41 : Lynn

「待って!」


 すぐにハイジの後を追うが、このあたしの脚を持ってしても追いつくのがやっとだ。

 肩に担いだノイエの体が心配になるほどのスピードだが、そもそも今この世界は静止しているのだ、そんなに慌てなくとも……


(動いている?!)

(この静止世界で?!)


 意識を向けたことではっきりする。

 間違いない。そこには……


(『はぐれ』の子ども!)

(––––と、魔獣! たった今、この世界に生まれ落ちたのか!)


 まるで、時間の流れを無視するみたいに、二つの気配が絡み合う。

 魔獣––––マーナガルムだ。

 狼の魔獣が、たった今この世界に現れた『はぐれ』の子どもを襲おうとしている!


 ついさっき『はぐれの守護者として生きていく自信がない』などと言っていたハイジは、嘘のようにいつものハイジに戻っている。

 しかし、肩にはノイエが––––剣を抜こうにも、さすがに狼のほうが動きが速い。


 狼はハイジとあたしの存在を視認すると同時に、歯を剥き出して体勢を低くする––––見慣れた威嚇行動だ。しかし、『はぐれ』の子どもはまだ無事である。


「うぉおおおおッ!!」


 ハイジがすれ違いざまに子どもを拾い上げる––––見れば、に包まれた、まだ生まれて数ヶ月の赤ん坊だった。

 獲物を奪われた狼は、二人の子どもを背負ったハイジに向かっていこうとする。ひとりで戦うのと違い、誰かを守りながら戦うのは、倍の技量が必要だ。しかも、気を失った少年と、激しい動きに耐えられない小さな赤ん坊––––!


 しかし、



 ▽



「ハイジ! 動かないで!」


 あたしはハイジに向かって大声で怒鳴った。

 そして、走ることをやめ、マーナガルムに向かってゆっくりと歩いていく。

 剥き身の細剣レイピアは、すでに布に包んでハイジに預けており、完全な無手である。


「リン!?」

「大丈夫」


 あたしはマーナガルムの目を見つめたまま、ゆっくりと歩み寄る。

 マーナガルムは歯を剥き出したまま、あたしに向かっていつでも飛びかかれるように姿勢を低くしている。


 でも。


 あたしの額にも、マーナガルムと同じような、いや、それ以上に立派な捻れた角が生えている。

 自分ではまだ見たことがないが、牙も生えて、瞳孔も縦に長くなっているという。

 時間を止め、壁を歩き、人を襲う––––あたしは、すでに人間とは言えないだろう。

 目の前のマーナガルムと、一体どんな違いがあるというのだろう。


 だが、あたしの耳には、切れ込みが入っている。

 はじめは自分でつけた傷だった。

 でもこれは、治療のためにハイジが改めてつけた傷だ。

 それはまるで、所有者を示すしるし––––––––。


 あたしはマーナガルムの目の前に立つ。

 マーナガルムは、怯えたように一歩後ずさるが、あたしはそっとその角に手を触れた。


「リン、離れろ!」


 ハイジが慌てて叫んでいるが、あたしはそれを手で制す。

 大丈夫、ハイジ。

 見てて。


(撒き散らされた死を集めてくれてたのね)

人間あたしたちが撒き散らした死を)


 あたしはマーナガルムを撫でる。

 ちょうど、ハイジがあたしを撫でてくれた時のように。

 ゆっくりと、角や、その頭や、耳の後ろなんかを優しく。


(そうだよね、このまま放っておくわけにもいかないからね。キミたちが集めて、どこかに届けてくれてたんだ)


 魔物の領域は、人の死が集まる場所に発生する。

 疫病が流行ればそこに。虐殺が起きればそこに。

 そして、戦争が起きれば、戦場に––––。


(誰かがやらないといけないことだったんだ。そして、人に狩られて、ようやく死者の魂をあるべきところまで運ぶ)

(キミたちはそのために生まれて、だったんだ)


 自分自身が魔獣になることで、ようやく理解できた。

 魔獣たちは、人と隣合わせの存在なのだ。

 戦死者たちの怒り、悲しみ、苦しみ、全てを背負って生まれてくる。

 だからこそ、死を恐れずに、ハイジのような到底勝てるはずもない英雄にだって向かっていく。


 マーナガルムは、あたしになされるがままに撫でられている。

 心地よさそうに目を細めて、まるで人に慣れた犬のようにあたしに体を擦り付けてくる。


 魔力を通してみてわかる。

 すでに、マーナガルムの悪意や殺意は綺麗に消えている。

 ––––それは、あたしが魔力として奪い取ったから。


 ハイジがその様子を呆然と見ている。


「ハイジ」

「あ、ああ……」

「行こう」


 じゃあね、とマーナガルムの頭を撫でると、あたしはハイジを促して走り出す。



 ▽



「何だったんだ? 先ほどのあれは」

「うん……その前に、ハイジ」

「なんだ?」

「ありがとう……あたしを、ううん……あたしたち『はぐれ』を守ってくれて」

「なんだ、いきなり……」


 ハイジが怪訝そうにあたしを見る。

 その腕には、小さな赤ん坊が抱かれている。


「意味がわからん……」

「うまく説明出来ないんだけどね。でもハイジ、あなたが死ぬことはもうないよ」

「どういうことだ?」

「だって、その子をどうするつもりなの?」


 そう言うと、ハイジは何とも言えない顔で赤ん坊を見た。


「まさか、俺に育てろとでも言うのか」

「そうよ、というか……ハイジの本来の役割は『はぐれ』の守護だけじゃなくって、なんだから」

「……何を言ってるんだ、お前は……? お前みたいな酔狂な女でもないかぎり、『はぐれ』が傭兵になんぞなりたがるわけがないだろう」

「いや、別に傭兵にする必要はないんだけど」


 だが、これからの『はぐれ』は、最低限の戦闘能力が必要になるだろう。


 何故って、あたしは唐突に理解出来てしまったのだ。

 ハイジの人生の本当の意味を。


「でも、これだけは言えるわ。ハイジ、あなたが『はぐれ』の守護者として生きてきた理由は、精霊との契約なんかじゃないわ。というか……契約なんて始めからなかったのよ」

「うん? なら何だというんだ?」

「それは、あと数時間だというハイジの人生が、本当に終わるかどうかでわかるわ。ま、あたしはハイジが死なないことを確信しているけどね」


 あたしが笑うと、ハイジは「意味がわからん……」と首を横に振った。

 だが、簡単には説明できないのだ。

 でも、今回のノイエの一件で、あたしの、いや『はぐれ』の本来の役割は理解できた。––––ならば、ハイジの役割も同時に明確だ。


「ね、ハイジ。あなたは嫌がるかも知れないけれど、全部が終わったら森へ帰りましょう。そして、一緒にその子を強く育てましょう」

「……説明は無しか?」

「そのうち説明するわ。でも、今は急ぎましょう。ほらハリー!」

「全く……」


 ハイジはあたしから言葉を引き出すことを諦めて、ノイエと『はぐれ』の子どもを揺らさないように走り続けた。



 ▽



『あー、あー。聞こえるか?』

(ヘルマンニ!)

(ようやく目線が通ってくれた。だが、随分早かったな)

『接続が切れたときは、お前が死んだんじゃないかと肝を冷やしたぜ』

(……ヘルマンニの『遠見』で無事がわかるまでは、気が気じゃなか……おい、ハイジ。その腕の中の子どもは一体何だ)

(帰りに拾った『はぐれ』だ)

(『はぐれ』?! ハイジ、アンタまた『はぐれ』を拾ったのかい?! ここまで続くと、さすがに偶然とは言えないだろ!)


 あー、現実世界では一日だが、体感時間ではまる三日ぶりか。

 英雄組の声がどこか懐かしい。


(お前たちはどこに居る? こちらからは見えないが)

『師匠の墓のそばだ』

(あの丘か……うん? ああ、見えるな。芥子粒みたいだが)

(ハイジ。リン。俺たちは先に行って待っている。慌てなくていいからゆっくりと来い。……どうせ、ハイジが死ぬのなんだのってのも、どうにかなったのだろう?)

(おかげさまで)


 ヴィーゴ、本当はノイエのことが心配なんだろうに、一言もその事に触れないんだもんな……面倒くさい性格だ。


「ハイジ、お師匠さんのお墓ってのは?」

「ああ、丘の上の見晴らしのいい場所にある。亡くなって埋葬してから、今日が始めての墓参りだな」

「……お師匠さんが亡くなって、二十年って言ってなかったっけ」

「そうだな」

「墓参りくらい、毎年やんなさいよ」


 あたしが非難するように言うと、ハイジは気まずげな表情を見せた。


「……弟子たちが仲違いした状態のまま、墓参りには行けなかったんだ。遺言でな」

「じゃあ、とっとと仲直りすりゃよかったのに、何が原因で仲違いしてたのよ」

「わからん。わからんが……どこか気まずくなってしまってな」

「で、ヘルマンニが間を取り持ってたってわけね」

(そうだぜー。こいつら素直じゃねぇからよ。ハイジは森に籠もっちまうし、ヨーコはギルドの仕事ばっかだし、ペトラは傭兵も冒険者もやめちまうしよー)


 あたしが言うと、頭にヘルマンニの軽薄そうな声が響いた。

 思わずクスっと笑ってしまった。


「偉いわ、ヘルマンニ」

(だろ? だろ? 惚れてもいいんだぜ)

「それは遠慮しとくわ」

(ちぇー、冷てぇなぁ。俺はリンのことこんなに愛してるのによぅ)


 いや、あんたあたしのこと、ハイジに「お前の女」って言ってたでしょうが。

 本当に冗談ばっかりだ。


 と、その時、どこかで聞き覚えのある「ゴォーーーン」という重たい金属音が聞こえた気がした。

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