第60話 背中を押すボールス
思わず言ってしまったという後悔を含んだ顔になるナタリー。徐々に、冷静になったんだろう。激しい感情の
俺に伝えないようにしていたことを思わず話してしまったんだろう。どちらかといえば、一歩引いて冷静に世界を見ているナタリーが、ここまで感情を強く出すことは本当に珍しい。
「ごめんなさい。やっぱり、私は最低ですね。怒りに身を任せて、大変なことを言ってしまいました。ちょっと頭を冷やしてきますね」
泣きそうな声で、俺にそう告げて、ナタリーは宿の前から離れようとする。
「待ってくれ」
俺は駆けだそうとする後輩の手をつかんだが、「ごめんなさい。今は冷静に話せそうにないんです」と弱い拒絶の声がする。こちらを見ないようにして、ナタリーは俺の手を傷つけないように、ゆっくり振りほどいた。
「夜風で少しだけ頭を冷やしてくるだけだから、心配しないで」
そう言い残して、ナタリーは宿とは反対方向に走っていってしまった。
「くそっ」
俺以外、誰もいなくなってしまった。
せっかく会えたのに――家族やナタリーと会うために必死に生き抜いて来たのに。
なんで、直接会えたら、言いたかった言葉が出てこないんだ。
こんなんじゃ意味がないだろ。
皆が俺のためにしてくれたこと……地位や名誉すら捨てても構わないと言ってくれたこと。命を
ちゃんと伝えて返さなくてはいけないことが山ほどある。
だから……
そうは思っているのに、脚は動かない。
※
「悪いな、そういうことだ」と王太子のあの言葉が
「違うの、これはね……」と裸のソフィーの姿が思い出される。そのソフィーの顔がナタリーに変わっていく。
※
「動け、今動かないと絶対に後悔する」
ソフィーだけではなく、ナタリーまで失ってしまえば、俺はもう絶対に立ち直れない。人を愛することが怖くなってしまった。あんなに純粋な気持ちを向けてくれるナタリーに対して、俺は不安すら感じてしまっていた。婚約者にすら裏切られた俺には、もったいない言葉だった。
「グレア殿……」
いつの間にかボールスが後ろに
「ボールス、見ていたのか?」
「申し訳ございません。念のため、護衛をしようと思っていたので……ご無礼を……」
「いや、いいんだ。最低なのは俺だよな。だって、怖くて……ダンジョンでどんな凶悪な魔物と戦ってもこんなに怖くはなかったのに。今はナタリーを失うことがどうしようもなく怖いんだ。たぶん、彼女の気持ちを受け入れたら、もっと怖くなる。それなら、なにもしないほうが――」
最低の言葉を
「さきほど、お父上もおっしゃっていたではありませんか。このままでは一生後悔するところだったと。あなたも、いまその
ボールスを仲間にしたとき、俺は彼の過去をのぞいてしまった。
信じていた国に裏切られて仲間たちを次々と失うあの悪夢を。
「人間の時計なんて簡単に止まってしまうんですよ。私は死んでからそれを知りましたがね。数秒前まで当たり前にいてくれるはずだった存在が、
「ボールス……」
※
「ごめんなさい、最期の別れの時に、こんな冷たい理屈しか言えない女で……言わなきゃいけなかった言葉をずっと心にしまった勇気のない女で……愛してるわ、ボールス」
※
たぶん、あの女魔導士は彼にとって最愛の人だったんだろう。
「私の時計を動かしてくれたあなたには、時計を止めて欲しくはないんですよ。そうじゃなければ、私たちが生きてきたことを誰かに繋げることができないんですからね。さぁ、行ってください。大丈夫、彼女の顔を見れば、言いたいことは自然と口から出てきますよ。さっきのナタリーさんのようにね」
鎧に包まれた冷たい腕が、俺の背中を押した。
「ありがとう、ボールス」
「お礼を言いたいのはこちらですよ」
俺は全速力でナタリーが向かった方向に走る。後ろを振り返ることもせずに。
※
ナタリーは中央広場の噴水の近くにいた。遠目でも泣きそうな顔をしていると分かった。
だから、力いっぱい叫ぶ。お前はもう一人じゃない。
そう伝えるために。
「ナタリーっ!!」
彼女は驚いたように振り向いて、慌てて目をぬぐう。涙を少しでも隠そうとしているんだろう。
「どうして……」
「伝えたいことがあるからだよ。ありがとう。俺のために全力を尽くしてくれて。俺を信じてくれて……」
「それは私が勝手にやったことですし」
「それでも、俺は嬉しかった。お前は最低なんかじゃないよ。誰かのために自分を犠牲にできるすごい人間だ」
「でも、私は――」
さきほどの俺と同じようにナタリーは自己嫌悪で最低の言葉を
「ナタリー、結婚を前提に付き合ってくれないか? 俺もたぶん初恋だった」
彼女の真っ白だった顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
「はい」
小さな声で恥ずかしそうに首を縦に振る彼女に対して、俺は力強く抱きしめた。
同じような力が彼女からも俺の背中に向けられていく。
「また、ひとりぼっちになっちゃったかと思いました」
そう泣きながら俺の胸に顔を埋める後輩がどうしようもなく愛おしかった。
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