龍神様の靴下

平本りこ

第1話

 龍が鳴いている。


 そそり立つ黒い断崖。岩場に寄り添うように架けられた橋から身を乗り出し、まさるは荒れ狂い咆哮を上げる海を覗き込む。


 先ほどまでは、遠く地平線には富士山が浮かんでいた。今や空は重く立ち込めた雲に浸食され、鈍色にびいろに染まっている。


 晴天であれば散策が可能な岩礁にも、今は誰一人として姿がない。本日は休日、しかも世間はクリスマスで賑わう時期。溢れ返るような人の影はいったいどこへ消えたのか。


 白波が岩に打ち付け、飛沫と轟音を撒き散らす。龍の咆哮だ。将はそう思った。


 ごうごうと鳴る嵐の海。その勇ましい音楽の中に、人の声が混ざったように聞こえ、将は欄干に手を突いて、上体を海へと近づけた。


「……愛奈あいな!」


 消えた幼馴染を呼ぶ。その声は呆気なく、海に吞まれて行く。


 将は、拳をきつく握る。愛奈は、天女を求めた龍に連れ去られたのだ。この暗い海の底に。


 連れ戻すには、龍を追うしかない。



 ――三日前。


「将。今週末、一緒に江の島に行かない?」


 江の島。神奈川県の湘南しょうなんと呼ばれる地域にある観光名所の島である。


 昔、あの辺りでは五頭龍ごずりゅうと呼ばれる五つの頭を持つ龍が暴れ回り、災害が頻発していた。人々は子供を生贄に捧げ、龍を宥めようとしていたのだが、五頭龍は満足することなく、人々は移住を余儀なくされた。


 そんな折、突如大地が鳴動。大地震の後、人々が海を見てみると、一つの島が現れていた。江の島だ。


 天変地異を眺めていた五頭龍は、天から島へ、美しい天女が舞い降りたのを見る。あまりの美しさに一目惚れをした龍は、天女に求婚するのだが、かねてより人間を苦しめてきた龍のこと。天女は求婚を断った。


 それでも諦めきれない龍は、幾度も天女を訪問する。やがて龍は、持てる力の限り人間を慈しみ守護することを誓い、晴れて二人は夫婦になった。


 時が経ち、力を使い果たした龍は対岸に渡り、人々を永遠に見守るために山へと姿を変えたのだという。


 だから江の島には、龍と天女の愛にちなんだ恋人の聖地があり、デートスポットにもなっている。


 デート、そう、これはデートのお誘いなのか? そういえば今週末は、クリスマスのはずだ。


「ねえ将、聞いてる?」


 将の顔を覗き込むのは、来年から大学に通う年齢とは思えないほど、小柄で幼い顔立ちの女子。同い年の幼馴染、愛奈である。


「聞いてる。何で急に」

「何でって……。ええと、それはね」


 急に口ごもり、何やらもじもじと左右に揺れる愛奈を見て、将は胸に意外な感情が浮かぶのを感じた。


 愛奈とは家族ぐるみの仲である。幼少期から兄妹のように共に過ごしてきたため、男女のあれやこれやという情はないのだが、もし愛奈が本気でデートに誘っているのであれば、その時は……それもありかも知れない。


 生来お気楽なたちである将は少し頬を赤くして、頭を掻いた。


「し、仕方ねえな。行ってやるよ」

「え、ほんと? ありがとう。さすが将!」

「いや、それほどでも」


 何がそれほどなのか、自分でも良く分からないのだが、瞳を輝かせて手を叩く愛奈の嬉し気な顔を見ていたら、細かいことなどどうでも良くなった。

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