39 : Lynn
ノイエが転がされていたのは、兵站病院というのは烏滸がましいほどの酷い環境だった。
ハーゲンベックは戦えなくなった者をまともには扱わない––––ヘルマンニが言っていたことの意味がわかった。
なにせ、巨大なテントの中はただの土で、ベッドもなくただ一枚の布が敷かれているだけ。そこに、大量の怪我人が転がされている。
ノイエの隣の兵はすでに事切れている。死者も怪我人も一緒くた––––医師や看護師らしき者も一応は居はするが、明らかに不衛生だし、まともな治療を行っているようには見えない。
まるで、戦傷者を見捨てていないというアリバイづくりのための場だ。
この場所に潜り込んでも、誰もあたしとハイジに気づかない。
気配遮断しているせいもあるだろうが、そもそも誰も他人に意識を向けるだけの余裕がないのだ。
そんな中、ハイジはどこか悲しげな目でノイエを見下ろしている。
ノイエの腕は肘から先が無い。斬ったのはハイジである。
二の腕あたりできつく縛られており、縛られたあたりまで完全に壊死している。
熱があるのか、ノイエは酷い顔色で、ゼイゼイと息を荒くしながら汗をかいている。
こう見ると、黒に見えた目もどこか青みがかっていて、西洋的な顔立ちも含めてこれまで見てきた『はぐれ』とは違う。だが、それは元の世界を知っているから感じることだ。
「リン、なんとかなるか?」
「するわ」
あたしはノイエの腕のあたりに魔力を注ぐ。
だが、切断面のあたりに光が集まっていかない。
(多分、壊死した腕が付いてるのが不味いのよね)
(かといって……どうするべきか)
あたしは、耳を怪我たときのことを思い出す。
あの時、ハイジはあたしの耳の傷口を削り取り、あえて
おそらくは、ノイエの腕にも似たような措置が必要なのだろう。
「ハイジ」
「何だ」
「ノイエ君の口を押さえておいて。腐ったところを切り落とさないと、治療ができないわ」
あたしの言葉に、ハイジは眉間の皺を深くする。
「……どのあたりまで斬ればいいんだ?」
「そうね。肩からつながったあたりまで紫色だから、その境目かな……」
「ならば、俺が斬ろう」
ハイジが言う。
だが、あたしを気遣っているつもりなら、余計なお世話だ。
「ううん、あたしがやるよ。事実はどうあれ……ハイジから見れば『はぐれ』と見分けつかないでしょ?」
「いや、それは俺がすべきことだと思う」
ハイジの口調から、ノイエを斬ったことに対する自責を感じる。
だが、それは間違っている。『はぐれ』でさえなければ、ハイジは躊躇なくノイエを斬り殺していただはずだ。
ならば––––そのことに罪の意識を持つことは、傭兵として間違っていると思う。
しかし、ハイジが強い語調で繰り返す。。
「俺にやらせて欲しい。ノイエはおれを慕っていた。父親だと誤解していたからとだはいえ……おれに斬られたときは、きっと裏切られたと感じただろう」
「ハイジ……」
「だから、最後まで俺がやる。そしてヨーコのところに連れて帰る」
(ヴィーゴのところに?)
ハイジの言葉に、あたしは引っかかりを覚えた。
だが、こうしている時間にも、ノイエは苦しんでいるのだ。
「……わかったわ。じゃ、とりあえず右腕からね」
「ああ」
ハイジが
▽
ノイエの悲鳴が響き渡る。
口を抑えて、さらに気配遮断を幾重にもかけていなければ、ハーゲンベックの兵たちが飛んできたことだろう。
極端に下がった血圧のせいで、吹き出す血の勢いは弱い。
あたしは全身全霊で治癒をかけまくる。
「ウーーーッ! ウーーーーッ!!」
口を抑えるあたしの手を、ノイエが噛み付いた。
ゴリ、と嫌な音がしてあたしの指の骨が断ち切られた。
「ギ……ッ!」
思わず声が漏れる。
腕を切り落とした時と大差ない激痛が走り、体がこわばる。
涙がボロボロと出た。
(この野郎、痛いでしょうが)
完全に恐慌状態のノイエは見開いた目であたしとハイジを交互にギョロギョロと見ている。
間違いなく「殺しに来た」と思っていることだろう。
(残念、助けに来たんだよ)
治癒は成功––––ズルリ、とノイエの手が生える。
しかし恐慌状態のノイエはそれに気づかず暴れている。
あたしは中指と薬指を失ったが、痛みを無視して口を抑え続けた。
「ハイジ、左もやっちゃって」
「ウウーーーーーッ!?」
ハイジが
恐怖でノイエが叫ぶが、どれだけ叫ぼうと、周りに気づかれる心配はない。
あたしの指をゴリゴリ噛み砕いているが、もう好きにすればいい。
「ヴーーーーーッ!?」
肩口で切り落とされるノイエの腕。
同時に治癒––––ノイエが痛みでか、あるいは恐怖からか、ガクリと気を失った。
一瞬ショック死したかと思ったが、息はしている。ならば問題はない。
「くっそ……
気絶したノイエの口から、指を噛み切られた手を放す。
骨は噛み砕かれているが、肉でつながっている。
しかたなくハイジに傷口を向けると、ハイジはグッと口を引き結んで、すぐにグレートソードで傷口を切り落とした。
即座に治癒するあたしの指。
痛みもあっという間に引いていく。
とはいえ、痛みの記憶が残って、脂汗が大量に吹き出てくる。
それでも、気を失ったノイエに魔力を注ぎまくる。
疲労や体力の全てを癒やすことはできないが、少なくとも命に関わるような怪我は無くなったはずだ。
(は、ぁ…………キッツ…………)
あたしはへたり込んでため息をつく。
血の匂いが酷い。
そもそも兵站病院全体に、腐ったような、据えた匂いが充満している。
あまり居心地のいい環境ではない。
「リン」
「うん」
「よくやってくれた……感謝する」
「うん」
ハイジがあたしの肩を強く抱く。
あたしもハイジの体に頭を預ける。
「ノイエ君、助かったと思うよ」
「……ああ。ヨーコが喜ぶ」
「……何でヴィーゴさん?」
「ヨーコにとって、師匠は特別だったからな」
「ふぅん」
ハイジもかなり疲れたようだ。
それも当然、現実時間は短縮したが、走る距離が短くなったわけではない。
その上、自分の腕を切り落としている。これで疲れていなかったらもはや人間ではない。
(って、人間かどうか怪しいあたしが言うことじゃないけど)
「これからどうするの?」
「ノイエを、ヴィーゴのもとへ届ける」
「……これで、ハイジが死ぬことは無くなった、のよね?」
「さて、それはどうかな……」
あたしはムッとして言い返す。
「何でそんな言い方するのよ。ノイエ君が『はぐれ』じゃないことはもう明白でしょ? なら、ハイジが死ぬことはもう無くなったじゃないの」
「…………前も言ったが」
ハイジは困ったように眉間に皺を寄せる。
「この子が『はぐれ』かどうか、あるいはこの子に手をかけたことが『はぐれ』の守護者としてふさわしいことだったかどうかは、おれの認識次第だ」
「そう言っていたわね」
「ヘルマンニの推理はおそらく正しいだろう。言われてみればノイエは、アゼム師匠によく似ている」
特にこの巻毛がな、と言ってハイジはノイエの髪を触る。
「なら––––」
「だが、おれはすでに『はぐれ』の守護者として失格なのではないか?」
「ううん、そんなことない!」
あたしは慌ててそれを否定した。
もしそれを認めてしまえば––––ハイジのこれまでやってきたことが全て無駄になってしまう気がしたのだ。
「ハイジは、いつだって『はぐれ《あたしたち》』のために戦ってくれていたよ」
「ああ、自分でもそう思っていたが……」
ハイジはハァ……と小さくため息を付いて、
「だが、流石に疲れた」
と、つぶやくように言った。
「おれだって死にたいわけではないんだ。昔ならともかく、今はお前が居る。もう少し生きてみるのも悪くないと思っている」
「なら––––」
「だが、どうだろうな。これからも『はぐれ』の守護者として生きていけるか、と訊かれれば、おれは––––」
ハイジは少し躊躇してそれを口にした。
「自信はない」
「そんな……」
その言葉は、ハイジらしくなかった。
いや、もしかすると今のハイジこそが、本当の姿なのかも知れない。
ずっと無理をして、疲れ果てているのにそれを隠していただけ。
だとすれば……『もう沢山だ』と、『休みたい』と思ったとしても、無理はない––––
「だから、精霊がおれをどうするかは、正直なところ、おれにもわからん」
「で、でも! ハイジが頑張ってきたのは間違いないじゃない! 少しくらい労われてもいいはずよ!」
「精霊にとっては、そんなことはどうでもいいことだろうな」
ハイジは苦笑する。
まるで自嘲するみたいに。
「幻滅したか?」
「するわけがないわ」
「おれは、周りが思っているほど強くはないぞ」
「知ってるわ」
よく知っている。
『番犬』、『はぐれ』の守護者、ライヒの懐刀––––魔物の森のハイジ。
その強さはヴォリネッリ全土に轟いている。
でも––––––––
「ずっと見ていたあたしは知ってるよ。本当のハイジは、とても臆病で、傷つきやすい。どんなに強くても、本当はとても悲しくて、寂しくて、戦うには不向きなくらいに優しい––––––––」
「––––––––そうか。お前には、おれがそう見えていたか」
「ええ。でも」
あたしの中にあるハイジがどんな男なのか、嘘偽り無く伝えよう。
「あたし、強い人間が好きじゃないわ」
「うん?」
「何があっても傷つかない、強靭な心の持ち主を、あたしは好きになれない。だって、恐れ知らずな人には、勇気も必要ないでしょう?」
「…………ああ、そうかもしれないな」
「でも、弱い人が強くあろうと足掻く姿は好き。臆病な人が誰かのために戦うのは、始めから強い人の何倍も、何百倍も勇気が必要なはず。あたしは、そういう弱い人の勇気こそが、本当の強さだと思う」
「…………」
「だから、ハイジ。あなたは弱くて、だからこそ、誰よりも強いわ」
そう言うと、ハイジは自分の腕の中に顔を埋めた。
「やめろ」
「……何よ、もしかして泣いてるの?」
「泣いてない。だが……お前には、弱いところは見せたくない」
「バカね。あたしは、あたしにだけあなたの弱いところを見せて欲しいのに」
「……前から思っていたのだが、お前はどこかおかしいのではないか?」
あたしはそのセリフに、思わず吹き出しそうになった。
「そうかもね。だってあたし、そんなあなたを見て、今までよりもずっと、これまでで一番、あなたのことを愛しく感じているもの」
「…………俺もだ」
ハイジは顔をうずめたまま言った。
「お前は『はぐれ』だ。この世界では圧倒的に弱者だ」
「そうね」
「体力はないし、身体的にはあまり強い方ではない。ただの子どもだった」
「自覚してるわ」
「なのに––––どうしてそんなにも強くいられる?」
その答えは、とても単純だ。
––––––––あなたが居たからよ、ハイジ。
「おまえは、弱くて臆病だった。だが、そんなお前が強くあろうと足掻く姿は––––とても眩しかった。だから、そんなお前を俺は……」
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