第5話 新しいご主人様

パタン


 扉の閉まる音と共に女性が出て行ったことを確認すると、僕はほうっと息を吐き寝台に身体を預けた。


(…生きてる)


 全身を包み込む温かいぬくもりに、てっきり自分は死んだのかと思った。あれほど酷かった身体の痛みがなくなり、鉛のように重かった身体が軽くなっている。目を開いて最初にそれを実感したときは、ここは死後の世界なのかと思っていた。


 だから最初に彼女に声を掛けられて、ぼーっとしていた頭が次第に覚醒し、ここが現実の世界だと気づいた時、己のしでかした失態に全身の血の気が引いた。急いで飛び起き、彼女の怒りを買わないようにするために僕は全力で謝ろうとする。しかし、それはできなかった。寝台から飛び降りようとしたところで彼女に止められた。


(…初めてだ。あんな事言われたの)


 怪我が治っていないから安静にしているように彼女は僕に言った。そんなこと、これまで言われたこともなかったから僕は正直戸惑った。でも、彼女が少し強引に僕を寝かせるように身体を押してきたので、これ以上抵抗して機嫌を損ねるのはまずいと思い、僕は素直にそれに従うことにした。今までの主人は僕が怪我をしてもそれを労わることなどなかった。寧ろ、僕の存在が主人を不快にさせるようで殴られるのが日常茶飯事だったし、日に日に怪我が悪化していくのが普通だった。僕は少し身体を動かし自分の状態を確かめる。


(すごい…綺麗に治ってる…)


 あれほど抉れていた肌が、今はすっかり綺麗に塞がっている。どれくらい自分が寝ていたのかは分からないが、少なくとも普通の治療でここまで綺麗に治るほどの時間は経っていないはずだ。それに彼女は表面の傷を塞いだだけだと言っていた。確かに身体を動かすと内側の部分に引きつるような痛みを感じる。


(…この治り方、治癒魔法だよね。奴隷の治療にそこまでするなんて…)


 信じられない。この国の人々にとって奴隷は使い捨ての消耗品だ。そもそも奴隷の怪我を治療しようとする人の方が少ない。薬を塗り、布を当ててくれるだけでも幸運なのだ。それが治癒魔法だなんて奇跡としか言いようがない。


 あまつさえ、奴隷である僕に手ずから水を与えてくれた。ストローという不思議な道具の使い方も教えてくれた。


(あの人が次のご主人かな…。そうだと嬉しいな)


 あの人が僕に何の見返りを求めているのかは分からないが、今までの主人と比べれば遥かにいいのは間違いないだろう。額に手を当てられた時は、一瞬殴られるのかと勘違いしてしまったが、全然そんなことはなかった。初めて、触れられた手のぬくもりが心地よいと感じた。


 ぬくぬくとふかふかの布団に包まれながらそんなことを考えていると、ガチャっと音を立てて部屋の扉が開いた。女性がトレーを持ちながら部屋に入ってくる。僕は直ぐに起き上がろうとしたが、安静にするように先ほど言われたことを思い出し、すんでのところで思いとどまった。


 女性は寝台で横になっている僕に視線を向けると、スープを持ってきたが食べられるかと聞いてきた。正直、お腹は空いている。ここ何日もろくに食べていない。僕は静かに頷くと女性はよかったと微笑んだ。

 

 女性がスープの入った器を傍に持ってきてくれたので、僕はゆっくりと体を起こしそれを受取ろうとする。しかし、女性はなぜか器を僕に渡すことなく、スプーンで中の液体を掬い上げると、僕の口元へと運んできた。


「はい、あーん」

(え…?)


 突然のことに僕はどうすればよいのか戸惑う。まさか奴隷に食べさせてあげようとする人がいるとは思わなかった。流石に主人であろう彼女にそこまでしてもらうのは申し訳なくて、僕は彼女からスプーンを受取ろうとする。


「…あの、自分で食べられるので、そこまでしていただかなくて大丈夫です」

「いや、この状況で片手で食事は無理でしょ。君の腕、まだ折れたままだし」


 確かに左手は包帯がぐるぐると固く巻かれたままだ。治療のおかげかそこまで痛みは感じていなかったが、まだ折れたままなのか。


「治癒魔法は一気に治療をしすぎると身体に負担がかかりすぎて危険なんだよ。だから、今回は命に係わる部分を優先的に治療してもらった。君、骨が砕けすぎて全部は直しきれないからとりあえず粉々な部分だけ魔法でくっつけてもらってる。残りはまた後日治療するって」

「そうですか…」


 そんなに酷い状態だったのか、僕。我ながらよく生きてられたな…。


「後で片手でも食事できるように環境は整えるけど、今日の所はこれで我慢して。何か胃に入れないと薬が飲めないから食べてもらわないと困る」

「分かりました。ありがとうございます…」


 僕は大人しく差し出されたスプーンに口をつけた。口の中に優しい味わいが広がる。舌に触れる温かい液体の感触が凄く新鮮だった。


(…あったかいって、こんなに美味しいんだ)


 飲み込んで口の中からなくなってしまった味わいが恋しくて、僕は再び口を開けた。すると女性は僕の口に掬った液体を運んでくれる。それを夢中で繰り返すうちにいつの間にか器の中にあったスープはなくなってしまっていた。


「これ、薬。痛みを和らげてくれるらしいから飲んで」


 そう言うと女性は小瓶に入った薬を僕に渡す。言われた通り薬を口に含み、コップを受取り水で飲みこむと女性はほっとしたような表情を浮かべた。


「よし、これでやることは終わり。あとは寝るだけだから。このままここでゆっくりしてて。私は一階にいるから。何か用があればその鐘を鳴らして」


 そう言って女性はベットの脇に置かれた小さなベルを指さす。僕は分かったと伝えるように頷いた。パタンという音と共に再び女性が部屋を出ていく。それを視線で確認すると僕は再び寝台に横になった。緊張が一気にほどけたこともあってか、再び睡魔が僕を襲う。久々の安心して眠れる環境に甘えて、僕は静かに目をつぶり夢の世界へと飛びだった。


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