逃奔



「――――噛んでろ」


 口に突っ込まれたのは弾力のある何かだった。それが腕だと認識できないうち、刺さった短刀が壁から引き抜かれ反射で思いきり歯を立てた。


 なにが。倒れ込むあいだに打ち合う音。錯綜する怒号と叫び。ぐん、と腹が圧迫された妙な浮遊感。息を吐き出し、見上げた。

「騒ぐなよガキ」

 階段をハヤブサのごとく駆け降りる男は抱えた荷物に目もくれず登ってきた敵をぎ払う。

「……ンガ、ワン……‼」

「黙ってろ。今度こそてめえの舌を噛むぞ」

 激しい揺れは収まらず、ンガワンは入口を塞いだ二、三人を倒しついに外へ出た。


「――――ソラ、タリ、いけるか」

 ンガワンの後を付いてきた二人の男は背を向けて声を揃えた。

御霊神クラの加護を」

「死んだら殺す」

「おっかねえ!」愉快げな笑い声を残してさらに走る。周囲はあちらこちらで兵士が血を流し倒れていた。といっても、事切れた顔までは分からない。松明たいまつは破壊されて宵の口だというのに真っ暗、ようやく城の上から並んだ明かりが下ってくるのが見えた。


「ンガワン……!吐きそう」

 小脇に抱えられ宙ぶらりのまま訴えるとンガワンは舌打ちして背に負ぶう。

「ひとまずずらかる」

「なんで、あんたが」

「礼なら俺には当然だがイシグにも百万回言っとけ」

 脱力した。では、見事イシグが監禁場所を当ててくれたのだ。


 ンガワンは城の石壁の陰を敏捷びんしょうに移動し、やがて月明かりもない地下を進んでいた。

「なに、どこ、行くの」

 問えども答えはなく、わずかに息が弾んできたンガワンはそれでも縦横無尽の迷路を立ち止まることなく歩き、やがて狭い通路へ出た。

「行きどまり……?」

将軍ヤソー!」

 囁きが暗がりから、声の主が慌てて寄ってくる。「ツェタル‼」

「リメド?」

「ああ、ああ良かった!……待って、手が!」

 まだ血が止まりきらずンガワンの背に染みていた。リメドは応急処置する。

「ンガワンさまとここから逃げるのよ。帰ってきてはだめ」

「メフタスが裏切ったんだ」

「メフタスだけじゃねえ。センゲの留守を狙ってヒュンノール人の兵どもが反乱を起こした。中にはアニロン人もいる」

「そうよ、とんでもないことになったの」

 リメドは泣きながら頷き、ツェタルを抱きすくめた。

「いいわね、ゲーポがお帰りになって城を取り戻すまで絶対に無事でいるのよ?ンガワンさまの言うことをよく聞いて」

「リメドはどうなるの?それにイシグ、あとセルラーパ」

「セルラーパは裏山からこっそり逃げたわ。イシグは元ヒュンノール人で今のところこちらの味方だとはバレてない。私は女官ヨモたちを守る義務があるの。逃げないわ」

 さあ、と地面を指した。「ここから入ってずっとまっすぐ。ネズミとむしけらの死骸があるけれど無視して」

「よくこんな抜け道知ってたな」

 ツェタルを押し込みながら言ったンガワンにリメドは気丈に胸を張ってみせた。「恋も知らぬうちから城に仕えてきた強みです」

「あんたはい女だぜ。さっさと身を固めな」

「あら、ヤソーがもらってくださいますの?」

「三番目でいいならな」

「大歓迎ですわ。言質げんちを取りましてよ?――ツェタル、小さな啼兎アブラ。いい子で、元気で。また会いましょう」

「うん……」

 ツェタルが返事を終える前に、頭上の穴は石の擦れる音を立てて完全に閉まった。




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