第12話 不安


 あれから、二か月が過ぎてゆく。


 もちろんのこと、ひと時も優奈のことを忘れてはいない。リハビリ中もずっと彼女を心配して手紙のやり取りを続けてくる。


 退院すると、社長の野島からのゆっくり休めという優しい言葉も忘れて、アルバイト先の写真スタジオに復帰した。職場に戻れば甘いことなど言っていられなくなる。

 さっそく厳しいげきが飛んで、戦場みたいな使い走りが待っている。慌ただしい日常に追いかけられながら、夢を手繰り寄せてゆく。


「おーい、こっちこっちや。早く、機材を持って来い」


 もも栗三年、柿八年、一人前のカメラマンになるには十年かかるという。彼から写真家としての習わしだと聞いている。足を怪我したこともすっかり忘れて、重い荷物を背負い走っていた。ところが、今日は手元に良い知らせが届いていた。


 まさに、嬉しい吉報だ。冬空のインクラインで撮影した写真の一枚がコンクールで新人特別賞を頂いたとの報告であった。受賞とともに、プロカメラマンとして一歩進んだことになる。

 病室の枕元で喜ぶ優奈の優しい笑顔が目に浮かぶ。彼女に知らせれば、きっと同じ想いで小躍りしてれることだろう。


 桜の季節はあっという間に通り過ぎ、優奈からは何度も手紙が届き、回復に向かっていると聞いていた。その都度、自分の撮った写真を封書に入れて送っている。

 もちろんのこと、一日たりとも大切な約束を忘れてはいない。


「悠斗、すぐ事務所へ連絡してくれ」


 撮影の合間に社長から突然指示があり、携帯電話を手渡される。優奈の母親から連絡が入っていた。そろそろ、退院かなあ……と脳裏に浮かんでくる。彼女との約束を思い出す反面、不安がよぎってしまう。


 一緒に、寺を歩きたい。


 確かにそう約束したはず。叶えられるとすれば、二か月ぶりの再会となる。週末には退院するという。ところが、優奈と会った日、病室の外での出来事を思い出してゆく。会ったのは紛れもない少女の母幸子である。

 ふたりの会話を全て盗み聞きしていたらしい。急に、病室から少し離れたところに連れて行かれてしまう。娘に聞かれるとまずいと思ったのだろうか……。


「愛娘は目がまだ不自由で、真っ直ぐに歩くことも出来ひんのどす。まだ二十歳にならへん、高校生の子供や。うちには父はんもおらんし、生きる世界がちゃうんどす。どんなつもりでお誘いなさってるの?」

 

「ただ彼女を励まそうと思っているだけや」

 声を大にして答えていた。


「まだ、若おして、女心が分からへん思うけど、思い付きのからかいなんでしゃろ。惑わすようなこと、止めとぉくれやす。あの娘に期待をさせてしまう。辛い思いで辛抱させるのは、もう懲り懲りなんどす」


「惑わすって? そんなつもりは……」


 母親は自分の言葉を最後まで聞かずに口を挟み、全ての想いをぶつけるように言葉を続けてくる。


「神崎さんは娘にとって命を救うてくれた恩人、えらい心から感謝してます。短い時間なら、散策は許すさかい。そやけど、これ以上惑わすのは堪忍しとぉくれやす」

 

 一瞬、彼女は気色ばんで離れていく。その厳しいまなざしは、最初に病室で会った岩陰に小花が咲くようなしおらしい女性とはまるで別人な雰囲気である。


 彼女が心配されるとおり、優奈にどんな生い立ちがあったのかは知らない。でも、本当に元気でいるのだろうか……。


 三条大橋の夜道を一歩踏み出すごとに、提灯や置き行灯から風情豊かな古都のあかりが漏れ、心にやんわりとしみる、ノスタルジックな和風の音色が届いてくる。


 ところが、今夜は優奈の面影を脳裏に浮べると、ゆらゆらとおぼろげな空気すら感じてしまう。そこには透き通るような瞳が消え失せ、虚ろげで物哀しさまで漂っている。アパートに帰ると不安になり、さっそく彼女への手紙を綴っていた。

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