5・辺境の田舎屋敷・5
ユイは眉をひそめ、憂いのある表情で窓越しに空を見上げていた。
「どうしたのかね? ユイ――」
執事であるヤーユーが声をかける。
「すこし空が気になりまして」
ヤーユーも覗き込むように空を窺う。空はきれいな茜色。
「うむ……すこし雨が降りそうですな」
そんな空なのに、ヤーユーがその言葉を使う時はいつも決まって悪い知らせしかない。
「もしや……お嬢さまや子供たちになにかあったのでは?」
「落ち着きなさい。お嬢さまにはノワールがついているのですから滅多なことはないでしょう」
ヤーユーは落ち着かせるようにユイの肩に手を添える。
それはいうなれば祖父が孫をあやすように優しく。
「――おいっ! 領主様はッ? ヤーユーさんでもいいッ! 誰かいないか?」
屋敷の玄関の戸が慌ただしく開かれる。
そこには必死の表情を浮かべている大柄な男が息も絶え絶えに、扉に寄りかかりながら立っていた。
「……あなたはルストどののお父上。いかがなさいました?」
尋常ではないとすぐに察したヤーユーであったが、心に余裕を見せるようにゆっくりとした足取りでその男に近づく。
「それがよぉ……倅に近くの野原で薬草を摘むようにって言ったんだよ。いつもの四人で行ってこいってな――」
ルストの父親――ガイストは息をととのえるようにしながら説明をする。
「ユイッ! 急いでこの方に水と回復薬を」
「待ってくれヤーユーさん。オレが一緒に――」
言うが、ガイストは片膝を崩し、その場に倒れた。
「ケガが完治していないなか走ってきたのだ。傷が悪化したらどうなるのか元冒険者のあなたがわからないわけではなかろう?」
ユイはガイストに寄り添おうとしたが、それよりもまず言われた通りに厨に置かれた水瓶から飲水を汲み、薬と一緒に持って来た。
「す、すまねぇ」
ガイストは薬を受け取り口に含むと、器の水を飲み干す。
「ユイ、わたくしはしばらく屋敷を留守にしますが、旦那様かたには後ほど説明します」
「――お気をつけて」
ユイはちいさく頭を下げるのを確認したヤーユーはパッと外へと駆け出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「くっ……」
ヒグマの爪は虚空を切り裂いた。
「姫っ!」
ユタはそれをすんでのところでかわし、体勢を取り戻す。
「大丈夫」
ゆっくりと呼吸を落ち着かせ、構えを取った。
「逃げるって選択肢もあるよ?」
「でもこいつをどうにかしないとここで薬草が採れなくなるよ?」
自分の身よりもまずそっちが優先なのはどうなのだろう。
そう思いながらも、
「それにノワールが一緒だもの……なんとかなるんじゃない?」
あっけらかんとした主人に、
「ほんと……ボクはあの姉妹女神を恨みたくなるよ」
とノワールはため息をついた。
「大丈夫、姫はボクが守るから」
毛を逆立たせ、ヒグマを威嚇する仔猫に、ユタはちいさく口角を上げる。
刹那、地面を蹴るように飛び上がるや、ヒグマの顔めがけて回し蹴りを食らわせた。
「違うよノワール。ふたりで倒すんだよ」
ヒグマは突然食らったユタの回し蹴りに一瞬怯んだが、すぐに体勢を整え、爪を振り下ろす。
「ノワールッ! なんでさっきの魔法が効かなかったの?」
爪を避けながらユタはそうたずねる。
いつもならこの近くに出現する魔物くらいならばノワールの魔法が通じないことはなかった。
「ボクにもそれはわからないよ?」
困窮した声で言い返すノワールを見て、
「もしかしてあのヒグマも魔力を含んだ草や果実を食べたんじゃないかな?」
ユタの言葉に、ノワールは「あっ」と口を開く。
「ありえるかも……」
自分が説明したことを思い出したノワールは呆然とした顔でユタを見た。
「でも魔力を摂取するにも限度ってものがあるんだよ。さっきのコップと一緒」
生き物でたとえるならばそれは空腹と同じだ。
そしておなかがいっぱいとなればそれ以上は摂取しない。
魔物もそれは同じで、空腹を満たすのは口にするものに含まれている魔素であり、それが満たされれば口にすることはない。
「それならなんで強くなってるの?」
「あのヒグマが食いしん坊だから? ほらなんでも個体差ってのが――」
会話をしているユタとノワールの間を切り裂くように、ヒグマは爪を振り下ろす。
「ぐぅおおおぉっ!」
大きく雄叫びを上げる。
「――くっ?」
突然ユタがその場にひざまずいた。
「姫?」
ノワールは慌てた表情でユタに駆け寄ろうとするが、
「がぁはぁ?」
それを逃すまいとヒグマは前足でノワールを地面に叩きつける形で抑え込んだ。
「おい……くそヒグマ……その汚い足をどけろや!」
睨み殺意を込めた声を上げるが、ノワールを抑え込む力が徐々に強くなっていく。
「ぐぅおおおおっ!」
ガクンと地面が揺れ、ノワールの全身の骨が砕ける。
「がぁはぁっ!」
絶望にも似たその悲鳴が、ユタの耳をつんざく。
「ノワールっ!」
体震え――手がとどく場所にいるのに手が届かないユタは――、
(まただ……)
誰にも聞こえない悲鳴をあげた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
大きな影が優しく自分を抱きしめていた。
それが大好きな義兄だったが――、
「ねぇ……ニーニー……」
シンジのうしろには寝室があった。義兄はそれを見せないように、ユタを落ち着かせるように抱きしめていた。
「大丈夫だ……」
その声は優しく、どこか冷たい。
「お母さんは――?」
「大丈夫だ。……お前は……」
兄の声がかすれていく。
沈んでいく声。どこか寂しく、どこか温かい。
「お母さんは……?」
「大丈夫だ。お前は――なにもしていない」
ユタは気づいていた。気づいていた。気づこうとしていた。気づき気づいて絶望する。
――ユタの両手には
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――動け……。
ユタは歯を食いしばる。口からは強く噛み締めた歯茎から血が垂れ落ちる。
――動け……。
心は逃げようと悲鳴をあげる。助からないのだと諦観を見せていた。
――動け……。
それでもユタは、そんな本心を押し殺すように、足に、自分に立ち上がるように命令する。
敬愛する義兄が自分のしたことを守ったことを、自分はそれを裏切った。
だからこれは――転生したこの世界はユタにとって身勝手な事をした自分に対しての地獄だ……決して赦されることのない贖罪。
「あぁがっぁあああああああっ!」
恐怖で縛り上げる足が悲鳴をあげる。それでもユタは立ち上がろうとする。
逃げればいい。逃げて……死んでも誰もユタを許しはしない。
「おい……そこのクマ――」
ユタはゆっくりと右手を前に、左手を腰の添える形で構えを取りながら、目の前のヒグマを睨みあげる。
体はふるえ、顔は恐怖に侵食され、心はそれでも立って死ねと鼓舞する。
「死ぬ覚悟はできてる? ユタに食い殺される覚悟」
突然なにを言っているのかと、ヒグマは一瞬戸惑うが、目の前のちいさな影が消えるや、
「チェストぉおおおっ!」
首根っこをねらい蹴るようにユタは回し蹴りを食らわせた。
「ぐぅ……おぉ」
ヒグマは一瞬たじろぐが足を踏ん張らせ――、
「だぁりゃぁッ!」
ユタは回し蹴りの勢いを殺さず、体を捻られてのソバット。その流れに身をまかせ、ヒグマの目に向かって手刀を突き刺す。
グニュリと眼球が潰れ、血が吹き出した。
「ぐぅぉおおおおっ!」
その痛みに耐えきれず、ヒグマは悲鳴をあげのたまう。
「痛いでしょ? 痛いわよね? あなたにも痛みがあるんだから」
ユタは拳を構え、暴れ苦しむヒグマを見すえる。
「ユタを食い殺すなら食い殺しなさい。ユタはそれを全力で受け止め――全力で拒絶するッ!」
愛されているからだ。ユタの仮初の体は、ユタが欲していた暖かい光に包まれている。
それを……親を殺した自分が身勝手に借りてもよいのか……。
言葉が話せるようになった頃に前世の記憶を取り戻したユタは……なぜ自分がこの世界に転生したのか、その答えを求めている。。
「ちがうよ――姫……」
優しい声がちいさくかすれて聞こえる。
「きみのその
ユタはゆっくりと、視線をヒグマの喉仏に狙いを定める。
ただただ狙いを定めるようにその一瞬を見すえる形で――今はまだ力を入れるところではない。
「知っているかい姫――、君は魔力の器がないわけじゃない」
ヒグマが雄叫びを上げ、そのふたつの爪を振りおろしユタを切り裂く。
「精霊が、君の声に応じた時にはじめて魔力は
「――【
ユタの右手を守るように、拒絶するものを切り裂くように、突き出したその拳はヒグマの両腕を風が切り裂き、喉を突き破った。
「ぐぅ……おぉ……」
ズズズ……と、巨体は地面へと崩れていく。
「本当に姫は……ううん、君は面白い魂だよ――そう思わないかい?」
ノワールはゆっくりと視線をうしろへと向けた。
そこにはヤーユーの姿があり、飄々としたたたずまいで事の顛末を見ていた。
「おや、終わっていましたか?」
苦笑を見せるようにヤーユーはうなってみせた。
「終わっていましたかってより、終わりましたかのほうが合ってるんじゃないのかい?」
ノワールはふぅ……とため息交じりににらみあげる。
「老人は急には走れないのですよノワール」
ちいさく気品の良い笑みをこぼすヤーユーに、
「どの口が言うんだか」
と、ノワールはつまらなそうに答える。
「しかし……これくらいのヒグマならあなたなら簡単でしょうに」
「さぁね。ボクも万能じゃないから」
ノワールは「うーん」と背中を伸ばす。
「それより――」
神妙なノワールの声色を聞くや、ヤーユーは視線をそちらに向けた。
「ククルに忠告しておいたほうがいいよ。品質が良くなった薬草もそうだけど、たかだかあふれ出たダンジョンの魔力を含んだ野草をここらへんのおとなしい魔物が食べただけで強くなって領地から離れていない場所に出てくるなんて異常だ」
ノワールが説明したとおり、魔物の魔力は器に捉えられる。
つまり覆水してあふれた魔力は体内にとどまることはなく適度な魔力で維持しているため、魔力で形成される魔物はそれ以上の魔力を持つことがない。
「わかりました。旦那さまに伝えておきます」
「あーのーさぁーふーたーりーとーもー」
真剣な話をしている老人と仔猫に割ってはいるかたちで、倒れ込んだヒグマの下から少女の声が聞こえてきた。
「いーいかげん助けてく-れてもいい-んじゃないかなぁ-?」
それはつまらなそうに、それこそ不貞腐れた声。
「あ、ごめん姫……すっかり忘れてた」
「ちょっと? それはひどいんじゃない?」
ガックリとしたユタの声に、ノワールは、
「それにボクの体じゃヒグマは持ち上げられないよ」
と続け、視線をヤーユーに向けた。
「ふむ」
ヤーユーはヒグマの後ろ足を片手でも持ち上げ、軽く大空へと放り投げた。
「【風刃】ッ!」
ノワールの右目が光るや、空中に放り投げられたヒグマの肢体はきれいに部位を分けるかたちで切り裂かれていく。
「やはり、あなたの魔力が弱くなったというわけではなさそうですね」
「――みたいだね」
それでも不安が拭えたわけではない。
「それではお嬢さま、遅くなりましたし屋敷に帰りましょう。ケガの治療もしないといけませんので」
言うや、ヤーユーは虚空を切り裂き暗闇を浮かび上がらせると、その中にヒグマの肉を、子供たちが摘んでいた薬草と一緒に放り込んだ。
「ボクは今日はつかれたよ」
言って、ノワールはユタの肩に乗るや体を縮こませた。
「ねぇノワール……」
「なんだい? 姫」
ユタは自分の右手を見つめながら、
「ユタ……この子の代わりで良かったのかな?」
不安そうな声に、ノワールはあきれたといった口調で、
「
と諭す。それでもユタの気持ちは晴れない。
この世界の両親が、自分が本当の娘ではないと知った時、どう思うのだろう。
やはり気持ちが悪いと拒絶をするのだろうか。
「僭越ながら旦那さまと奥方さまの、お嬢さまに対する愛情は本物です。たとえ魂魄が
ヤーユーの瞳が朱色に淡く光る。それは夕日に染まったせいでもあったが、それでも自分のことを見ているからこそ――。
「それは――わかったけど……」
気になったことは尋問せざるを得まい。
「なんでヤーユーはユタがアイリスじゃないの知ってるの?」
ジッとノワールを見下ろすユタの視線から逃げるように……、
「姫が自分で言ったじゃないか。壁になんとかって」
ヒョイと肩から跳び降りた。
「どう見ても最初から知ってたって雰囲気なんだけど?」
ユタは逃げる仔猫を追いかける。それを初老の執事は優しい目で見据え、ゆったりと空をあおいだ。
空はすっかり深紫のグラデーションに沈み、星が浮かび上がっている。
「明日は……うむ、晴れのようですな」
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