第19話 別離
────ふたりで居られるのは、伸ばしてもあと五分ほどだろう。
暗くなるまでに自宅へ送り届けるとの約束をしていたはず。けれど、すっかり暗闇は深まっている。悲しいことに時間は止まってくれなかったのだ。
不思議な出会いを四回繰りしてきたが、名前以外、生い立ちや実家の場所すら分からない。俺はどんな存在なのだろうか。ふと、寂しさに気づくと、彼女の方から意を決したように口を開いてくる。
「うち、もう半年で卒業やろう。そやけど、大学へは行かん」
「えっ。どうするんや」
「直ぐに花街で修業始めんねん。怪我で遅れてもうたけど……」
「………」
「踊りと小唄、あとは三味線かいな。頑張るさかいね。今日は、えらい楽しかったやで。一生涯忘れられへん思い出になったさかい。おおきになあ……」
優奈は包み隠さず話してくれ、生い立ちすら垣間見えてきた。母親も若い時から花柳界で生きてきた女性らしい。さらには、父親もいないという。
今は近くの由緒ある風祭町で生け花の先生をしながら、生計を立てるために細々と小間物屋をやっているという。彼女のまなざしにも涙が浮かんで見えていた。
六角堂の建物の明かりが見えてくる。もっと時間が欲しくなる。せめて、ふたりの廻りだけでも、時計の針が止まって欲しい。
「その近うで車を止めて。最後まで、最後までほんまにおおきに」
もはや、優奈の切ない言葉すら耳に届いて来なくなる。
俺にとって、彼女は命を助けた女というより特別な存在となっている。初めて好きになった運命の人、そんな気がしていた。
「お太子はんには悪いけど、うちにとって目ぇ直してくれたお釈迦様のお家。ほんまは、ここも一緒に歩きたかった……」
六角堂の仏さまを朝晩にお百度参りして、庭の花を摘んでお供えしたという。目の難病を患い、幼い頃から苦しんでいたらしい。
遅くなったとしても、このまま別れたくはない。車のドアを開けて優奈を下すと、人目も気にせず、優奈を切っても切れなくなるほど強く抱きしめくちびるを重ねてゆく。鼻先をほのかにくすぐる香りが届いてきた。
────突然、妄想として、今ではすっかり死語となる〝 四文字 〟が浮かんでくる。たとえ未成年者を
「うちまで送って行くよ。お母さんにもお詫びしなくては」
「やめとぉくれやす。うち、かえって辛くなるさかい。ほんまに、おおきに」
切ない最後のほほ笑みを届けてくれる。男なのにもう涙が止まらない。このままではふたりとも帰れなくなる。俺の涙を感じているはずである。
「うちな……。最初で最後のデートやと分かっとった。そやけど、嬉しかった。さいならね……。もう、会えへんのやな」
俺は笑顔で別れるはずだった。
けど、そのまなざしにもいつの間にか涙が宿っている。
涙を堪えきれず、いつ尽きるともしれない雫が足元へこぼれてゆく。別れの挨拶も出来なくなっていた。彼女の目には涙が一杯溜まり、それが月の光をキラキラ反射している。きっと、同じ想いを抱いているらしい。
古民家が立ち並ぶ軒先に明かりがぼんやりと、灯るのが見える。遠ざかる少女はまるで可憐な影法師の少女、儚いホタル、いや、かげろうのようだ。
浴衣の後ろ姿が一歩ずつ遠ざかってゆく。
薄紫色した花影が離れる代わりに、京下駄のカランコロンの音色を届けてくる。足取りは極めてゆっくりとしたものとなる。途中で一旦彼女の足が止まる。
でも、いつしか力を振り絞るごとく小走りに変り、少女の姿は風花が溶けるように消えていた。
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