壊れ文字

Tempp @ぷかぷか

第1話

 随分前の話だ。

 浜辺で瓶を拾った。

 いつだったかな。多分、中学の頃だ。

 僕の家は海の近くで、家から30分ほど歩けば砂浜がある。とはいっても泳ぐような砂浜じゃない。工場地帯の隣に申し訳程度にある砂浜で、酷く塩っぽい臭いを漂わせ、黒い海藻や生臭いちぎれた網なんかが、たくさん打ち上げられていた浜辺。よくみれば波間には、少しの油膜すら漂う。

 ようするにそんな、誰も見向きもしない寂れた砂浜があった。

 でも僕はその砂浜に入ると、強い日差しから木の陰に隠れることができたような、そんな妙にほっとした気分になる。ここだと誰にも見つからない。その薄暗さに妙な安心を覚えて、むしゃくしゃした時や嫌なことがあった時は、この砂浜でひっそりと隠れて何かが過ぎさるのを待っていた。ここだと色々なことをあまり気にしなくていいような、気がして。ようはそのころの自分にとって、この世界は少し居心地が悪かった。

 それで学校が終わって砂浜に向かうと、だいたい夕方になっている。


 その日も夕方だった。

 落日は浜から見えない遠く西にある山側に落ちるのに、その余波はじわりと浜にも及んでいる。遠く背中に落ちた太陽の影は、海に浮かぶ少し遠くの島影を真っ黒に塗り潰していく。その島を境界に空と水面に別れていた風景を、赤黒く染まった斑の雲に反射した光が同じ色に水面を染めていく。それはまるで異界のような色合いで、少しはこことは違うどこかに繋がっているんじゃないかと思えた。けれどもその奥にある海からびゅうと吹く風はやっぱり生臭さを運んでくる。

 非現実的に見えたとしても、やっぱり色々なものはどこまでも繋がっているんだ。そのことに酷く嫌な気分になる。胃が締め上げられる。嫌なことから逃れたいと思っても、世の中のおおよそのことは複雑に絡み合っている。その事実に思いため息をつく。


 けれどもその日は様子が少し違った。

 湾岸道路に沿って転々と植えられた街路灯の人工的な灯りに何かがキラリと反射した。近寄ると、少し緑がかったガラスのボトルで、振ると中で紙のようなものがカサカサ揺れた。

 瓶の口はボロボロのコルクで閉じられている。この中の紙はこの世界の外から来たものだろうか。そんなふうに思ってコルクを抜こうとしたけれど、ふちを引っ張ってもそこからポロポロ崩れるばかり。だから同じような砂浜に落ちていた古そうな枝でエイと押すと、コルクは砕けて瓶の中に落ち、瓶からはなんだか古い香りがふわりと漂う。

 穴から中の手のひらサイズの紙を取り出して開く。


『こんにちは。何か悩みはあるだろうか』


 古くて奇妙に生暖かいぶ厚い紙には、そう書かれてあった。

 悩み……。面食らう。いきなり悩みといわれても困る。遠くから流れてきたはずなのに、現実に着地しすぎてがっかりした。この瓶の持ち主は一体どういうつもりでこんなものを流したのだろう。

 そう思っていると、紙はぷるりと震えて文字が糸のように動き、新しい文字が浮かび上がる。


『私を作られた方は、私が誰かの役に立つようにと考えられたようだ』


 あれ?

 さっきは『悩みはあるか』と書かれていなかったっけ。そう思うと文字はまたゆっくり移動して『悩みはあるか』に戻った。

 一体何なんだ? 今のは錯覚か何かだろうか。混乱して、急に気味が悪くなった。すると、文字がまた変化した。


『気持ち悪ければ、捨てていけ』


 捨てていく。

 なんだかそれは、少し気がとがめた。気持ち悪いといえば気持ち悪い。けれどもそれはなんというか、自分が捨てる側に回るのはなんだか癪だった。いっそのこと丁度全てを捨ててしまおうかと悩んでいたものだから。


『それであればご随意に』

 また、文字が変化した。

 これは何だ?

『私はこの紙に住まう虫だ。紙の上を滑って文字をなしている』


 虫。そうすると、紙ではなく文字が意思を持っているのか。変なの。

「どうして瓶に入ってたの」

『前の持ち主が入れて流したのだ』

「どうして」

『不要になったのだ』

 不要。

 そうか。結局お前は捨てられたのか。そう思うと何となく親近感が湧いた。

『何か悩みはあるだろうか』

 最初に戻った。悩み。悩みはたくさんある。けれどもこの文字に話したところで、解決するとも思えない。


『解決したほうがよいのだろうか』

「解決? 解決はしたほうがいいんじゃないのかな」

『解決すると悩みは解消されるのだろうか』

 それは、まあそうじゃないかな。

 けれども何となく、文字の言いたいことはわからなくもなかった。何かを解決しても、結局のところ他に皺寄せて、最終的にまた違う形の悩みとして僕に押し寄せてくるんだ。

 なんとなく、そう、自分のピースがこの世界のピースにうまく嵌まらない。けれども僕のピースはここ以外に嵌めるところがない。だから違うピースの隙間に無理矢理嵌め込むように、ぎゅるりと自分を窮屈に捻じ曲げないといけない。けれどもそうやって無理やり嵌めても周りのピースに歪みを与えるだけで、結局のところ全体に不快感を与えるものに成り下がっている。僕がいることによって。


 解消する方法はわかっていた。

 不具合報告をして、適正なピースに取り替えればいい。どうせこの世の中には山ほどピースがある。古い不適切なピースは捨ててしまおう。そうすればきっと、代わりにぴったり合うピースがやってくる。

 つまるところ、ここに僕があるから全てが歪むんだ。その時の僕は、ギシギシとした耐え難い歪みを生み出す不協和音に、このムンクの叫びのような赤黒い世界で静かに叫ぶしかなくて、瀬戸際にいた。

『取り替えたいのかね』

「ずっとそれで悩んでる。一層のことそのほうが良いのかと思って」

『良いか悪いかは私にはわからない』

 まぁ、文字だもんね。

 この歪みは僕だけでなく、全てに拭えないほどの気持ち悪さを齎す。奥歯で金属を噛み締めるように。どうしようもない。

 だから僕はその文字に、特に答えを求めず尋ねた。


「僕はどうしたらいいんだろう」

『歪みが嫌なのであれば、その部分を削れば良いのではないか』

「隙間が開いちゃうよ」

 無理やり詰め込んだ余波で隙間が埋まっているだけだから。

『それならその隙間には私が入ろう』

 文字が?

 何を言っているのかわからなかった。

 それに了承の明示もしていなかった。けれども僕と世界の間の歪みはどうしようもないほど増大していて、だから文字の提案に無意識に了承したのかもしれない。

 両手に持つ紙の上の文字が不意に左右に分かれて両腕に移動した。紙の上には文字がない代わりに、僕の手の甲に文字が浮かんだ。


 思わず手をふり払ったけれど、皮膚から文字は消えない。奇妙なものに侵食されている事象に恐怖心が湧き上がる。何か危険なことをしてしまったのだろうか、例えば悪魔と契約するような取り返しのつかないこととか。

『他は何もしない』

 文字がそんなふうに形を変えた瞬間、妙なことが起こった。

 僕のピースのギュウギュウに詰め込まれていた余剰部分が周りのピースの形に合わせて綺麗に切り取られた感触があった。切り取り線にそって丁寧にハサミを入れられるように綺麗に切り取られた感触。そして切り取られた僕の切れ端と文字が混じり合って、他のピースとの間にできた隙間にすっぽりと嵌まり込んだような不思議な感覚。

 その瞬間、これまでのことがまるで全て嘘だったみたいに、僕が存在することで僕と僕の周りに生じていた歪みは圧力も何もなく霧散した。ふわりと宙を漂うように全てが軽くなったのだ。

『助けになれてよかった』

 僕の手の甲で文字はそう言った。

 僕は深く文字に感謝した。


 それから僕と文字の奇妙な共同生活が始まった。

 結局文字が何なのか、僕にはわからない。ひょっとしたら妖怪とか悪魔とか、そんなものかもしれない。文字は僕の一部をバラバラに壊したのかもしれない。でも結局、文字は僕はそのままじゃうまくいかなかった部分を、うまくいくよう再利用したのだろう、と思う。

 その結果、僕の心は不思議に軽く、切り取られた部分についての喪失感はあるものの、以前とは格段にスムーズに生活ができるようになっていた。僕の中には僕が直接シームレスに他のピースに触れている部分と、文字を通じて他のピースに触れている部分がある。

 文字に通じている部分は僕は直接感じ取れない。けれども特に困りはしなかった。文字は僕の手の甲にちゃんとその情報を伝えてくれたから。

 けれども他のピースからみると、どうやら僕がおかしくなったように見えるらしい。まあ、そうかもしれない。文字は人じゃない。接するものが僕ではなく得体の知れないものになったんだから。

 それでも文字は丁寧に僕に情報を伝えてくれる。隣のピースがあいも変わらず僕の頭がおかしいと言っているとか、死ねと言っているとか。でもそのことに僕は何の痛痒も感じなかった。その部分の接触は全て文字が受け持ってくれていたから。


 そのまま中学を出て、高校を出て、なんとなく平穏に暮らしていた。

 その頃にはなんとなく、昔の僕が勘違いをしていたことな理解していた。僕は僕の周りのピースに僕を合わせようとしていたけど、そもそもそんなにピッタリあうものでもなかったのかもしれない。以前は窮屈すぎてそんなことを鑑みる余裕はなかったけれど、よく見ると他のピースも他のピース同士、押しつぶしあっていた。

 全体で見ると綺麗な一枚の絵なんだろうと思っていた世界は、ただごちゃごちゃとさまざまなピースがせめぎ合っているだけなのかもしれない。そう思った。そんな世界の中で、僕は少しだけ他のピースより柔らかかったから、なんとか合わせようとすることができてしまっただけなのかも。


 そんなことを思いながら、僕は僕の周りのピースが僅かにながら形を変えつつ押し合いへし合いを続けているのを見ていた。僕が新しく押されると、その重なって圧力を感じた部分を文字が切り取り、出来た隙間を文字が埋めることで僕がその場に留まる。他のピースを押し除けようとするよりも、その方がもう楽だった。

 僕の半分以上が文字になっても、文字は僕を乗っ取ったりはしなかった。

 文字はただ、これまでと同じように僕に様々な情報を伝えて、僕はそれについてどう対処するのかの方針を文字と打ち合わせた。


 それで随分たって、僕であると言い切れる部分が僕の2割くらいしかなくなった時に、僕のことが好きだという人ができた。

 幸いにも僕もその人はいい人だと思った。

 けれども僕が外と接している面はもうほとんどなくて、だから僕は文字を通じてその人と交際を続けた。その人のピースはとても柔らかで、僕のピースの形とは丁度重ならないのでは、と思えた。

 文字が埋めている部分は、僕はその人とは直接に接することができない。少しもどかしい。

 手を触れても、どこか遠い。

 それで、僕は何故文字が瓶に詰まっていたかを理解した。


『不要になったのだ』と、文字は昔そう言っていた。ようは文字は前の持ち主の皮膚から切り取られたのだ。切り取って、封印されて、海に流された。そう気づいた時、文字は僕に問いかけた。


『私は不要になったのだろうか』

 不要? 今、文字がいなくなったら、僕は僕の殆どを失ってしまう。僕と外側の接点がなくなってしまう。そうすればどのみち僕は生きてはいけないだろう。

『生きることにしたのだろうか』

 生きる?

 瓶を拾ったときの記憶が蘇る。

 あのときの僕は圧力に押されてどうしようもない状態だった。結局のところ、僕には他のピースを押しのけるほどの力はなく、他のピースの圧力で押し潰れるところだった。

 だから僕がここで居座るより、代わりに他の適合するピースが来たほうがいいんじゃないかと思っていた。けれどもそれはとても癪だったから、決めかねていた。僕は生まれた時からこの形で、この形を決めたのは僕じゃない。だから僕のせいじゃない。


 僕の前には二つの道がある。

 一つは文字を手の甲から切り取って瓶に入れて海に流し、僕が可能な範囲で僕が直接好きな人と世界に触れる。でもきっと、文字がいなくなってしまっては外側のことがわからなくなるだろう。きっとまた押しつぶされてしまうだろうし、だいたい文字に任せっきりだったから、僕はこの世界でどうしていいかわからない。

 もう一つはこのまま文字に切り取られながら死ぬまで生きている。


 この文字はとても優しい。

 優しく僕をスポイルする。

 けれども文字がいなければ、きっと僕はいまここにいない。

 結局のところ、文字は緩やかに僕を延命させている。今だって僕は、代わりのピースが来るならそれはそれでいいとも思っている。

 すでに僕は色々欠けてしまって、そうやって生きてきたのだから、欠けることへの抵抗は、もはや大して存在しなかった。


 好きになった人の顔を思い浮かべる。

 好き。一緒にいたい。

 けれども好きな人はずっと僕といてくれるだろうか。そんなことを信用なんてちっともできなかった。きっとそのうち、形を変えて適合しなくなっていく。文字を通して見た世界では、だいたいがそのようなものだった。

 ただたまたま目の前にいて、ちょうど居心地がよかっただけ。会わなければ、好きにもならない。


 文字は人ではないけれど、文字はずっと僕の隙間を埋めてくれる。僕が全部なくなってしまうまで。

 それは信用ができた。

 文字は僕が全部なくなったらどうなるんだろう。

『どうもしない』

 いつも通りのそっけない返答。

 文字はきっと僕の中から僕の全てがなくなってしまっても、そのまま僕の体に居座るのだろう。それで反応しない僕の返事をいつまでも待って、結果として僕はそのまま動くのをやめて、僕の体はそのうち死んでしまって火葬されて、文字も一緒に燃えてしまう。

 なんとなくその未来は心中に似ている気がする。

『かまわない』

 文字は僕と一緒に死んでくれる。それはなんだか得難いものを手に入れたような、特別な感じがした。


 それならもう少し一緒にいよう。

 そう思うと、これまで特になんとも思っていなかったけれど、僕の隙間を埋める文字のことが少しだけ好きになった。

 そうすると、外の好きな人が少しどうでも良くなった。こうやって少しずつ外とのつながりが切れていく。けれどもそれはそれでもう構わない。砂時計が落ちるみたいで落ちきったらそこでおしまいなんだろう。


 結局の所、この文字の正体はよくわからない。けれども、それは僕にとっても文字にとっても重要なことではないらしい。

 僕は文字を通じて世界を覗いて、そのうち全部すり減って無くなって、文字と一緒に死ぬんだろう。文字は僕をバラバラに壊してしまったけど、結局出会わなければピースを交換していた気がする。文字と最初に会った時の悩みはそのままお終いまで棚上されて、でも最後に多分、解消される。

 僕は何かのために長い間取っておいた文字の入っていた瓶を、再び海に返すことにした。

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