第62話 スキマ風が吹くソフィーと王子

―ソフィー視点―


 私たちは州都の高級宿に泊まることとなった。いつもの殿下ならワインでも飲んでゆっくりするはずなのに、今日は無気力で何もする気が起きないようだ。自室の豪華なベッドに寝転ぶと、「ひとりにしてくれ」と私に冷たく言い放った。その姿はまるで絶望感によって抜けがらになっているように見えた。ここまで自分に自信がなくなっている殿下を初めて見た。


「ワインは飲みますか?」

 少しだけ寂しさをおぼえて、私はいつものワインを彼に勧める。普段ならすぐに飲み始めるはずの彼は少しだけこちらを見る。その視線は、まるで氷のように無機質だった。


 私の身体なんてまるで無視しているかのように。

 自分の女としてのプライドが傷つく音がする。


「いらないって言ってるだろ。頼むからひとりにしてくれよっ!!」

 いつもはすぐに飲み始めるワインでもダメだった。

 もうダメだ。私は彼の眼中にない。彼の心にあるのは、妹君と自分の運命だけだった。私は彼の心に存在していない。そう言われているようで、とても心が苦しくなる。


「申し訳ございません。今日は別室で休ませてもらいますね」

 私はこんな彼を見たくなかった。一瞬、冷たくあしらわれたせいで、恋が冷めそうになるのを感じた。ダメだ。私は彼を支えなくてはいけないのに……


 思わずグレアの顔を思い出してしまう。

 どうして?


 そんな都合がいいはずがない。彼は死んだんだ。私のせいでっ。ただ、男に冷たくされただけで、こんな気持ちになるなんて自分の浅ましい女としての部分が嫌になる。自己嫌悪。王太子様はいつも優しい。ただ、妹君が行方不明になったせいで不安定になっているだけだ。


「……」

 私がいつも悲しい顔をすると、すかさずに慰めてくれるはずの彼は、冷たく一瞥いちべつするだけだった。その反応を見て、悲しくなる自分の心を必死にごまかして、自室へと戻る。扉を閉めるまで、結局殿下は私の方を見ることはなかった。


「失礼します」

 なんとかその言葉をしぼりだして、私は殿下の部屋をあとにした。


 ※


 彼と夜な夜な語り明かすことを期待した私の心は、簡単に裏切られてしまう。

 自室で一人、月だけを見つめる私は寂寥せきりょうとした気持ちに支配されていた。どうして、彼は妹君だけしか見ていないんだろう? 私は彼のために婚約者も実家も捨てたのに。


 時が解決してくれる。本当に彼が私を嫌いになったわけじゃない。

 ただ、傷ついて自分を見失っているだけよ。どうして、こういう時だけ元・婚約者が大きくなるの?


 やめて、昔の気持ちを思い出させないで。私は彼を裏切った最低の女。だから、彼のことを考えてはいけない。そんな最低なことできない。どこまで浅ましいのよ、私は……


 飲めないワインを私は瓶からコップに注いで飲み干した。殿下と出会うまでは、嫌いだった苦いワインがいくばくか心をいやしてくれる。殿下のために、嫌いでも飲めるようになった赤ワインは、いつも以上に苦く感じる。


 もし、彼に出会わなければ……

 今ごろは、グレアとナタリーさんと……


 ダメだ。これ以上考えてはいけない。私が考えてはいけないことだ。すでに、彼は死んだ。公爵様とナタリーさんとは敵同士。どうして、あの幸せだった時代を都合よく思い出すのっ!!


 ※


(回想)


「ナタリーさんはこういう服も似合うと思うな? だって、かわいいから……ボーイッシュな服も似合うけど、こういうガーリーな服もカワイイわよ!」

「そんな、カワイイだなんて。私、ソフィーさんみたいに女の子っぽくないし」

「え~、そう? あなたはかわいい女の子だよ」

「……」

「私はずっとひとりっ子だったから……失礼かもしれないけど、ナタリーさんを妹のように思えちゃうわね」

 大好きだった妹のような親友の顔。


「今度、グレアに内緒で、ふたりでケーキでも食べに行かない?」

「いいんですか!! 私ケーキ大好きなんです」

 普段とは違う彼女の楽しそうな顔。

「あなたがグレアの幼馴染でよかったわ。だって、こうしてお友達になれたんだから……ずっと、仲良くしてね、ナタリーさん?」

 あれは嘘ではなかったわ。ずっと一緒にいたかった。たとえ、グレアが私よりもナタリーさんが好きでも。あのふたりに私が乗り越えられない……踏み越えられないくらいの信頼関係があっても。


 私はあの二人を愛していたことに嘘はない。


「ソフィー。例え、政略結婚でも……俺はキミを幸せにするよ」

「ソフィーみたいな才女が婚約者で俺も幸せ者だよ」

「たぶん、俺は幸せ者なんだよなぁ」

 純朴でありながら優しい彼が大好きだった。できることなら、彼と幸せになりたかった。


「違うの、これはね……」

 彼に最初に裸を見られたとき……私の心は壊れてしまった。本当だったら幸せの絶頂の思い出になるはずだったのに。いや、もっと前から心は壊れていたのかもしれない。それを知るすべはない。


「あなたに何がわかるのっ!? ブーラン貴族というだけで、能力や家柄を低く見られて差別されている私たちの苦しみを。あなたは、最初からイブグランド貴族だからわからないでしょうね。でもね、息苦しいのよ。そんな最悪の場に、一筋の光が差し込んできたら、手を伸ばしてしまうのがいけないこと? たしかに、グレアは優しくて大好きだった。でもね、つまらなかったのよ。彼と結婚出来れば幸せになれたと思う。でもね、王太子様と結婚できたら、私はプリンセスなのよ。その魅力やスリルにあらがえなかったの。あなたも貴族ならわかるでしょう?」


「本当にごめんなさい。私があなたからグレアを奪ったようなものなのに……ずいぶん、長く借りてしまったわね。本来いるべき場所に……グレアをあなたに返すわ」


 ナタリーさんにも最低の言葉をぶつけてしまった。後悔がないと言えばウソになる。ただの自分を守るための言葉。


 私はワインをもう一口、飲み込む。吐きそうなほどの自己嫌悪と一緒に。


 ※


「ソフィー様、どちらへ?」

 宿を抜け出そうとしていた私にコウライさんは問いかける。


「少しだけ外に行ってくるわ。気分が悪いのっ。お願いだからひとりにさせて」


「御意」

 ただ、外の空気を吸うためだけだった。まさか、この外出が私の運命を変えてしまうとは、その時は想像にもしていなかった……

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