第5話 琴線


 まどろみの中で、ゆっくりと時間旅行のような夢を抱いてゆく。

 いま、洗い立てのような朝の光がやさしく降りそそいでくる。けれど、脳裏にぼんやり浮かぶのはひとりの少女の儚げな姿である。いったい自分はどこを彷徨っているのだろうか……。


 はっきりしたことは分からないが、病室の窓ガラスからは、なぜかしらそよ風とともに大好きな作曲家バッハが奏でる「G線上のアリア」の美しいメロディが届き、傷つく心をほんわかと癒してくれる。


 

 ────少しずつ、日差しが暖かく感じられ、京都にも春の近づくのが分かる。

 翌日、医師の声で目を覚ますと、午前中の回診が始まっていた。いったい何時間ベットで寝ていたのだろうか。疑問ばかりが脳裏に湧いてくる。


「こんな怪我で良かった。一歩間違えれば死んでいたかも知れない。手術は必要ないだろう。一か月ぐらいの入院が必要ですな」


「先生、一ヶ月もですか?」


 自分の驚歎な叫び声が病室内に響き渡ってゆく。一ヶ月も寝ているなんて、とてもじゃないが信じられない。


「命があっただけでも感謝しなきゃ。動いたらあかん。じっとしていなさい。ギブスをはめれば二週間ぐらいで歩けるから、少しだけ我慢我慢だよ!」


 年配の医師はそう冷たく言い放ち姿を消していた。ああー、退屈だ。時間を持て余してしまう。健康な時には感じられない想いに覆い尽くされている。

 病人はつくづく窮屈だと実感してゆく。身動き出来ずに煙草も吸いに行けない。


 もちろん、そんなこと我儘だとは分かっている。自分は怪我人なのだ。考えることは、ただひとつ、あの少女が気になっていた。


 どう見ても年下だ。高校生だろうか。弱弱しく、今にも折れてしまう露草のような女の子だ。ところが、初めて会った気がしないのは何故だろうか。つぶらな瞳と透き通るような肌の白さ、あの面影はきっとどこかで見たことがある。


 彼女は生きているのだろうか。そう願わざるを得ない。でも、なぜ、あのようなところから……。何か、訳がありそうだ。


「神崎はんの部屋はここでっしゃろか」


 三分粥の気が進まぬ昼食を食べ終わると、部屋の外が騒がしい。ひとり年配の美しい女性が入ってきた。届いてくる言葉は、しおらしい京都弁である。


「助けてもろた娘の母の幸子どす。もうなんて、お礼を言うてええか……」

 床に手を付いて、俺の顔を見上げてくる。


「やめてください。娘さんのご容態はどうなんですか?」

 気になることを訊ねていた。


「はい、両足や胸の骨が折れていて……。そんなことよりあんさんへこないに怪我をさせてもうてごめんなさい」

 涙をいっぱい溜めて、頭を下げてきた。


 生きていてくれたんだ……


 赤の他人なのに胸に熱いものが込み上げ、涙が溢れてしまう。会話が一旦途切れたが、奥ゆかしい女性はさらに口を開いてくる。


「あかんのは、わたしなんどす。あの子が不憫で仕方ありません。生きとってくれるだけで……。あんさんかんにんな。改めてご挨拶しますさかい、許しとぉくれやす」


 そう言い終ると、改めて幸子は頭を下げ病室から去ってゆく。立ち替わりに、バイト先となる写真スタジオの野島と久美が見舞いに駆けつけてきた。彼は職場の社長であり、とても、冗談好きで愉快な男だ。


「良かったな、足の怪我だけで。一本あれば野球も出来るやろ、まあ、暫く休めよ」

 続けて、同じ歳で社長の助手を務める久美がふざけてくる。


「もう、あんまり無茶しないでね。でも、女性の命を助けるなんてすごい。男らしくて見直しちゃう。悠斗のこと、好きになっちゃうかも。退院したら、皆で、お祝いしてあげるから」

 

「そんな優しい言葉、初めてだろう。いつも、文句タラタラなくせに」


 思わず、口にしてしまう。そんな嫌みにも、今日の彼女は無邪気で愛らしい笑顔を見せてくれる。さらに自分の顔を覗き込み、キスではなく額にデコピンしてくる。俺の嫌みにも、無邪気で愛らしい笑顔を見せてくれるようだ。

 普段は気づかなかったが、よく見ると、結構綺麗で可愛い。看護婦さんも白衣の天使のごとく綺麗だし、病院の不思議さを見つけていた。


「そんなこと、あらへん。それは……。あんたが、女心を理解できない男だからあかんのや」


 顔を見合わせ笑ってしまう。ふたりが帰ると話し相手がなくなり、また退屈な時間が戻ってくる。


 窓から外を眺めると、一軒の寺があり、五重塔の屋根に雪が残っている。何気なく昨日の出来事を思い出してゆく。あれは、やはり事故なのだろうか……。名前すら分からない少女を思い浮かべて、自問自答を繰り返していた。

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