく、かといって「荒鵑」では少女らしい愛らしさが感じられず、しかしながら名前がないままでは物語としては不都合なので、この稿では仮に「さつき」と命名しておく。


 さつきはよほど平太に懐いていたようである。現代なら「パパっ子」であろう。


 その子が病気になった。


 カルテの類が存在しないので、さつきの病名は分からない。麻疹や天然痘などの流行りやまいか、小児性の急性疾患に罹ったのだろうが、平太が不在になり、天留も心労で塞ぎがちなので、寂しさや不安感から自律神経が失調して病気になったのかもしれない。


 さつきはひどい高熱にうなされ、時折苦しそうな表情を浮かべては、


ててさまは……、父さまはどこじゃ……」


 と、うわごとで言い続けている。



 *註釈


 ただし、元徳三年(一三三一年)十一月十八日付書状「南条大行時光譲状案」によると、南条七郎次郎時光という人物の孫娘は「鬼つる(鬼鶴)」となっているので、この時代の武士は、何か特別な理由があって女子にこのような名前を付けていたのかもしれない。

 なお平太の娘の名を「荒鵑」としているのは、吾妻鏡「吉川本」建暦三年三月二十一日条だが、同「北条本」などでは、どういう訳かこの日の記事は存在しない。



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