第3話 グリーン・スライム
意思すら持たないような緑のスライムは、俺を完全にターゲットにしている。上位スライムに打撃や刃は基本的に通用しない。逆に酸の体液に取り込まれて溶かされてしまうだろう。本来なら遠距離から魔力で攻撃するのがセオリーだとは聞いたことがあるが……
俺は、学校で教えてもらった基本的な魔力しか使えない。あの大きさのスライムを吹き飛ばすことはできないはず。つまり、取れる選択肢はひとつだけ。あいつの動く速度の遅さを利用して、逃げる。今は部屋の入口にスライムがいるが、もう少しこちらに引き寄せたら、全速力で入口まで走る。
それしかない。ただし、部屋の先にグリーン・スライムと同レベルの凶悪な魔物がいるかもしれない。狭い通路で魔物と出会ったら、逃げ場はなくなる。
「くそ、どうする」
逃げるしかないのに、その勇気が出ない。スライムはゆっくりと部屋の奥に近づいてくる。
「3・2・1で走るぞ。いくぞ、3・2・1……スタートっ」
全力でスライムの横を通り過ぎて、俺は部屋の入口まで一気に駆け抜ける。しかし……。
スライムは、液状の体の一部を俺に向かって投げつけた。動きの緩慢さからは想像できないほど的確で殺意に満ちた攻撃。俺は勘が働いて、体を横にずらしてなんとか避けることができた。しかし、体のバランスを崩して転び、泥の中へと突っ込んでしまう。
「いてぇ……」
鈍痛が身体に走るが、時間はない。走るしかない。俺は荷物を持ちなおして、立ち直ろうと準備をしようとした瞬間……
剣の先が不自然になくなっていることに気づいた。失われた部分からは、シャーという音がしている。間違いないさっきの攻撃で、スライムの酸が直撃したんだ。剣ですら、一瞬で溶かされてしまう。もし、さっきの攻撃の時に反応が遅れていたら、半身を一瞬で無くしていただろう。ゾッとするとともに、身体が一瞬で冷たくなる。恐怖は、俺の動きを阻害した。
死ぬ。駄目だ。どうやっても逃げられない。
スライムは逃げることをあきらめた俺に安心したのか、ゆっくりと近づき始めた。あと数秒で、跡形もなく溶かされる運命にある。
嫌だ。俺にはやりたいことがもっとたくさんあった。なのに、どうして……
小さいころに誓ったナタリーとの約束すら果たせそうにもない。死の間際に、思い出したのは、婚約者の顔ではなく、小さいころから兄妹のように育った幼馴染の笑顔だった。
≪万物の声を聴きなさい≫
「えっ?」
脳に直接語り掛けられた言葉に、驚く。それは慈悲深く、優しい言葉。
≪あなたにはその資格がある。万物の声を聴きなさい。すべてを理解する力が、きっとある≫
なんだよ、どうやったらそんなことがわかるんだよ。聴けって言ったって、あんなスライムの声なんて……口はどこにあるんだ。
泣きそうになりながら、命の危険を感じている心臓の高鳴りに意識を集中させる。世界がすべて一つになったかのように錯覚する。そして、ありえないはずなのに、スライムの……人間ですらない異形の怪物の記憶や意識が自分の中に流れ込んでくる。
「なんだよ、これ」
あまりの情報量に吐き気すら感じられた。
そして、俺は万物の声を初めて聴きとった。スライムは、俺が何かを理解したとわかった瞬間に動きを止めた。伝えようとしている。俺は集中して、スライムの言葉を聴こうとした。
直感的にわかったんだと思う。こいつは、俺と同じ孤独を抱えていると。
※
『キミ、ぼくの言葉がわかるの?』
「スライムなのか?」
俺が言葉に出すとスライムはうなずく仕草を見せた。
『そうだよ。スライム族は言葉を持たない。口がないからね。でも、テレパシーがある。だから、同族とはすべてを共有しているんだ』
「そうなのか」
俺は、記憶と一緒に流れ込んだスライムの意思のようなものと対話を始めた。
『君は人間だよね。ならどうして、僕の言葉がわかるの? もしかして、君は僕の仲間?』
少年のような意外とかわいい声をしているスライムに驚きながら、俺は首を横に振った。
「違う、俺はスライムじゃないからな」
『そっか。でも、スライム族には掟があって、言葉がわかる者は味方だから、手を出しちゃ駄目なんだ。仕方がないから見逃してあげるよ』
「なぁ、なんでお前はひとりなんだよ。スライム族って普通は、群れで暮らすもんだろう?」
『……僕はずっと一人だったんだよ。そうしなければ、生きていけなかったんだ』
その悲しい声を聴いて、俺は流れ込んでくる万物の声をさらに受け入れる。
幼少期のスライムの姿が思い浮かんだ。まだ、小さい頃のものだろう。身体は、緑色ではなく青色。ただし、他の同族と比べても、巨体である。こいつはその強すぎる力や身体によって、少しずつ仲間から孤立していき、最終的には群れを離れることになった。テレパシーによる会話能力というのは、ある意味、恐ろしいものだ。他人が持つ悪意が、簡単に相手に流れていってしまう。
本来、ひとりでは生きていけないはずの同族のはぐれ者は、そんな理由でここに行きついたようだ。
「俺と一緒だな」
この記憶が本当にこいつのものかはわからない。だけど、自分のことのように心が傷つくのを感じる。ただの境遇という理不尽のせいで、罵倒されて追放された俺たちはこの最悪のダンジョンで種族を超えて巡り会った。何かしらの運命を感じる。そして、話ができたことで、こいつとは少しだけ分かり合えるような気がした。
「なあ、スライム。俺たち、仲間にならないか?」
『仲間? キミはスライムじゃない人間なのに?』
「じゃあ、聞くが、それを否定すると、スライム族の掟の”言葉がわかる者は味方だ”っていうのが、嘘になるぞ。種族が違っても、言葉がわかれば、仲間になれるんだろう」
『それは、確かに……キミって頭がいいね』
「ああ、じゃあ、今日から俺たちは仲間だ。よろしくな」
『うん。スライム族には、友好のしるしを示す挨拶があるんだ。やってもいい?』
俺は笑顔で頭を上下に動かす。
『よかった。新しく仲間になったスライム同士は、お互いに身体をぶつけあうんだ。せーのっ!』
そして、嬉しそうに巨体を近づけてくるスライムに、俺の顔面は蒼白になる。いや、溶けるじゃん、それっ。
「待った、待った。それやったら、ヤバ……くないの?」
俺は柔らかな弾力性で身体をぽわぽわと包まれる。なんだ、これ、普通に気持ちがいい。高級クッションみたいな柔らかさだ。
『ハハ、大丈夫だよ。僕の身体の毒は、敵と戦う時だけに出るものなんだ。そうじゃなければ、皆を傷つけちゃうからね。キミは仲間だからね。今のボクはキミには無害だよ』
「お前わざとやっただろ」
『ボクはこう見えても、いたずら好きなんだ。これからどうするの?』
「とりあえず、拠点を作ろうと思う。俺はグレアっていうんだ。お前、名前は?」
『ボクたちに名前はないよ。だから、好きに呼べばいいさ』
「考えておくよ。とりあえず、湧水がある場所を知っていたら連れて行ってくれ」
スライムは器用に俺を身体に乗せてずるずると進んでいく。奇妙なサバイバル生活が始まりを告げた。
※
―王都―
夜。自分の部屋の灯りもつけずに、病人のように眠り続けている。
ずっと針の
目撃者がいたのだ。私たちの秘密の
貴族社会は、このスキャンダルにいろんな噂を流して楽しんでいる。
グレアは、ふたりの浮気現場を目撃して、ショックで失踪した。どこかの教会に身を隠している。入水自殺して、身元不明の遺体が近くの街に浮かび上がっているはずだ。
そんな心無い噂が、私の心を揺さぶり続ける。殿下は、「しょせん噂だ。グレアが見つからなければ、すぐに忘れるよ」と言って取り合ってもくれない。
自分が心配する資格はないのに……
寝ても覚めても、彼のことしか考えられない自分がいる。
私は馬鹿だ。失うまでに、彼がどんなに大切な存在かに気づけなかったことも。グレアに向かう自分の気持ちがどんなに深かったのかも気づかなかったのだから。
「会いたい。どうか、無事でいて、グレア……」
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