第4話 悲鳴
────カウントダウンが始まる。
太陽が地平線下6°くらいに近づくと、乳白色の靄はしだいに薄らいで、あけぼの色が仄かに東の空を染めてくる。嵐山が柔らかく屈折する起き抜けの光に照らされ、〝黎明の銀世界〟が眼を覚ましてゆく。自然の息吹が感じられ、目の前に写真家としての絶好のチャンスが訪れようとしている。
10. 9. 8. 7. 6. 5. 4 ……。
お日さまが上がり、空が青くなり始めるまでの真剣勝負となる。可能な限り連続してカシャカシャと静寂を切り裂き、シャッターを切らなくてはならない。いくら我慢強くても、凍てつく空気が骨身にこたえていた。
ところが、────
煌めく星が別れを惜しむように遥か世界へと消えて、空色がゆっくりと移ろう瞬間に橋の方角から女性の甲高い声が聞こえてくる。
何の声だ? まさか、悲鳴では……。
恐ろしい不安に駆られてしまう。
目の前にひとしきり泡沫が現れる。さざ波が立つのに気づいて、無我夢中でキラキラ輝く川面に飛び込んでゆく。
水かさが少ないとは言え、まだ凍るような寒さだ。日の出とともにやさしい陽光が届く薄明かりを頼りにしながら、渦中に漂う人影を力の続く限り追っている。
ようやく腕を手繰り寄せ、岸辺に引っ張り上げる。なんと長い黒髪で痩せ細り、化粧気もない少女である。もはや朝焼けの雪景色を撮るなどどうでも良くなっていた。
もしも、冬の嵐で水かさが増えていれば、きっと流されていただろう。
暗い雪道に足を滑らせ、橋の欄干を通り越して落ちたのだろうか……。少女のからだはすっかり冷え切っている。
おい、死ぬんじゃない。
起きろ、起きるんだ、起きろよ。
でも、息遣いは届いてくるようだ。
少女を揺り動かし、大きな声で助けを求めたまでは覚えているが、後の記憶は定かでなくなってしまう。先ほどまで、泡沫を彩る水鏡のように陽光が届いていたはず。
♧
「お気づきになりましたか」
目を覚ますと、近くに白い服を着る女性が立っている。自分の左足を見ると、ぐるぐると包帯が巻かれていた。
「痛えー」
我慢できずに唸ってしまう。
「足の骨が折れているから、暫くじっとして居てくださいね。いま、医師を呼んできますので……」
女性は言葉を残して病室から出ていこうとする。思わず彼女を制止して、痛みを堪えてまでベッドに起き上がりたくなる。
「まだ、無理ですから」
冷たい言葉が心に突き刺さり、救急搬送されたことに気づいてゆく。
「あの少女はどうなりましたか?」
看護婦さんが医師と一緒に戻ってくると、言葉に出していた。
「あの女性って?」
気づいてくれたようだ。
「ああー、身投げした少女。まだ、集中治療室で手術中なの。助かれば良いのだけれど……」
突然に自ら入水、恐ろしい話を聞かされてしまう。奇遇にも同じ病院に担ぎ込まれたらしい。彼女は本当に自殺しようとしたのだろうか。自分の顔を覗き込んで、ナース姿の女性は言葉を続けてくる。
「あの娘とお知り合いなの? 少女の連絡先が分からなくて……」
即座に言葉を返すことが出来ない。実際に名前すら知らないのだ。ただ、脳裏におぼろげながら以前に会った少女の姿が思い浮かんでしまう。
麻酔がまだ効いているのであろうか。縁もゆかりもない少女なのに、「ただ、助かって欲しい」そう心の中で叫びながら、風花の舞を抱くように眠りへと落ちていた。
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