20
その声に、ハイジとあたしは同時に勢いよく振り返った。
そこには、どこか狂気を孕んだ笑みを浮かべ、無防備に立つ少年。
––––まるで気配がなかった。
嫌な汗が流れる。
気配遮断とは何かが違う。もしそれだけなら、ハイジもあたしも魔力探知で確実に探査できる。
少年はそこにいると気づきさえすれば、強烈な感情を辺り一面に発しているのがわかる。にもかかわらず––––あたしだけでなく、ハイジですらすぐそこに立つその存在に気づかなかった。
「ああ……やっとだ、やっと会えた!」
少年は上気し潤んだ瞳であたしたちを熱心に見つめている。
いつも軽装のあたしだが、それにさらに輪をかけて軽装––––剣を帯びてはいるが、まるで自室で寛いでいるかのような、戦いには不向きな服装。
年の頃はまだ十代のように見えるが実のところはわからない。もしかするとあたしよりも年上の可能性だってある。
東洋系の血の混じった顔だが、おそらく日本人ではあるまい。
艷やかで畝るような巻き毛は
––––
気配の察知は、魔力探知と対となる力だ。だが、なぜか
まるで死人のように。
(なんだ……こいつ)
こんなに生命力のない人間……いや、生物がいるのか。
不気味過ぎて吐きそうだ。
そしてようやく理解する。
魔力を通した世界では、生命は輝く光の点のように認識される。邪気のない者の魂なら明るく強く、魔獣たちのように悪意や殺意を持っていれば暗く赤黒く輝く。
目の前の少年は––––
「ずっと会いたかったよ、ハイジさん。それに、はじめまして、『黒山羊』」
視認が難しいほどに
* * *
シャラン、といい音を立てて、少年がレイピアを抜いた。
あたしは一瞬認識が遅れ、
「リンっ!」
ハイジに突き飛ばされてようやく襲われたことに気付いた。
たった今あたしが居た場所に、少年のレイピアが鋭く真っ直ぐに突き出されている。突き飛ばされていなければ、今頃は確実に喉を貫かれていた。
ドッと汗が出る。
(ヤバイヤバイヤバイ!!)
まったく認識できなかった! こいつ、生命力も魔力も溢れるほどなのに、色が暗すぎてまったく気配が感知できない! 魔力感知無しで目で追う状態では、あたしの剣は未熟すぎる!
(だけど……あたしにはこれがある!)
転がされた一瞬で連打するかのように伸長の重ねがけ–––––そこから超加速で攻撃に転じる。
「やめろっ! リン!」
ハイジの制止を振り切って敵に迫る。––––『はぐれ』だろうがなんだろうが、敵には違いない。
––––––––殺すッ!!
「おっと」
しかし、少年は柔らかく微笑んだまま、超加速中のあたしの剣をヒョイと避けた。––––いや、なぜか
「うぐっ……!?」
バチン! と、体中に引きちぎられるかのような衝撃と痛みが走った。
(な、何?!)
「あれ、なんだ弾け飛ぶかと思ったのに」
少年は笑いながらそんなセリフを吐いて、レイピアを抜き放つ。
体が動かない。体中の筋肉が断裂を起こしたかのように痛む。
(や、やば、避けられない……!)
「させんっ!!」
それを止めたのはハイジだ。極限まで圧縮された刹那の時間に割り込み、少年のレイピアを
「ふぅん、……やっぱりハイジさんはその子を守るつもりなんだ」
「当然だ」
ハイジと少年が対峙する。
少年は薄く笑い、ハイジは少年を強く睨んでいる。
「その子を目の前で殺したら、ハイジさんはどう感じるのかな」
「そんなことはさせん」
「じゃあ、頑張って守ってあげてよ…………ね!」
少年がハイジに迫る。少年の剣の腕はそれなりのものだったが、ハイジに届くような熟練のものではない。この程度の腕ならば、ハイジが負けることなどありえない。
しかし、なぜかハイジはジリジリと後ろに下がる。まるで防戦一方だ。
(どうしたの、ハイジ)
ハイジの顔には明らかな焦りが浮かんでいる。
これまで見たことがなかった必死の表情……そして、少年を攻めあぐねている。
「やっぱりね、ハイジさんもぼくを
「違う! お前は……」
「違うっていうなら、ぼくを殺せばいいじゃないか。ほら、簡単でしょ?」
「……何故だ、何故おまえは……」
「ハイジさん、ちょっとお喋りになった?」
少年は少し不愉快そうな顔をして、またすぐに笑顔に戻る。
「もしかして『黒山羊』のせい? こんなどこにでもいるような子のせいで、ハイジさんが変わっちゃったのかな」
「リンっ! 避けろ!!」
ハイジの言葉にハッとする。目の前まで短剣が迫っていた。
いつの間に放ったのか、目視するまで認識ができなかった。
(くっ! 『加速』……っ!)
「残念っ!!」
「あぐぅッ……!!」
バチィン、と体に衝撃が走った。
「あはっ! 凄い凄い、君、丈夫だね!」
「な、何を……!?」
「何って……知ってどうするの? どうせ死ぬのに」
身を翻し、あたしに向かって駆ける少年。ヒュ、と振り下ろされるレイピアを、あたしは呆然と眺める。死ぬかも知れないとは思っていたが、死とはこんなにあっけなくやってくるものなのか。目を閉じるのは癪だったので、あたしは瞬きもせずにあたしを襲う刃を見つめる。
しかしレイピアは降ってこなかった。ドスン、と重たい音がして、少年が吹っ飛ばされる。ハイジの蹴りだ––––しかし少年の命を刈り取ることはできなかったようだ。少年は何回も地面を跳ねて転がっていき、それでもゲホゲホと咳き込みながら立ち上がった。
「……ハイジ」
「リン、逃げるぞ」
「えっ! な、何で?!」
「勝てん。殺されるぞ」
こんな様子のハイジを見たのは初めてで面食らうが、あたしの体はなぜか麻痺したように動かず、立ち上がることができない。
ハイジはあたしを担ぐと自陣に向かって走り出した。
後ろからは、狂気じみた哄笑。
「あははははは……! また会おう、ハイジさん、黒山羊のリン!」
ハイジは走る速度を速めた。
背後から、ずっと狂ったような笑い声が響いていた。
* * *
自陣に戻り、仮設の兵站病院に転がされる。
体中の痛みに耐えかねて、うめき声を抑えることができない。
「うぐ……っ、はぁっ、はぁっ、ぐッ……!」
「
ハイジが焦った声で怒鳴ると、わらわらと治癒師たちがやってくる。
「『番犬』殿! 患部はどこですか!」
「頭の先から手足の先まで全てだ! くまなく魔力を送れ! 魔力暴走だ! 」
「魔力暴走!?」
慌てたように治癒師たちがあたしに振れる。
触れたところから、痛みが消えていく。
「……『黒山羊』に何があったんですか」
「……循環術式を無理やり切断された」
「な……っ!? よくご無事でしたね?!」
(循環……術式……?)
痛みで頭が朦朧としているが、その言葉だけが頭に引っかかった。
「無理やり、言われましたが、自身で暴走させたのではないのですか?」
「ああ、外部からだ。魔術の発動の瞬間にやられた」
「そんなことが可能なのですか?!」
「可能だ。それができる人間を俺は知っている。それより魔力が足りん。他に治癒師はいないのか?!」
「申し訳ありません、重症者の数を考えると、これがギリギリで……」
ああ、ハイジが無茶言ってる……
「ハイジ……」
「リン、大丈夫だ、寝ていろ」
「……ハイジ、無茶言っちゃダメよ、あたしの他にも怪我人はいるんだから」
「……だが、お前が抜けるとこの戦は負ける。今ならすぐにでも完治できるんだ、やらない手はない」
「……そんなこと考えてないくせに」
言い訳を並べているが、身内に弱いだけだ。
そうこう言っているうちに、みるみるうちに体の痛みはなくなっていく。
あんなに痛かったのに、嘘のようだ。
あたしの表情が柔んだところをみて、ハイジはホッと息を吐き、治癒師から受け取った何かをあたしに差し出した。
「リン、これを飲め」
「これ、何?」
「お前がいつも飲んでいるハーブの根だ。練って丸薬にしてある」
「もらうわ」
差し出された丸薬をぬるま湯で流し込む。
やけに苦かったが、その苦味が心地よかった。
「……具合はどうだ」
「問題ないわ、なんだかさっきまでの不調が嘘みたい」
「だが、今日はもう戦えまい。魔力が枯渇しているし、まだそこら中穴だらけだから、今も溢れ出続けている」
「……なんなの、アレ」
「魔術を発動する瞬間に、反発する魔力を流し込まれたんだ。発動できずに暴発するとそうなる」
「そう……」
「二度も連続してあれを食らって、生きているのが奇跡だ」
「普通なら死んでたってこと?」
「ああ、爆散していてもおかしくなかった」
爆散?!
「ちょっ、ちょっと、流石に怖いんだけど」
「……こうした事態になることは、想定できた。対応を怠った俺のミスだ、すまん」
「謝らないで、ハイジ」
悔しそうに顔を歪めるハイジだったが、あたしはハイジのミスだとは思っていない。謝られる筋合いはない。
それよりも、あたしは別のことが気になっている。
「それで、ハイジ。あの男の子は一体誰なの?」
知り合いなんでしょ? というと、ハイジは苦虫を噛み潰したような顔で「ああ」と言って頷いた。
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