第二夜「焔」(Aパート)③

 ほんの短い時間だけ、〈活性〉の魔法の恩恵に預かり、見えないものを見た。聞こえない音を聞いた。

 動かないはずの体を、常人以上に動かした。

 時間切れで死にかけた。

 規格外の存在と遭遇し、その手に触れられた。

 清浄な空気を呼吸して、命を取り留めた。


 だがそれは、あくまで仮初のもの。

 ――祇代マサトは、健康ではない。

 ――祇代マサトはもう、そう永く生きることができない。

 彼自身とその周囲の意思に関係なく、彼の肉体そのものが、生きることを指向していない。

 その大前提は、全く変わっていない。


 〈活性〉の魔法は、身体に備わっている力を引き出し、一時的に身体機能を、自然治癒力を増強し、感覚を鋭敏にするもの。

 ……もともと存在しないものを持ってくる魔法ではないし、強くかければそれだけ疲労と消耗を伴う。


 だが、それだけならばまだよかった。

 ほんの数分間、ウィッチを視認できるようにするだけならば、その影響はこれほど深刻なものではなかった。


 ……祇代マサトは、例えどのような已むに已まれぬ理由があろうと「他人と戦う」などと言う選択をするべきではなかった。

 彼は生来、そういった資質を持っていなかった。

 彼の肉体には、戦うという彼の意思を叶えることができる力が備わっていなかった。

 それでも、脳はアドレナリンを分泌し、心臓は鼓動を速め、肺は全力で酸素を取り込み続けた。

 時間にして数十秒の、けれど耐久性の上限を超えた肉体の酷使は、マサトの臓腑を、血管をスタズタに痛めつけていた。

 ……と言う事を、マサト自身、今はまだ知り得ていない。


 ――この時点で彼の残りの寿命は、10分間弱。

 ある現象が引き金となって。

 そのカウントダウンが、始まった。


「わたしは、チ號・参拾っていうの!」

 朗らかにそう名乗り、柔和な笑顔を向ける女の子に、当惑しながらも、愛想笑いで返し、――自分のことは、あまりそう気にかけなくても良いからね。とでも返そうとした。

 

 そんな時だった。


 ――どこかで、何かが起こったらしい。


 平衡感覚が、一瞬で失われた。

 膝から力が抜けて、倒れ込んだ。

 視界がくすみ、霞み、薄れてゆく。

 まともに最後に見えたのは、名前をきいたばかりの、自分の世話係だという女の子が、血相を変えて駆け寄ってくる姿。


 何度も咳き込んだ。

 食道の奥から、血の混じった胃液が溢れ出た。

 よくよく、口の周りが赤く染まる日だ。

 身体が重い。頭が痛い。

 ……次第に、呼吸が短く、浅くなってゆく。


 これまで何度も、それこそ数時間前にも味わったばかりの感覚。

 けれどこれは――まずい。

 症状が、いつもより重い。

 痺れるような痛みも、腸をかき回されるような嘔吐も、常にも増して激しい。


 震えが止まらない。凍えるように冷たい手足が、さらに引き攣る。

 チ號参拾が何か叫んでいるのが聞こえるが、何を言っているのかは聞き取れない。

 その声すら、やがて遠ざかるように聞こえなくなってくる。


 苦しい、苦しい、苦しい!

 ああ、――けれど、そんな風に感じるだけの意識すら、薄れてゆく。

 症状が治まったわけではない。むしろその逆だ。

 夜の闇に呑まれるように、眠りに落ちるように穏やかではあるものの、

 脳が、これ以上の苦痛から自己を守るために、感覚をカットして、苦しみのた打ち回るという「余計な」消耗を抑えようとしている。

 そういうこと、らしい。

 

 ……これでは今度こそ、本当に、死んでしまいそう、だ。


 咳き込み、えづきながら、

 ――――。

 最後に、「弟」の名をこころの中で呼んで。

 そしてそのまま、マサトは意識を手放した。


 切れかけて不規則に明滅を繰り返す蛍光灯。

 乾いた、生ぬるい空気。

 鼻を突くのは、血と膿の臭い。

 

 ぼんやりと周囲を見まわした。

 

 小さな男の子が、突っ伏し、床に横たわっているのを見た。

 目の下に深く刻まれた隈。

 土気色の肌、こけた頬、乾いてひび割れた唇。

 身にまとう、着古した入院着は、胸元が赤黒く染まっている。


 幾度も咳き込み、その度に喉の奥から、血反吐を吐き散らす。

 光の宿らない双眸は虚空を睨み、やせ細った手足は、苦し紛れに自分の手で掻き毟った傷に塗れていた。


 ああ――

 この子のことを、知っている。

 誰よりもよく、知っている。

 これは、自分だ。

 子供のころの――そして少し前までの、自分自身だ。


 だから、ここは、数時間前までの人生のほとんどを過ごしたあの部屋、あの病室だ。

 実際には、あの部屋はここまで酷い場所じゃなかった。

 あそこの職員たちも、同じ施設の子供たちも、別段冷酷な人間たちではなかった。

 マサトが苦しみの声を上げていればきちんと介抱してくれたし、血と膿と嘔吐で汚れた患者衣も包帯も、まめに取り換えてくれていた。

 けれど、それでも。

 それでも、幼い祇代マサトの目には、世界はまぎれもなくこのように映っていた。


 この子は呪っている。

 心の底から憎悪している。

 自分の人生を、他人の幸福を、

 世界と、宇宙の全てを。


 だから、目の前の少年、幼い祇代マサトは、涸れたのどで呪詛に満ちた繰り言ばかりを吐き続ける。


 ……いらない、いらない、こんなものなどぼくはいらない!

 ああ――どうして、どうして、こんなモノ人生を、ぼくに押し付ける。


 よこせ。

 よこせよこせ。

 ――おまえらの命を。おまえらの未来を。

 ――あたりまえの、平凡な人生というヤツを。

 ――ぼくによこせ。


 やめろ。

 と思った。

 他人にそんな目を向けるな。

 と思った。 

 そんなことをどれだけしたって、無駄だ。

 と思った。

 ――不幸に、なってしまうぞ。

 とも、思った。


 ……その呪いさえ、憎しみさえ、いずれ喪われる。

 その顛末に至るまで、良く知っていた。

 何しろ、自分が実際に味わってきた想いであるから。


 これは、そう――仕方がないこと。やむを得ないこと、だ。

 ああ、誰かが言っていた。

 ――誰も、おまえが苦しむように、おまえの苦しみを苦しんでやることはできない。

 その通りだ。

 突き詰めてしまえば、ありとあらゆるオブラートを矧いでしまえば。

 おまえの苦しみは、おまえ以外の全ての人間にとって、所詮、他人事だ。


 それはそうだ。

 どんなに悲しくても。

 どんなに憎んでいても。

 どんなに怒りに身を焦がしていても。

 それはどこにも届かない。

 おまえの憎しみは何も変えることはできない。

 おまえは、こんなにも弱弱しくて。 

 おまえは、こんなにもちっぽけで。

 おまえは、この狭苦しい部屋の片隅に籠って生きてきただけじゃないか。

 

 ……喜んだり、笑ったり、夢を持ったり、誰かを愛したり、成長したりすることができる、今現実を生きる人間に、おまえは何一つ敵わない。

 おまえが傷つけ得るものなんて、何一つありはしない。

 安心しろ、おまえの吐いた呪詛は、世界を滅ぼさない。


 百億の怨嗟と、それを掻き消し塗りつぶす、千億の否定。

 無量大数の、リフレイン。


 ……今日、おまえが死んだって、何の支障もなく、世界は回る。

 ……誰もおまえの為に悲しんで、歩みを停めてはくれない。

 元よりそう長くないと判っていたどこかの誰かが死んだからと言っていちいち立ち止まっていたら、社会は成り立たなくなってしまう。

 ――きっと、どうにもなりはしない。

 ならば、いっそ、いっそ、そのまま――


 少年の祇代マサトが、呻き、のたうちながら、手を伸ばす。

 伸ばした指の先には、病室のドアがあった。


「……けて。……けて」


 呪詛ではない、ただひたすらに苦痛からの解放を、救いをと求めるそんな声にも、誰も応えることはない。


「たすけて」


 実際には、10分もしない内に、苦悶の声を聞きつけて、あのドアが開いて職員か子供たちの誰かがかけつける。

 精一杯介抱され、症状が重いようなら、車で救急病院まで送り届けてもらえる。

 だがこれは、少年の祇代マサトの見ていた世界だ。

 吐血と嘔吐に塗れてもがき苦しんでいた時間は、永遠よりもなお長かったし、あのドアは、――決して開かない。


 ――と。



「……たすけて、ほしい、の?」

 昏い部屋に、光が一筋。

 光の射す方から、そんな声が、聞こえてきた。

「……うん、いいよ」

 開かないはずのドアが、僅かに開いていた。光はそこから射しこんでいた。

「……わたしが、助けてあげる!」


 ……ふしぎなことに、再度、瞼が開いた。  

 身体の上に何か、柔らかい物が乗っている重みを感じる。

 唇に押し当てられている、温かい感触。 

 目が覚めて、最初に視界に飛び込んできたのは、――少女の顔。

 どうやら自分は、まだ生きていて……女の子に、唇を重ねられているらしい。ということに、マサトは気づいた。

「……んっ」

 ぴたりと隙間なく押しつけられていた唇が離れてゆき、女の子は息を継ぐ。

「……マサト、くん?」

 そう、呼びかけられる。

 自分は相変わらず、仰向けに横たわっていて。

 女の子は、自分の顔の両脇に手をついて、覆いかぶさるようにしていて。


 ……まったく知らない子。ではなかった。

 雑に短く刈られた銀色の髪、赤い瞳。

 小さな体躯、ソレに比して女の子らしい膨らみ。

 飾り気のないクリーム色の、ガウン型の患者衣。


 ――チ號・参拾。

 ついさっき知ったばかりの、彼女の名。

 自分のお世話係だ、という少女。

 彼女が、自分を助けてくれた。ということのようだ。


 ここは、あの病室ではない。

 殺風景ではあるものの、清掃の行き届いた一室。

 ここに案内され宛がわれた個室である。


「――良かった! 目を覚ましたんだね! マサトくん!」

 と、チ號参拾が声を上げた。

 口の周りが血で赤黒く染まっている。

 どうやら、吐血したマサトの唇に、自分のそれを押し付けたことによるらしい。

 経口の人工呼吸でも施してくれたのか。

 ……しかしアレは、ついさっきまで自分の身を苛んでいた不調は、そんなものでどうにかなる症状ではなかった。

 それこそ、このまま死んでしまうのではないかと、今日二度目に思ってしまうほどで……

「う、うう……良かったぁ……! 良かった……よぉ……!」

 マサトが目を覚ましたことに安堵したらしく。

 チ號参拾は、マサトの体を抱きしめると、緊張の糸が切れたように、きれいな赤い瞳から涙をぽろぽろ流して泣いていた。

 ……ああ、こんな小さな女の子を、泣かせてしまった。

「……君が」

 あまりそれまでの人生で味わったことの無い種類の罪悪感を覚えてしまう。

「……君が助けて、くれたのか?」

「うーん、と……そういうことに、なるのかなあ」

 ついさっき、あまり自分に構わなくてもいい、と言おうとしていたというのが、今になっては恥ずかしい。

 お世話どころか、命を救われてしまった。

「そうか、――ありがとう」

「えへへ……どういたしまして」

 精一杯の謝辞を述べて、照れ笑いでそう返されて。

「……そう言えば、その」

 ちらと、彼女の顔に目をやって、その中の一点、瑞々しい紅色の唇に、視線を捉えられた。

 けして望んでのことではないが、――唇を、重ねてしまった。

 見たところ、背丈や顔つきは、およそ10歳から12歳。

 学齢で言えば、中学生にはなっていまい。

 そのくらいでも、女の子と言うのは、そういうのを気にするのではないだろうか。

「その……唇を」

 ……謝って済むことでもなさそうだが、と、申し訳なさそうにマサトが一応そこまでを口にすると。

「……え? …あー、あー……あー……」

 それで何となく、意図するところを察したか、チ號参拾は、困ったように母音だけで声を上げて、

「やー……あ、あははは」

 乾いた笑いをこぼしてから押し黙ると、――感触を思い出すように、指先で自分の唇に触れていた。

 幼い唇が、ぷにぷにと白く細い指先を押し返していた。

「…………っ」

 ……気まずい。

 気まずすぎる。

 いっそ、そこに関してはお互い触れないようにしておいたほうがまだましだったのではないかとさえ思えた。

 マサトも、チ號参拾も、互いに目を合わせないように、斜に顔を背けた。

 

 ……まったく、申し訳がない。

 ついさっき出会って、話相手になっただけの男に懸命に救命措置を施してくれたこの小さな女の子には、本当に頭が下がるばかりだ。

 この子はけして、自分を責めはしないだろう。と言う感覚があった。

 今だって、一生懸命、マサトが罪悪感を覚えずいられるような返しを考えているというのが背中から伝わってくる。

 ……出会ってから、ものの数十分ほどでしかないが、彼女には何となくそう言うところがあった。

 そう思いつつも、

「……その、何だ」

「ええと、あのね」

 祇代マサトとチ號参拾のふたりは、互いに、同時に、そんな風に声を出した。

「……お先に、どうぞ」

「いや、君からさきに」

「マサトくんこそ」

「……君がさきに」

 ……およそこの世に、こんなにも酸素の無為なる浪費たる会話があるだろうか。と言いたくなるやりとりの後、そのまま、さらに十数秒の沈黙の後。

 

「……マサトくん、お口の周り、拭いた方がいいと思う」

 ようやく、チ號参拾がそう呟いた。

 ――本当だ。

 改めて、2人とも口の周りが赤く染まったままだったことに気付いた。

 荷物の中から、ウェットティッシュを取り出して、数枚をチ號参拾に手渡して、ふたり並んで口元を拭った。

「ええとその、一応、うつるような病気は持ってないから」

「うん」

「……悪かったね」

 やはりこれは、一応言っておかなくてはいけないだろう、と、阻止される前に、そこまでは言葉にしておいた。

 チ號参拾は、それを聞くと困ったような顔をしてから、 

「ううん――いいよ」

 と答えた。


「――わたしは、みんなのことが大好きなんだ」


 そして、ふふふっ、と笑って。

「だから、マサトくんのことも、大好きだよ」

 ――だから、いい。

 と、言うのだった。


 ……本人がいいと言っているのであれば、と言うわけではないが、これ以上は言うだけ彼女を困らせるだけのようだった。

 おいおい埋め合わせになるよう心がけておこう、とマサトは思った。

 ……とりあえず、彼女に聞きたかったことは、もうひとつ。

「――どうやって、自分を蘇生させたのか」

 である。

 この教皇院が「魔法つかい」の組織であるということは承知しているが、ということは彼女も何かそれに類するもので、死に瀕した自分を助けることができる魔法でも使ってくれたのか、と思いもした。

 お伽話のお姫さまではあるまいし、彼女の口づけで息を吹き返したというわけでもないだろう。

「……ところで、どうやって」

 と、それを訊くために、声をかける。

「……ちょっと、ごめんなさい」

 チ號参拾が、顔を伏せてそう言ったのは、そんな時だった。

「……ん?」

 あれほど元気で、よく喋る子だったのに、どこか、苦しげだ。

「…そっちに座っても、いい?」

 かまわない、と答えて、ベッドの端に移動し、スペースを作ると、彼女はそこに腰をおろした。

「……はー……はー……」

 と、呼吸もどこか弱弱しい

「大丈夫か?……顔色がわるいぞ」

 もともとどちらかと言えば色素の薄い顔立ちではあったが、肌は子供らしく瑞々しくて、健康そうではあったはず。

 だが、今はそうではなくて、不健康に青白く、ほとんど土気色に近い。

 まるで――まるで、祇代マサトのように。

 あまりに具合が悪そうで、だんだん心配になってくる。

「……ごめん、ね。……ん、少し、このままで」

 単に甘えているだけ――などではなさそうだったが、隣に座るマサトにもたれかかり、腕に掴まって身を寄せる。

「……あの、ね、マサト、くん」

 チ號参拾は、途切れ途切れにそう言って。

「……今から、少しびっくりするかも、しれないけど、少しの間、このまま、待っててね」

 そして、どさりと、マサトの胸の中へと突っ伏した。


 腕の中に倒れ込んできた彼女の体を抱きかかえ、すぐに違和感を覚える。

 くたりと、力の抜けた、小さな体、か細い手足。

 伝わってくるはずの――呼吸を、していなかった。

 心臓が、脈を打っていなかった。


 ――彼女は、死んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る