正しいワンピース

たつじ

国民服があればいいのに

 怒りに指先で触れられるのならば、きっと冷たい。後頭部から首筋にかけてしびれのような冷たさがじわりと広がるのを感じながら麻衣は思った。

 主催者のアナウンスとともに男が狭い個室に入ってきて、横並びの隣の席に座った。男の黒いニットは毛玉だらけで首元が緩んでいて、お母さんにイオンで買ってもらったんですか? みたいな形の古いジーンズと、薄汚れたスニーカーを履いている。お互いのプロフィールの書かれたカードを交換したときには既に、麻衣の手は小刻みに震えていた。


「佐々木麻衣さん。三十歳フリーター、と。お休みは何されてるんですか?」


 その前にお前はなんでその格好で女が釣れると思ってるんだよ。婚活パーティーだぞ。


 ぎこちない笑顔を浮かべる男に、麻衣は視線もくれてやらず、持ち時間いっぱいまで無言を突き通した。参加者全員に提供された緑茶のペットボトルが、握りしめた力でぐしゃりと潰れる。こちとらクソ歩きにくいパンプスをはいて、垂れてきた腹肉を無理矢理押し込んだタイトスカートで、温かさの足しにもならないアンゴラもどきのふわふわニットを着てるんだ。「彩度の低い色合いで統一して、足元と色を合わせたバッグで全体をまとめました。彼も気に入ってくれそう!」と解説が添えてある雑誌から飛び出してきたような完璧な婚活コーデ。だのにお前はなんだよ。今日の男はこいつも合わせて十人いたが全体的に不作だった。やっぱり婚活パーティーはわざわざ出向いて時間をかける労力の割にリターンが少ない。指先一本動かしてメッセージのやりとりをするだけでデートの約束ができるマッチングアプリがコスパ最強。


「本日成立したカップルは六組です。男性四番の方、女性八番の方—」


 スピーカー越しの締めの挨拶を聞かずに、麻衣は会場の雑居ビルから弾けるように飛び出した。暗くなり始めた空がさらにいらだちを煽る。


 郊外の地元までは二本の電車に揺られる。乗り換えの駅でビルの中を近道していたら、蛍光灯の光が煌々と輝くしまむらが現れた。ほとんど反射のように足が店に向かっていく。ワンフロアのほとんどを占めている店舗の、入り口に近い場所のマネキンは、わかりやすい客寄せのため最先端のお高いブランドを模した春物のニットを着せられている。後ろのラックには、色違いやほかの新商品たちが所狭しとぎっちぎちにハンガーにかけられている。まず手慣らしに、その隙間に右の手のひらを突っ込んで、捌いて一つ一つ腑分けする。Vネックは駄目、ボーダーが太すぎる、襟が大きすぎる、色が派手すぎる、柄が大きくて派手すぎる。だめ、だめ、だめ。右側のラックに移ると、ブラックのシンプルなチェスターコートがかかっていた。これ、かわいいけど私には似合わないんだよな。お父さんの服を着せられた子供みたいになっちゃうから駄目。好きなものと似合うものが合致するのは、一部の幸運な選ばれし人間だけだと思う。そうじゃない残りの人間たちは、この気持ちとどう折り合いをつけてるんだ。今年流行のデイジー柄のカーディガンが目に入った。やさしい緑で襟ぐりも浅い。家にあるハイウエストのジーンズと合わせるとかわいいかもしれない。白いスカートもこれからの季節らしくていいかも。頭の中にいくつかコーディネートが浮かんだらやっと合格。タグのMサイズを確かめて、束の中からかっさらうとレジへとたたきつけた。レジを通している店員をにらみつけていたことに気が付いて、慌てて目線を外す。レジ横に置かれた駄菓子のパッケージを見つめていたら、ようやく気持ちが収まってきて、自分が今なにをしているのかやっと理解した。麻衣はまた服を買ってしまったのだった。


 地元の駅を降りて十分ほど歩いたところに、教員の母親がローンで建てた家がある。赤いレンガ色の塗装が施された壁や、わざとらしく張り出した出窓。離婚の解放感を思いっきり反映したような一昔前の少女趣味で、麻衣はこの家があまり好きではなかった。音を立てないように玄関を開けた。幸い、母親はどこかへ出かけているようだ。ダイニングテーブルにはラップが掛けられた夕飯が用意されており、椅子の上でキジトラの虎徹が腹を大きく上下させてくつろいでいる。麻衣は猫を片手でひと撫でしてビニール袋からカーディガンを取り出すと、二階へ上がり、自室の扉を開けて暗闇の中へ放り投げる。カーディガンは、あっという間に部屋に散らばった他の服たちと一体化してしまった。国民服があればいいのに。三十歳の女性はこの服を着てください。法律で決まっており違反すると刑罰に処されます。みたいな規定が決まっていたら、毎月なけなしの給料がすっからかんになるまで、こんなに部屋が溢れかえるまで新しい服を買わなくて済むのに。いらだちに任せて閉めた引き戸の音で、リビングの猫が飛び起きた。

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