40 : Lynn

「では、行くか」


 ハイジが立ち上がった。


「ヨーコたちが待っているだろうからな」


 ノイエの体は癒えた。

 まぁ、かなり血を失ったし、体力もほとんど残っていないが、栄養のあるものを食べて、しばらく療養すればすっかり元通りになるはずだ。


「……『伝令者ヘラルド』が切断されてるな」

「ヘラルド? 何それ?」

「ヨーコの能力だ。ヘルマンニの声が聞こえていただろう?」


 あのテレパシーか。


「普通は切断されるようなことはないのだが、あれは目を合わせないと発動しないからな。お前の『時間停止』で切断された今、再接続する方法はない」

「ふぅん? でもまぁ、好都合じゃない」

「うん?」

「あたし、嫌よ。あなたとの会話を覗き見られるのは」


 あたしが言うと、ああ、とハイジは笑った。


「ああ見えて、ヘルマンニは気の利く男だ。見るべきじゃないと思えば、覗き見たりはしないだろう」

「……なんとなく、女子の着替えを覗きそうなタイプだと思ってたけど」

「そう言えば、ペトラが若かった頃は、水浴びを覗きに行ってたな」

「駄目じゃないの」


 覗き、ダメ。絶対。

 しかし、ハイジはクツクツと笑う。

 ヘルマンニとペトラの間には、あたしにはわからない彼らの関係があるのだろう。


「能力を使わず、わざわざ足を運んでいたぞ。あいつなりの線引があるのだろうな」


 そう言いながら、ハイジはノイエを肩に担ぐ。

 ノイエ少年がまるで荷物のようだが、あたしが運んであげるわけにもいかない。


(もし精霊が、ハイジを『はぐれの守護者』としてふさわしくないと判断したなら––––ハイジが生きていられるのはあと何時間なのだろう)


 そうなったら、あたしはどうするだろう。

 魔物の森の廃墟で宣言したように、この世界を滅ぼして回るだろうか。

 時間の操作という、究極に近いずるチートを持つあたしならば、それは可能ではある––––。


「頼むから、もう自分を人質にするのはやめてくれ」


 ハイジがそんな事を言いだした。

 あたしの表情から、何を考えているのかがわかったのだろう。


「言っておくが、仮におれがヴァルハラ行きになっても、お前は世界を滅ぼしたりはせんよ。取引材料にはならん」

「わからないわよ? もしそんなことになれば、あたしは精霊を憎むだろうし、正気が残っていればまだしも、理性が飛べば何するかわからないわ」

「無駄だ。お前がそんなバカをしないことはわかっている。


(うぐっ)


「ひ、卑怯じゃない?!」

「そう言われてもな……駆け引きは好かん。そう思うから口にしているだけだ」


 行くぞ、といってハイジは走り出す。

 すぐにあとを追いかける。


 儀礼戦が行われた平野に近いこのあたりは、未だ死の気配が立ち込めている。

 そのうちの数パーセントは、あたしの手に依って生み出されたものだ。

 理性が飛んで、人を殺すことを何とも思わなくなった瞬間のことを、あたしはよく覚えている。


(殺すことに何の抵抗も、関心もなかった。––––快感すらも)


 少し暗い気持ちになる。

 あのときはハイジが止めてくれたが、もしハイジが死んで、あの時と同じような状態になれば、きっとあたしは止まらない。

 ハイジが好きだと言ってくれた自分を失くしたくない。


 あたしはハイジが死ぬなんて結末を、絶対に認めるつもりはない。

 だが、精霊の考えることなんて、あたしにはわからない。


(……時間がもったいない)

(時間停止)


 パシュ、と視界が切り替わり、時間の膜を突き破る感触。

 静止した世界で動けるようになった。


「……リン、あまり魔力を使うな。気づいてるか? お前、目や牙が魔獣みたいになったままだぞ」

「ふぅん……じゃあ、もう人間とは言えないわね。いっそ退治する?」

「アホなことを言うな」


 ハイジがむっとしたように答えた。


「感情の起伏だけでなく、魔力を使えば使うほどそうなるのかもしれんな。もう急ぐこともあるまい、時間を止める必要はないだろう」

「あるわ。ハイジが生き残るためには、ハイジの認識が問題なのよね? なら、説得するまでよ」

「そのための時間稼ぎか」

「あなたが強情だからよ」


 二人して睨み合う。

 うん、どうしても甘い雰囲気にならないが、これがあたしたちなのだろう。


「仮に俺が生き残ったとして、お前が人でなくなってしまえば意味がないだろう」

「あたしが人に戻れたとして、あなたが居なけりゃ意味がないじゃないの」

「……さっきも言ったが、死にたいわけじゃないぞ」

「あたしも、人間をやめたいわけじゃないわ」

「平行線だな」


 バカバカしい。

 簡単な話ではないか。


「あなたが生き残って、あたしをうんと甘やかせてくれたらいいのよ。そうしたらきっと角も牙も引っ込むわ」

「そんなことでいいのか?」

「それ以上に求めることなんて何にもないわよ」


 ハイジはクツクツと笑って、あたしを見る。

 完全に面白がってる顔だ。


「お前、おれが生き残ったとして、そんなことが許されると思うのか?」


 守護者には恋愛など許されないぞ、とハイジが言う。


「思うわ。だってあたしだって『はぐれ』だもの。ポリシーに反することにはならないわ」

「ふむ……それは悪くないな。そうか、考えたこともなかったが、『はぐれ』相手なら、人並みの生き方も可能だったのかもしれんな」


『はぐれ』のためにならないことは、あらゆることが禁則事項なのだっけ。

 どんな人生だそれは。ふざけるなという話だ。

 それに……


「サーヤやユヅキが聞いたら怒りそうね」


 ハイジは二人の想いを知っているわけで、その上でその気持を袖にしている。

 ユヅキのほうは明確に表明したわけではないが、サーヤに至っては告白の上「聞かなかったこと」にされている。「よく考えれば『はぐれ』相手なら問題なかった」では済まされない気がする。


(って、サーヤの場合はまた別の事情があるけどさ)


「……彼女たちには申し訳ないが、どのみちおれに付いてくることは出来なかっただろう。そんな未来はあり得なかった」


 エイヒムの人たちの協力があれば、なんとかなりそうではあるけれど……。

 まぁいい。IFもしも をいくら考えたところで意味はない。


「あたしは置いて行っても無駄よ。追いかけるだけだから」

「それは身に沁みて理解している」


 その言葉に、あたしは頬を膨らませた。


「なら、ついでに『はぐれ』であるあたしのために、もう少し生きようとあがいて暮れてもいいじゃない」

「無理だ。おれにとってお前はすでに守るべき『はぐれ』じゃないからな」

「どういう意味?」

「もはや、お前が『はぐれ』かどうかなんて関係ない。お前はお前だからな」


 その言葉はあたしにとってはとても嬉しいものだ。

 しかし。


(どうすればハイジは生きようと思ってくれるのかな)


 あたしには、とてもではないが「まだ『はぐれ』の守護者を続けろ」などという言葉を口にはできなかった。

 ハイジはこれまで、十分すぎるほど『はぐれ』のために尽くしてきた。

 それこそ、身も心も全て捧げて。

 それはもしかすると『魂の契約』を通して精霊に強制されていたからかもしれないが、あたしに言わせれば、そもそも、ハイジは『はぐれ』のために戦い続けたと思うのだ。

 ならば、そんな契約は無効だ。

 どんな力を与えられたのかは知らないが、そんなもの、努力家なハイジなら地力で身につけたに違いない。

 

 つまり、精霊との契約など、何の意味もないと、あたしは思うのだ。


(本当なら、ハイジには少しくらい休息が必要なはずだ)


 だからこそ、ハイジには生に対する執着がない。

 生きることが、すなわち自分を殺し続けることだったからだ。


 気づいたら、あたしは泣いていた。

 

 あたしは、ハイジに生きていて欲しい。

 でも、そのためにこれ以上ハイジに無理をさせたいわけではないのだ。


 もう、十分だ。

 ハイジはすでに十分戦い、傷つき、そして功績を残してきた。

 いい加減、休んでもいい頃なんだ。

 

「……ぐすっ……」


 あたしが鼻をすすると、ハイジが走る速度を緩めた。


「……何故泣く」

「わかんなくなっちゃって」

「うん?」

「あたし、ハイジに生きていて欲しいよ。でも、これ以上辛い思いをしてほしくない。どうなればいいのか、自分でもわかなくなっちゃった」

「……お前が思うほど、辛い思いはしていないが」

「それ、辛いと思うことすらも禁則事項だからでしょうが」


 あたしの目から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。


「あたし、嫌よ。ハイジが辛いのも、居なくなっちゃうのも」

「……すまん」

「謝らないでよ……。いっそ、一緒に死ねたらそれが一番いいのかもね」

「いや、戦いで死なないかぎり、ヴァルハラには入れない。戦死者の館だからな。今お前が死んでも同じ場所には行けないぞ」


 そういう意味じゃないわよ、バカハイジ。


「もう十分頑張ったじゃないの。契約がどうかしらないけど、とっくに返済は終わってるわ」

「どうだろうな」

「生きていて欲しいだけじゃないの、あたし、ハイジに報われて欲しいんだ」

「リン……」


 と、その時だった。

 ほとんど静止した世界のはずなのに、を感じた。


 それは、弱々しく微弱な気配と、もう一つ。

 二つの気配が、混じり合うようにあたしとハイジの元まで届いた。


 魔力を通した視界で見ると、蜉蝣カゲロウみたいな今にも消えそうな輝きと、その隣に赤黒い光。


(––––これって、もしかして)


 あたしがハイジに視界を向けようとする間もなく、ハイジが矢のような勢いで気配に向かって走り出した。

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