第67話 元婚約者

―ソフィー視点―


「殿下……」

 私の人生を全てかけた人は、妹を失ったショックで自らのしゃ物の上に倒れ込んでいた。完全に意識を失ったのだろう。その情けない姿は、王都で見せていた男らしい貴公子としてのものでは完全になくなっている。


 むしろ、私の事なんて眼中になく、ただ妹を寝取られたあわれな変態シスコン兄そのものだった。


「嘘よ」

 私は誰にも気づかれないように、つぶやいた。自分の夢が崩れていく音が聞こえた。あの優しかったグレアが、復讐鬼のような顔をこちらに向けている。その豹変ひょうへんぶりが事態の深刻さを強調している。怖い。どうしようもなく怖い。彼をこんな風に変えてしまったことも。この後の自分の未来も。


「さぁ、邪魔者はいなくなったから、ゆっくり話をしようか、ソフィー?」

 悪魔のような冷たい声は、今度はこちらに向けられてきた。


 ※


「ボールス、コウライ。悪いが二人だけにさせてくれ。ローザもだ」

 ボールスは頷く。


「グレア様、よくぞご無事でっ。信じておりましたぞ」

 コウライは、短くそう言ってくれた。


「ああ、お前たちのおかげだよ、ありがとう」

 忠臣たちに対しては、俺は返せないほどの恩がある。落ち着いたら、絶対にそれを返さなくてはいけない。


「その前に、俺はすべてに区切りをつけるっ」


 3人は転移結晶で移動した。これで、あの部屋にいた3人だけが残された。

 ひとりは意識を失っているけどな。


 かつて愛し、そして、今は憎んでいる元婚約者は、恐怖の色を浮かべながら後ずさりする。


「グレアっ……」


「なにか言い訳はあるか、ソフィー?」

 あえて、冷たく感情をこめずに聞く。


「無理やりだったのよ。最初は無理やりだったし、脅されもしたの。あと、私はあなたがこんな場所に連れて来られていたなんて知らなかった。殿下に嘘を教え込まれて、あなたは死んだと……」

 血色を失った顔とピンクの髪が少しでも俺から離れようとしていた。


「ああ、そうなのか。たしかに、気づくことができなかった俺にも落ち度はあるかもしれないな。お前だってその件についてはかなり苦しんだのはよくわかるよ」

 少しだけ譲歩を告げると、希望が生まれたのだろうか。口調が早くなる。


「あなたが生きていると知っていたら、私は――」

 だが、今の俺にとっては気色が悪いだけだった。

 

「でもな、おかしいだろ。それなら、なんでお前は今も王太子と行動を共にしているんだ? なんで、わざわざこんなダンジョンの奥深くまで一緒なんだ。お前は、俺を裏切った後、何をしていたんだ?」

 答えは聞かなくてもわかっていた。

 皆はあえて言わないようにしてくれていたけど、ナタリーたちの反応を見れば、察しはつく。


 こいつは、もう完全に敵なんだ。


「そ……れは……」


「ソフィー。俺を裏切っただけじゃない。お前は敵に味方したんだろ。俺だけじゃなく、ナタリーや父上のことも……公爵家と王族が対立したのは聞いたよ。もうすぐ戦争になりそうなこともさ」


「……」


「そして、この守護竜がいるはずのフロアに王太子だけじゃなく、お前まで現れた。最悪だったよ。これで、お前は完全に王族派だったことがわかってしまったからな。浮気だけじゃないんだよ。俺たちすべてを裏切って殺そうとしているんだろ」

 心の中で少しは彼女を信じる気持ちがなかったといえば嘘になるだろう。あまりに過酷な運命のせいで、彼女に対する愛情は心から消えていた。俺を信じてくれた家族やナタリーへの気持ちはどんどん大きくなるのに……


「なんで」

 少しだけうつむく彼女は、俺から目を逸らすような仕草をして、首を横に振る。


「言い訳くらいしてくれよ」


「私は、あなたのことを愛していた。ナタリーさんのことも、皆のことも。壊れるのが怖かった。だから、王太子様にされたことは皆に話せなかった。内緒にするしかなかった。でも、それっていけないこと? ずっとつらかったの。ブーラン貴族として差別されて、公爵家の婚約者として嫉妬される日々が。みんな、本当の私を見てはくれなかった。そんな時、私の心の中にすき間が生まれた。王太子殿下に呼びされた時、少しだけ期待している自分がいたわ」

 俺にとって残酷な事実を彼女は、止まらずに叫び続ける。


「お前は」


「だって、あなただって私のことを個人としては見てはくれなかった。ナタリーさんのことは、一人の女の子として見ていたのに。私は、あくまで政略結婚によって結ばれた元敵国貴族の娘。あなたたちは自分の恋心を封印して、国家の安寧を優先してた。そんな人格者のように振る舞うあなたとナタリーさんの存在がずっと、ずっと……重荷だったのよ。だから、私は殿下と……」

 もうダメだな。俺は本気でそう思っていた。もう、俺たちの進むべき道は決して交わらない。何を言っても、平行線をたどる。


「だから、俺たちを裏切ったんだな」


「違う、私は少しだけ逃げたかっただけ。だから、こんなことになるなんて思わなかった。でも、仕方がないじゃない。あなたに浮気がバレちゃったんだから。あなたを殺したのは私。だから、もう、引き返せないのよ。なら、進むしかない。生き残るためにも……」

 敵国貴族の娘という立場によって、幼少期からソフィーの心は壊れていたんだろう。真面目で誰にでも優しいという性格は、飾り物だった。自分の心を守るために、作り出した優等生という鎧。そんな鎧が壊れたら、あとは簡単に人格は崩壊したんだろうな。


「俺のことは好きじゃなかったのか?」

 最後にここだけは聞こうと思っていた。自己弁護だけを永遠に続けようとしていた彼女は一瞬だけ昔の表情を取り戻していた。


「えっ?」と虚を突かれたように、表情をこわばらせて目からは涙を浮かべた。


「違う。違う。違う。好きじゃなければ、こんなに悩まなかった。苦しんだりもしなかった。世界で一番好きな人が、自分以外の人のことを愛しているなんて苦しみ。私は知りたくはなかった。気づいたのよ。どんなに情欲におぼれても、心のどこかにはあなたがいる。グレアがいる。あなたがいなくなったことで、死んでしまったことで、私は心が死んでいた。完全に自暴自棄になっていたの。心も身体も王太子に汚されて、家族も親友も友達も信頼も全部失った。世界で一番大事なあなたも私の手からはこぼれていってしまった。今の私にはもう何もない。それが罰だって。最悪の悪女として生きるのが、私の運命だって……今から最低なことを言うわね。こんなことを言う資格、私にはないのに」


 震えながら、元婚約者は救いを求めるように言葉をつむぐ。


「グレア、私は今でもあなたを愛しています」



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