第二夜「焔」(Aパート)④

「お……おい、君! ――チ號参拾!」

 ついさっきまで、息の根が止まるのを待つだけだった自分が息を吹き返し、入れ替わるように、彼女がその鼓動を停めた。

 ――やめろ。

 やめてくれ。

 混乱しきった脳が、必死に叫びをあげる。

 これでは本当に、本当にこの子が自分に命を捧げてしまったようだ。

 否、自分が、この子から命を奪ったようにしか思えなかった。

「おい!……おい……何……でっ……!」

 ここが、マサトがよく担ぎ込まれていた救急病院であれば、容体の急変、急な発作、そう言う際に助けを求めるためのナースコールと言うものがあった。


 ――残念ながら、ここは、病者を救うための施設ではなかった。

 マサトは改めて、これまでの自分がいかに恵まれ、周囲の善意に守られてきたか思い知った。


「頼む、頼むよ、目を開けてくれ!」

 呼べども、叫べども、彼女は目を覚まさない。

 つい先刻まであれほど表情豊かだった顔は能面のように微動だにせず、徐々に、その体から温もりが失われてゆく。

 指先で瞼を開かせれば、きらきらと輝いていた赤い瞳が、見る影もなく虚ろになっていて、瞳孔が開きつつあった。

 であってから数十分の、それでも、自分に笑いかけてくれた、自分の命を救ってくれた少女が、目の前で息を引き取った。 

 ――身体の半分をもぎ取られたような喪失感があった。


 直感的に思う。

 ――自分おまえのせいだ。

 ――祇代マサトおまえが殺した。

 自分おまえと出会ったから、彼女は死んだのだと。

 

 今更ながら、己の愚かさに吐き気がする。

 どこだ、一体どこで間違えた。

 自分が、こんなところまで来たからか。

 きょうだいに、僅かなりとも暮らしの援けを残せるかもしれないなんて、そんなことを、望んで、誘いに乗ってしまったからか。

 そんな事の為に、彼女はこうして……冷たくならなければならなかったのか。


 魔法つかいでも何でもいいから、彼女を助けてくれ。

 なんなら、代価が自分の命でも構わない。

 そんな塵芥でいいのなら、いくらでも持って行け。


 ――この子を助けてくれ。

 童女の屍を抱きしめながら、マサトはただ、咽び泣いた。


 ――待て。

 彼女は、何を言っていた?

 思い出す。倒れる寸前の彼女の言葉を、

(……今から、少しびっくりするかも、しれないけど、少しの間、このまま、待っててね)

 その言葉の意味を考える。

 びっくりするかもしれない、とは、恐らく、このことなのだろう。

 では、「少し待て」とは、何だ。

 彼女は死んだ。

 それは絶対のもの、不可逆のもの。

 だがそれではまるで、待てば、何かの変化が起こると言おうとしていたかのようだ。

「――チ號、参拾」

 何かに縋るかのように、マサトは彼女の体を抱きしめ、その名を呟いた。


 ――とくん。


 一瞬、耳を疑った。

 自分の脳が、現実から逃走するために、実際には存在しない音を、脳内で奏でているだけではないかと思いすらした。


 ――とくん。

 ――とくん、とくん。

 まだそれは小さく微かだったが、それは、鼓動だった。

 再び、小さな体の奥の心臓が、脈を打ち始めていた。

 次いで、唇から、すうすうと、息が漏れ始める。

 間違いなく、幻聴などではなかった。


「……チ號?」

 そしてさらには、髪が、――みすぼらしく、不揃いに刈られていた頭髪が――急激に伸び始めた。

 透き通るような綺麗な白銀色はそのままに、若草が芽吹く様に、蝶の幼虫が繭を作るために糸を噴き出すように、

「――な」

 それこそ、一度死に、そして再び命を受けたかのように。

 身体に、次第に温もりが戻ってゆく。頬に赤みさえさしてゆく。

 彼女が言っていたのは、これのことか。

 しかしこれで「驚くな」と言われても――!

 心臓が鼓動を再開し、血液が循環を始める。

 微かだった呼吸も、次第にはっきりとしてきた。

「…ん、んんっ…」

 

 そして――

「――わぁ……ッ!」

 大声を張り上げるのと共に、彼女は、ひと息で、跳ねるように身を起こした。

「……ああ、良かった、よかったぁ! ちゃんと……」

 そんな風に声を上げるのを、呆然と見ていたマサトの姿を認めると、 

「あ……マサトくん……だ。 おはよう……かな?」

 そう言って、最初に言葉を交わした時のように、笑いかけた。

「あ、あれっ? 何か、髪が、凄いよっ? ええっと……どうしようか、これぇ……」

 ――何だよ、それ。



 ……本来、人間は一度心肺が停止するなんてことがあれば、例えその後の救命措置によって助かったとしても、その時間によっては深刻な後遺症が生じる。

 そんな状況であれば、すぐに動くことなど到底できはしないし、直ちに精密検査が必要……な、はずである。

 しかし、目の前のチ號参拾は、むくりと身を起こし、ただ眠りから覚めただけであるかのように、うーんと伸びをして、

「えへへ、よかったねマサトくん!」

 と言うのだった。

「……君、今、その、死んで……」

 間違いなく、数分間の間、心臓も呼吸も停まっていた。

 間違いようもなく、死亡していた。

 いまだあっけに取られ、呆然としたまま呟くマサトに、

「あはは……そっか、わたし、やっぱり死んじゃってたんだ、危なかったぁ……」

 照れくさそうに笑って、――完全復活、と言う感じである。 

「でも、もう大丈夫だよ、マサトくんが、待っててくれたおかげだね」

「……どういうことだ」

「あ、そうか、少ししたら、わたしを呼んでね、って、言っておけば良かったかな」

 びっくりしたよね、ごめんね。と、チ號参拾は言葉足らずを謝った。

「あ、そうだ!」

 ちょっとごめんねー、と一つ前置きしてから、彼女はマサトの胸に手を触れる。

「……うん、うん、わたしのいのちが、あなたの中で生きてる」

 確かめるように、何度も頷いて、

 ――そして、

「……さっき、わたしのいのちをひとつ、あなたにあげたから。なるべく、だいじにつかってね?」

 まるで何でもない事のように、にっこり微笑んで、そう言った。

「つくるのに一年くらいかかっちゃったから、それ一個しかないんだ。だから、次はもう、これしかないから」

 自分の幼い膨らみの谷間を指さし、続けて告げる。

「――ま」

 待て、と、そう叫ぼうとして、声を失う。

 誇張でも、修辞表現でもなく、自分は、この子に命をもらったということか。

 ――死からの復活。

 ――生命、それ自体の授受。

 ありえない、そんなことはありえない。

 それに――。

 長いこと黙りこくった挙句、ようやく絞り出すようにして、

「……そういう、ものは、他人にあげたりしちゃ、駄目だよ」

 とだけ、マサトはようやく口にした。

「……でも、あなたは苦しかったんでしょ?」

「それは、そうだけど」

「……苦しそうで、見ていられなかったよ? 何とかしてあげたいって、わたしが助けなきゃって、思ったよ? 困ってるひと、苦しんでるひとは、誰かが助けてあげなきゃ、だめなんだよ?」

 そう言われて、また言葉に窮する。

「それとも、マサトくんは、別に死にたくないなんて、おもわなかった? わたしの命、いらなかった?」

「……ああ、いや」

 彼女の問いかけは、マサトにとって、神の言葉に等しかった。

 これ以上苦しみたくない、そのくらいなら、いなくなってしまいたい。

 そう思い続けてきたはずだったのに。


「……ぼくは、誰かに助けてほしかった」

「そう――なら、たまたま今あなたを助けられたがわたしだったんだね」

 と、どこか、安堵したように、チ號参拾は言った。 

「わたしの大好きなことは、みんなのお手伝い。 わたしの大好きなものは、マサトくんも含めたみんな」

 マサトには、彼女の言っていることが、半分も判らなかった。

 遥か彼方で輝いているものを見るような気分だった。

 何なのだ、この子は、と思った。

 どうしてこの子は、こんなにも――。

「あなたにはあの時助けが必要だったし、わたしはあなたを助けたかったの。だから、あなたを、マサトくんを助けられてよかった。って、嬉しい。って思ってる。それで、わたしも、マサトくんも、こうやって生きてる。 だから、誰も何も失くしてない」

 わけの判らない感情がこみ上げてきて言葉を出せず、ただ彼女の顔を見つめるマサトに、

「それで、いいんじゃないかなー」

 と、彼女は笑いかけた。


「ねえ、マサトくん」

 沈黙するマサトを見つめ、ぽつりと彼女は呟いた。

「わたしもさっき一度死んじゃったけど、やっぱり、こわいし、くるしいし、かなしいね」

「……それは、そうだね」  

「本当に死んじゃってたら、きっと、もっとこわいし、もっとくるしいし、もっとかなしいんだよね」

「……そうだね」

「わたしは、マサトくんにも、他のだれにも、あんな思いしてほしく、ないなあ……」

 少しの間マサトが考えてから、

「……でも、人間はいつか死ぬんだよ」

 と、答えると、チ號参拾は、

「……そうだったね」

 そう、困ったように言うのだった。

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