第二夜「焔」(Aパート)②
○
現状、呼吸ができること自体がほとんど奇跡のよう、という思いだった。
苦しげに呻き、時折体を痙攣させる犬飼かなめを体温が低下しないようしっかりと抱きかかえて、励ますようにしっかりしろ先輩と声をかけたりしながら待つこと、しばらく。
改めての迎えの車が、――思っていたよりも大分穏当に、やってきた。
さっきスクラップになってしまった、最初に嵯峨かのんが運転していた車は値の張るものではあっても一応市販の乗用車だったが、ドラマや映画でしか見たことがない、鉛色の厳つい装甲車両だった。
所属を表す白地に赤丸の
即ち、国家のお墨付き。
ただし、もしも本物ならば。
……さっき目の当たりにした人を食らい糧とする類の怪物だの、それを身一つで迎え撃つ〈魔法つかい〉だのが現実に存在し、組織的に抗争を繰り広げているというのであれば、それはこういう大仰な代物が持ち込まれもするだろうとは思った。
はっきりそれと判る銃器の類は見た限り取り付けられてはいなかったが、実際問題として彼らがやっているのが、〈巨大な害獣との交戦〉である以上、それとてしれたものではない。
となれば、今まで己が呑気に寝たり起きたり死にかけたりしている時も、しらないところでああいう生き物と戦っているひとがいたり。――食い殺されるひとがいたりした、ということになる。
教皇院、と言うらしい組織と、その擁する魔法つかいがいかに強力であろうとも、この国の警察力・軍事力と共同歩調を取っていたとしようとも。
何しろついさっき、犬飼かなめになんらかの処置を施されるまでの自分にとってのように、見えず、聞こえず、貌(かたち)なく忍び寄ってくる人食いの獣が相手だ。
犠牲者をゼロにすることなんて、到底できまい。
今こうしている間にも、恐らくきっと、どこかで化け物に食い殺されている人がいる。
それにしても、およそこの二十世紀に知っている限り人類を主たる糧として襲う獣はいない。……はずだと信じていた。
不幸にして獣によって市民が命を落とすケースのほとんどは、人類か獣のどちらかが、たまたま相手の生活圏に足を踏み入れてしまったことが引き金の、事故のようなもので。
それだって、病原菌の媒介や食料を汚損することによる蚊やネズミの被害に比べてしまえば、実際の数は僅かなものだ。
しかし「ウィッチ」というらしい、あの出刃包丁頭の大蛇。
犬飼かなめは「何かから逃げる途中のようだ」と言っていたが、少なくともあれは逃げるために腹を満たすという目的で自分たちを襲ってきた。
となれば、犬飼かなめによって屠られたものの、あれだけのサイズに成長するまで、一体どれだけの長きにわたって生き永らえ、これまでどれだけの犠牲が出たのか。と思うと背筋が凍る。
目の前で車が停車すると、乗降ハッチが開き、揃いの制服を身に付けた一団が、ばらばらと足早に駆け寄ってくる。
となりで頭痛を堪えるように眉をひそめていた嵯峨かのんに。
「……嵯峨さん」
と、声をかけた。
「あなたのことを信じてはいますが、あのひとたちのことを信じても大丈夫ですか」
当初、彼女の身分は「公益福祉法人の代表」と聞いていた。
だが、つい先ほど目にしたもの。
〈ウィッチ〉しかり。
〈魔法つかい〉しかり。
〈明智光秀〉しかり。
そして〈みことさん〉しかり。
どれほど楽天的に考えようと、もはやそのまま言葉通りに信じられるものではなかった。
百歩譲って〈公益福祉法人の代表〉というのが純然たる偽りではないにしても、それは事実の〈全て〉ではないのだろう。
目の前の老婦人は、怯え慄くばかりだった自分などよりもよほど臆せず、あの異界からやって来たような金色の童女にも、〈明智光秀〉にも、モノを言って見せた。
このひと自身、只者ではあるまい。
どうやら、その辺りの状況はこのひとが概ね把握してくれている。
〈明智光秀〉の方は、明確に、自分を狙って襲撃してきたが、自分が一方的に彼女たちの事情に巻き込まれたわけでも、自分の事情に彼女たちを巻き込んでしまったというわけでもないらしい。
……ほんの少しだけ、気が楽になる。
「〈みことさん〉というのが、さっきのあの子の名前ですか」
「……ええ、鳳みこと(おおとり・みこと)というの」
問うてみれば、存外に含むところもなく告げられる。
とりあえず、相手の名前が判明した。大きな収穫だ。
何分、此方は身の振り方を一手間違えればそれ即ち死に直結するのである。
警戒のレベルは上げざるを得ない。
臨機応変の対応。なんてものが通じるようにも思えない。
どうも、彼女ともいずれ再び相対することになるそうだが、彼女が目の前に出現した場合の対応、というのを、考えておかなければならない。
即座に逃げるなら逃げる、そうでないなら腹を据えて対峙するなり、煮るなり焼くなり好きにしろとかかるなり。
「ぼくのこと知ってるみたいでしたけど、あの子、あのひとは、ぼくの何ですか」
一応これも聞いておくか、と思い、
「……母親ですか」
と、さしてうまくもない軽口を言ってみれば、
「良く、判ったわね」
目を大きく開いて、そう驚いたように返されたが、これはまあ冗談だろう。
応接室でのやりとりで、嵯峨かのんは、「ついてくれば自分に母親ができる」と言っていたが。
まあ流石に、彼女ではないだろう。
○
鉛色の厳つい車輛に乗せられ、再び小一時間、人気のない道を走って、霧の向こうでたどり着いたのは、鬱蒼と生い茂った雑木の木立に囲まれた、深山幽谷、というほどでもないが、向こう数キロ人家の一件もなさそうな山の裾野。
街の灯りが遠ざかる度心細くなるのも否めなかったが、左右をがっちりむくつけき護衛に固められ、ひゅうひゅうと苦しげに息をつく怪我人を抱きかかえながらではどうにもならない。
それでなくとも、自分の体力では人ひとり抱えて遠くまで走りきることなどできはしない。
「まるで、逃がさないようにしてるみたいですね」
と、いやみの一つも言いたくなるところだ。
大体、マサトが彼らだか彼女らだかをいっそう気に食わないのは、手負いの犬飼かなめをまるでマサトの手荷物のように粗雑に扱う点である。
軍用車輛と言うなら、そのための設備くらいはあるだろうし、簡単な手当くらい今すぐしてやったらどうだ。と思われてならない。
それでも同乗している嵯峨かのんの瞳には犬飼かなめを案ずるような色があったし「命には係わらないのか」と聞けば、弾丸はもう取り出してしまったし、後は彼女の回復力次第だ、と答えてもくれた。
だが、彼女がひっきりなしに掛かってくる携帯電話に出るために、別の座席に移動してしまってからは、話す相手すらもろくにいない。
左右を固める護衛たちに声をかけても「祇代マサトは人間の姿をしているが、本当は言葉で呪いをかける化け物なので、何を話しかけられてもけして返事をしてはいけない」と命じられてでもいるかのように反応がない。
これでは壁に話しかけていた方がまだ有意義である。
ということで、現状唯一親しみを覚えることができる、膝の上の負傷者の肩を掴み、意識が途絶えてしまわないように、声をかけ続けるのに専念することにした。
このまま死んだりしないでくれよ、犬飼先輩。
……緊急のこととはいえ、まさか彼女も助けた相手に肉を噛み千切られる羽目になるとは思っていなかっただろう。
仮にも女の子の肌に歯を突き立ててしまったことを、後で詫びておかなければならない。
そうして到着したのが、――記念会館。とか――総合センター。という名称がまあしっくり来る。白く塗られた建物。
交通の便とて良くはないだろう山中には不似合いに壮麗な高層建築ではあるものの、少なくとも見た目はごくごく真っ当である。
一頃地方のあちこちに似たようなこの手のハコものが予算を使い切る目的で建てられて、「人里離れた山中に豪華建築物」とテレビや雑誌で揶揄されていたのを見たことがあった。
「正門」と思しき場所に車が停まり、降りるように促される。
他人任せにしておくとやめろと怒鳴るよりも先に犬飼かなめが投げ落とされる恐れがあったので、抱きかかえたまま、彼女の弓を担いで降りるようにする。
少し遅れて嵯峨かのんが降りてきて、建物の中へと促された。
白い箱モノの玄関を一歩くぐってみれば。
――そこに、「大神殿」が広がっていた。
華美ではないが、壮麗に彩られ飾られた大伽藍。
古都から由緒正しき寺社仏閣をそのまま運んできたような、神々しさが満ち泡触れた空間が、安っぽい自動ドアをくぐった途端、目の前に現れた。
これは、魔法をつかう人たちの手による業である。という事前知識こそあれ、流石に息を呑む。
あちこちに飾られた、美術館の棚に収まっているのが似つかわしいであろう調度のみならず、床板一枚や柱一本を形成される木材すら、うかつに手を触れ、足を踏み入れることに気が引けるような、年月と共に積み重ねた格の高さと言うものが感じられる。
……新興の宗教がいかに信徒から派手に毟り取って荒稼ぎしようとも、とてもこんな場所は作れそうにない。
最初に連想したのは神社や仏閣だったし、実際それらに近い様式でなされている意匠もそこかしこに見受けられる。
足早に行きかっている、ここの務め人であろう人たちは、それぞれに種類の違いこそあるものの、和装か、それに類する装いをした人が多くある。
だがどうも、単なる信仰の場所や、その名残の旧跡と言う感じではない。
かつて、ではなく、現在進行形で実務に用いられているようでもある。
この場所はどうも、何がしかの信仰や祈りのための場所というにはあまりにも、厳しさ、冷たさの方が強く感じられる。
或いは、――法と正義を司る、支配者の住まう場所のように。
呆然と、周りを見回していると、
「マサトくん」
と、気づけば隣に立っていた嵯峨かのんに声をかけられる。
どうやら、彼女にも、あれやこれやと事情があるようで、
「……ごめんなさいね」
深々と改めて頭を下げると、どこかの誰かさんのせいで、しばらく雑務をこなさなくてはならなくなったと伝えられる。
「ぼくのことですか」
と問えば、
「そうではないわ」
と返される。
「少しの間待っていて頂戴、直に人を迎えに来させるから」
「犬飼先輩はどうするのです」
「それも伝えてあるから、それまで、お願い」
――そう言い残して嵯峨かのんが立ち去ってしまってからは、再び、気心の知れない護衛たちに挟まれ、その場で待機することになった。
愛も変わらず、話しかけても答えはないし、手洗いにでも行けないかとその場から移動しようとすれば、それはならぬと手で制される。
下にも置かない歓待、というのを期待していたわけではないが。
真綿で包むようにされながら、その実、個人的な心情や意向は一切尊重されない。
こういう扱いはなれてはいるが、さすがに精神が参ってくる。
そう思いながら、ただただ俯いて、時間が過ぎてゆくのを待つ。
と、そうしている内に気づく。
幾人かの大人が、少し離れた場所で、此方を見ながら話しこんでいる。
――あれか。
――何だあれは、本当にあんな者が。
――見ろ、あの弱弱しいなりを。
――今更そんな者を引っ張り出してこられても。
――いくらでも黙らせようはある。
――あんな者が、何の役に立つ!
どうも、マサトのことを評しての言葉のようだった。
いずれもそれなりの年齢の、身なりと恰幅のいいひとたちだったが、あまりマサトがこれまで接したことのない人種だった。
施設の職員たちとも、援助会の旦那たちとも違う。
あえていうなら、テレビで見た政治家とか大企業の重役とか。時代劇に出てくる貴族のようだった。
……陰口なら、せめて聞こえないように言ったらどうだ。
聞こえるように言うなら陰口ではない。ただの嫌味だ。
そう言う時にはせめて声を落とすものだということくらい知らないのだろうか。
何だこの人たちは、わざわざ嫌味をいいに来たのか。
と思いながら、俯き続けていた、無視した。
疲れ切っていたし、こんな連中の相手は御免だった。
「犬飼!」
俄かに、間近から大声を上げられたのが、頭に響いた。
薄目をあけて見れば、高級そうな和服に身を包んだ、縦にも横にもでかい男が、マサトの隣の犬飼かなめを見下ろしていた。
「……う……」
犬飼が苦しげにうめき声をもらす。
苦痛と出血でもうろうとしてはいるが、彼女は意識はあるし、耳も聞こえている。
さっき聞かされた、負傷した彼女を引き取りに来た医者かとも思ったのだが。
「生まれが卑しい上、弓矢も使いものにならんとは! どうしようもないのう……やはり、犬は使えんなぁ!」
彼から出てきたのは、ただの罵声、だった。
「何故お前みたいな汚い血の駄犬を嵯峨様が庇うのかわからんわ!」
――その名前が出た瞬間、青ざめた犬飼かなめが、全身を強張らせるのが判った。
「この不始末どうするつもりや、え? せめて死んで来てくれれば、まだ格好もついたんになあ。おまえは何やったらまともにできるんや!」
間近に座っているから、犬飼かなめの味わっているものが、マサトにも伝わって来る。
「自分の立場をわきまえたらどうや。嵯峨様の責任にもなってくるのぉ」
どうしたら、怪我人相手にこれだけ汚い言葉を投げられるのか。
それを咎める者すらいなかった。
遠巻きにくすくすと笑い声を上げるか、関係ないと足早にそこを通り過ぎる者たちばかりだった。
……何なのだ。
何なのだこの醜悪な連中は!
冷え冷えした感情が湧き上がるのを禁じ得ない。
己に対する、聞こえる陰口なら、まだ許せた。
ああそうか、と思うだけでいられもした。
しかし、それが顔見知りに向けられているとなると、意味合いが変わって来る。
――嵯峨かのんには表だって刃向えないから、その部下を?それも手負いで体が効かない時をねらって?
犬飼かなめが、自分の失態を言い逃れようとしないということも。
嵯峨かのんの名前を出せば、より効果的に彼女に精神的苦痛を与えられることも十分理解した上で、あえてそれを口に出して。
……絶対に安全な場所から思うさま弄って、罵声を浴びせて、憂さを晴らそうというのか。
ああそうか、別に珍しくもない。
あの施設にだって、そういう奴はいた。
兄弟の上の方には強く出られないから、幼い弟や妹を相手に憂さを晴らそうとするようなやつら。
ただ、あそこでそういう下卑たことをする子たちには、少なくとも下卑たことをしているという自覚はあった。
更に年長の子たちや職員から隠れてそういうことしていたし、見つかれば咎められるということ、おおっぴらにすべきではないということくらいは判っていた。
となれば、本当に、怪我人を相手に己の優越を示すことが正義の行いと自認しているか、或いは口から汚物を垂れ流すこと自体が快感になってしまっている。という辺りか。
……この教皇院とやらいう組織のトップがいかに偉大だか知らないが、こんな連中を運用して、人類を護らせるなんてことが、本当にできるのか?
「――っや」
声を上げようと、マサトが息を吸い込んだ時、だった。
「イワクラ殿」
――と、
「……その方は起きていらっしゃる。 耳も聞こえているし、言葉も判ってる。口を慎んだ方が賢明と思われるが」
と言う声が、横合いから差し挟まれた。
30前後の、背の高い、赤錆色の髪の男が、いつの間にかそこに立っていた。
「お、おお、……何やぁ、イクサベ、何しに来た」
「……嵯峨さまに貸してた車ァ取りに来たんですよ、俺がここに来ちゃいけませんかね」
イクサベ、とそう呼ばれた男は、愛想笑いを浮かべて、ついと、マサトの前に立った。
マサトと、それから犬飼かなめを庇おうとしているようにも、見える。
目に見えて、イワクラ氏の威勢が減じた。
「……ああ、すぐ帰らせてもらいますよ。あなたの処ほどじゃありませんが、まあ当家も忙しくなくはないんでね」
と、どこか皮肉っぽい物言いで、見れば、腕っぷしもなかなかに強そうである。
……何だ。咎められてばつが悪くなったわけではなく、要は彼を怒らせると怖いから黙っただけか。
まあ、そういうものだろうが。
「さあ、おまえたちも、下って構わんぞ」
男がそう言って、さっと手首を返すと、両側に立っていた護衛の者たちが。――ふっとその姿をかき消し、一枚の紙の人形と化して、床に落ちる。
こいつも、魔法つかいか。
「――と、ああ、挨拶がまだでしたね。――
赤錆色の髪の男は、そう名乗ると、
「どうされました? 嫌なことでもあったのなら、ちゃんと口にした方がいいですよ」
マサトの苦りきった顔を見て取ると、そう付け加えた。
では、その言葉に甘えさせてもらおうかと思う。
「まあ、文句の一つも言わせてもらえるなら」
前置きしてから、切り出した。
「この人は怪我人です。ぼくを助けてくれた人です。今すぐ彼女に医者かそれに類する人を読んでください。彼女の何がそんなに気に食わないのですか、髪が黒いからですか、瞳が黒いからですか、ぼくの目にはあなた方もそう違う色をしているようには思えないが」
まあ、戦部ユウスケは少し髪の色が違うが、染めているか何かだろう。
「い、イクサベ、何や、この人は何もきいとらんのか」
ぽかんとしたように、イワクラ氏が、
「ここにはここのやり方がある、それを判って頂かんと……」
マサトにではなく、戦部ユウスケに食って掛かる。
やっぱり「祇代マサトは呪いをまき散らす化物である」とでも言われているのだろうか。
「ここで大切なのは血筋もやが、能力もや、使えん者は何を言われても……」
実力主義とか言う奴か。
……その手のことを得意げに口にする奴が、自分のような、――特別な産まれも持たず、能力も特にない者をどう扱うか、考えただけでも吐き気がする。
「……俺、そういうのも嫌いなんですよね。だったら何であんたが俺と同格みたいな顔なさるんですか」
イワクラ氏に聞こえているか判らないが、戦部ユウスケがそんなことをぼそりと呟いていた。
どうも、本当に話が通じていないらしい。
自分が「鋭く切り返して大の大人をたじたじとさせる」なんてことをできるとは別に思っていなかったが。
純粋に感覚が違い過ぎて、彼らからしてみればマサトの方が、戯言を口にしているとしか思われていないらしい。
「……帰ります」
犬飼かなめを抱えたまま、踵を返し、元来た方に向き直る。
「宜しいんですか?」
尋ねる戦部ユウスケに、
「あなた方は信用できません」
と答えて、
――それはそれで命がけだろうが、山を下りて病院を探すまで、何とかひと頑張りしよう。と思う。
「信用されたかったらせめて、せめて犬飼さんを人間並みに扱ってください」
「い、イクサベ、その人を止めぇ! そんなことをされたら……!」
「いや、あなたがここを出たいんなら車ぐらい出させて頂きますがね」
「本音を言ってください」
「……ですが、俺としちゃ、後での言い訳が面倒ですね」
そう言って、戦部ユウスケは肩をすくめる。
「だったら、嵯峨さんをここに呼んでください。――あの人なら、一応信用できます」
「な、何を言って、そのようなことができる訳が」
「こんなところにいたら、犬飼先輩はあなた達に殺されてしまいます」
――それではあまりに、割に合わない。
「――うわはははは!」
大笑が響き渡った。
嘲笑でも、冷笑でもない、明るい笑い声だった。
「……ああ、失礼。 いやいや、この方はまともですな。この方が珍しいことを言ってると思うなら、俺やあなた方がどうかしとるのでしょうよ。ああ、うん、そうだな。確かにそういうことをしちゃいけませんなあ」
腰に手を当て胸を張って、戦部ユウスケが愉快そうに笑つていた。
――どうやら、少しは話が通じる人がいるらしい。
「……ところで、あなたはぼくのことを知ってるんですか」
「ああ、存じておりますよ。何しろあなたを部屋までお連れするよう言われて参りましたので」
そう言って、戦部ユウスケは慇懃に会釈をした。
改めて、その姿にさっと視線を走らせる。
まず目に付くのは、赤錆色の髪と、三白眼気味の双眸。
一応きっちりとネクタイを締め、落ち着いた色合いのスーツを着ている。
体格としてはむしろ細身の部類に入るが、スーツの下には鋭利な肉付きの四肢があるのが見て取れた。
口のきき方こそ礼儀正しいものの、言葉の節々に、どこか荒っぽさを押し殺したような。荒くれ者が更生して、そう心がけているみたいな風があったのが多少気になる。
あの自称・明智光秀が、本当は知識と品格がある人間がわざわざ品のない振る舞いをしていたように見えたのと、丁度正反対だ。
「では、こういたしましょう」
胸の前で、ぱんとひとつ掌を鳴らし、戦部ユウスケは意見する。
「まずあなたを、用意した部屋まで案内する。こいつは俺が、責任もって一緒にお預かりしましょう。それで如何ですか?」
と、申し出る。
「誓えますか」
「神でも仏でもない、目の前のあなたに誓いましょう」
そう言って、戦部ユウスケは、横でぐったりしていた犬飼かなめに手を伸ばし、ひょいと抱えて肩に担ぐ。
「満更知らない中じゃありませんし、俺のところで負傷の処置くらいしておきますよ。まあ、野戦病院みたいなもんだとお思いください」
なるほどそれは頼りになる。――のだろうか。
野戦病院なるものを実際に目にしたことがないので良く判らないが。
「戦部!」
なおもぎゃんぎゃんと喚くイワクラ氏に、
「イワクラ殿、あなたはこれ以上何を言っても信用を無くすだけです、黙っていた方が得策ですな」
と、戦部ユウスケは冷たく告げる。
「んっ…! いく、さべ、さんっ!」
「んじゃぁ、参りますよ」
そのまま、つかつかと歩き出す戦部ユウスケの肩の上で、
「はなせ…この兵器マニア!」
突然、犬飼かなめが悲痛な声を上げ、四肢をばたつかせてもがき出した。
「……たすけて若様! 改造される! 兵器の材料にされる! あっ! 痛、痛い! 傷に響く!」
――さっきまでの態度と、随分違う。
「……あなたは、そういうことをするひとなんですか?」
何となく、そう聞いてみるも。
「……いや、しませんよ。 ほら、しねえから安心しろバカ女」
と、返される。
「この火力オタク! 戦艦に欲情する変態!」
「……おめえ、銀の弾丸なんぞもらったんだってなぁ? そんなもん頂戴するからあの手のバカにナメられんだよクソッタレ」
口を極めて罵る犬飼かなめに、負けじと戦部ユウスケが応じる。
――どうも、こっちの方が地らしい。
ただ、彼の場合は口こそ悪いが、ある種の気安さと、ちゃんと彼女自身を案じているというのが感じられて、先刻のイワクラ氏よりよほど好感が持てる。
「一応、事情あってのことなので、そこはあまり言わないであげてください」
とだけ、口添えておく。
「いやまあ、こいつとは以前からこういう付き合いですものでね」
と、苦笑いして
「……さっきのお公家さん方……あの手の連中がのさばり出してから、教皇院は実につまらん場所になっちまいました。まあ俺も……親父殿から聞いた話ですが」
そう言うと、戦部ユウスケは唇の端をあげ、にっとひとつ笑って見せた。
○
さて、ここに来てから、数時間。
ベッドと、一人用の机と一室に通されて、しばらくここで休んでいるように、と戦部ユウスケから申し渡された。
別命あるまで待機、というやつである。
とりあえず、縛られたり暴力を振るわれたりはしていないし、出入口のドアも外から鍵がかけられたりしてはいない。
だが、改めて良く考えたら、自分がいったいどういう理由でここへ連れてこられたのかも、ろくに説明がないままではないか。
これでは、ちょっとした軟禁状態だ。
犬飼かなめの容体も気にかかる。
嵯峨かのんには「教皇院」というらしい、この組織の名を教えてもらった。
……どうも、ここは長居するようなところではないかもしれない。
とはいえ、元いたところに逃げ帰るというのも現実的ではない。
どんなに嫌でも、数か月は我慢してみよう、だなんて思ってはみるものの。
ではその先は、というのが何もない。
さっきのやり取りで、多分イワクラ氏は完全に敵に回した。
ここでの知り合いは嵯峨かのんと犬飼かなめ。
あとは精々先ほど会ったばかりの戦部ユウスケだ。
「みことさん」こと鳳みことにもそのうちまた会うことになるのかと思うと身の毛もよだつ。
先の2人には、ここまで来る途上での経緯もあって、その人柄自体には好感を持っている。
けれど、犬飼かなめは現在の所重傷の身。
嵯峨かのんは強大な力を持つ存在であり、有能な人物でもあるようだが、そうであるが故に、有形無形の枷が多くあって、あまり彼女を頼みとするのは得策ではなさそうだ。
戦部ユウスケは、悪人ではない――と言えるかすら心細い。
現状のところどういうわけかここでは例外的に自分に対し好意を持っているようではあるものの、その好意の出所が不明だ。
犬飼かなめの傷の回復を待って、一度身の振り方を相談してみる。というのが辛うじて現実的な線だろうか。
それに、そうこうしている間に自分は何かのはずみでコロりと死んでしまうかもしれない。
それが一番手っ取り早くて、後腐れがないのかもしれないとも思う。
どこまで行っても、結局自分には、それが付いて回る。
こびりついて離れない。
「――ぼくは、
口に出して言ってみる。
祇代マサトは、塵芥である。
そう思っていた時に、ドアベルが二度ほど鳴った。
ドアの前まで移動して返事をすると。
「あの、あけてもいいですか?」
と、廊下側から声が、――幼い感じの、女の子の声がする。
かまわない。と答え鍵を開けると、
「失礼しますね」
からからと銀色のワゴンを手で押しながら、ひとりの女の子が、室内へと入ってくる。
「えっと、お食事、お夕飯を運んできました」
自分の胸くらいの背丈の、小柄な女の子、だった。
マサトの「弟」よりはいくつか年長のようだけど、それでも10をいくつか過ぎた程度。
まだランドセルを背負っているような齢ではないだろうか。
そのままテーブルの隣にワゴンを停めると、女の子はトレーに乗った食器を並べ始めた。
「君が作ったのか? これを」
「はい、わたしが作りました」
言いながらマサトに向き直った女の子の顔を見て……息を呑んだ。
「(〈みことさん〉?)」
……ああ、いや、違う。
一瞬、何故か彼女を連想したが、
ふっくらした頬と、澄んだ瞳の、並はずれて整った愛らしい風貌にはちがいないのだが、少なくとも目鼻立ちが全く違っている。
それに「
今目の前にいる女の子の髪は、薄く透き通り、銀の輝きを放つ白髪である。
女の子は、飾り気のない、上下一体の裾の窄まった、ガウンのようなものを身に付けていた。
マサトにとっては馴染みの深い衣服。
――入院着、検査衣である。
もう一つ目についたのが、男の子のように、それこそ坊主頭に短く刈り取った髪型だった。
……本人の嗜好というならば他人が口を挟むことではないが、如何にも寒々しいし、ところどころ不揃いな部分があったり、どうも見た目の印象が乱雑で、けしてお洒落だと思ってこのヘアスタイルにしているわけではなさそうである。
――薬の副作用。
――脳に関する疾患。
着衣の傾向もあいまって、幾度か担ぎ込まれた
「……きみは?」
「わたしは、ここでみんなのお手伝いをしてるの」
柔和な声で、女の子はそう答える。
「しばらくここであなたのお世話をするようにって戦部さんに言われてるから」
そういうことのようである。
戦部ユウスケめ、随分姑息な手を使うじゃないか。
……こんな小さな女の子が相手では、邪険にもしづらい。
「祇代マサトさん。――マサトくん、でいいかな? 良かった、優しそうなひとで。怖いひとだったらどうしようと思ったから」
そう言って、女の子はふふっと笑う。
「せっかくだけど」
と前置きして、マサトは食事をする気分ではないと伝えた。
「作ってくれたのに、申し訳ないね」
「ふーん、じゃあ、やっぱり食べた方がいいよ」
少し考えてから、女の子はそう答える。
「そう言う時こそ、ちゃんと食べないと」
「いや、でも」
「食べられるだけでもいいから、ね?」
柔和な雰囲気だが、随分と押しが強い子だった。
いつのまにやら、テーブルの前まで押しやられ、綺麗に配膳された食事の前に座らされていた。
「さあ、どうぞ?」
○
かちゃかちゃと音を立てて、先の割れたスプーンを口に運ぶのを繰り返す。
「どうかな、おいしい?」
「――ああ」
口ごもりながらそう答えると、
「うん、判ってるよ、おいしくないよね、正直に言ってくれていいよ。だって、おいしくなるように作ってないから」
――その代り、食べられるでしょ?と、女の子は言った。
「……まあ、確かに」
味も香りも薄く、脂分も少ない。
まるで霞を食っているように。白湯のように喉を通ってゆく。
一応、彼女なりに気遣ってくれているらしい。
実際、どうにか半分以上は、マサトの胃袋に姿を消した。
「おいしいものは、また今度だね」
食器を片づけながら、女の子はそう言った。
「……また作ってくれる、のかな」
「うん、マサトくんのご飯は、当分わたしが作ることになると思うよ。わたしがマサトくん係だからね」
「係りって……」
えへへ、と胸を張って、女の子は返す。
改めて彼女を見ると、――最初身なりから健康状態を心配してしまったが、肌の色つやもいいし、背格好に比して、随分発育がいい。
薄手の患者衣の肩口や腰回りは、その年頃の女の子らしく丸みを帯びはじめているし、胸元も初々しく膨らんで患者衣を押し上げている。
何か体に問題を抱えているというのであれば、ちょうど自分のように痩せこけているだろうし、それにそもそもこんな子供に仕事をさせたりしないだろう。と、マサトは思った。
「世話っていうのは……君には、他に何を頼めるのかな」
少し面はゆく想いながらも尋ねてみれば、
「何でもいいし、何でもするよ。こうやってお食事の準備もするし、髪を梳かすこともできるし、本を読んであげたり、絵を描いてあげることもできるよ」
と、返される。
「後は――言ってくれたらお風呂でお背中も流すし、夜寝るのが寂しかったら、一緒のお布団に入って暖めるよ」
「……そう言うのは、遠慮しておく」
「何か、できることないかなあ」
「そうだな、悪いけど、今は……」
困ったようにいうマサトに、
「なら――わたしと、おしゃべりしませんか?」
と言って、女の子は身を大きく乗り出した。
○
ふたり並んでベッドに腰掛け、話をする。
「……それで、そんなことをするから、だからわたしはこう言ってあげたの!」
邪険にはできない。
とにかくよく喋るし、コロコロと目まぐるしく表情が変わるので、見ているだけでも何となく楽しくなってくる。
「弟」はあまり口数が多い方ではなかったし、こんなにひとりの相手と長く喋るの自体が、久しぶりかもしれない。
「――あ、いけない!」
と、楽しそうに口を動かしていた女の子が、不意に声を上げた。
「ごめんなさい、わたしばっかり喋っちゃって。わたしのお話、つまらなくなかった?」
「……そんなことはないよ」
実際、大分気鬱がはれたのは確かだ。
……じゃあ、と言って、
「次は、マサトくんのお話が聞きたいな」
そんな言葉が、女の子の口から飛び出した。
「ぼくの話?」
「うん、何でもいいのよ、好きなものとか、欲しいものとか、してみたいこととか」
「……参ったな。ぼくにはそういうモノが、何もないんだよ」
と答えるしかなかった。
おそらく気を使ってそう話題を振ってくれたのであろう、目の前の女の子には申し訳ないが。
元はと言えば、マサトがここまでやってきたのは、
――一度くらい、ひとの役に立ってみたい。
などと、柄にもない想いを抱いてしまったからだった。
その結果、自分をかばった犬飼かなめは瀕死の重体。という惨憺たるていたらくだ。
もはや、そんなことは仮初にも言えない。
そんな過ちを、繰り返すわけにはいかない。
二度とそんなことを、考えるものか。
「ああ。――うん、やっぱり、何もない」
だから、今ならはっきりと答えられる。
「……そんなはず、ないよ」
けれど、そんなはずがない、と、
「あなたには、あなたの願いが、あなたの欲望が、ちゃんと在る筈だよ」
納得いかない、というように、女の子は言う。
「…どうして、そう言える?」
絞り出すようにして口にした言葉に対して
「だってあなたは、生きてるんだから」
と言うその答えは、マサトを押し黙らせた。
「……前にも、そんなこと、訊かれた気がするよ」
しばらくの沈黙の後、マサトはようやく、そう口にした。
「それは、誰に?」
「弟が。――いやまあ、本当は弟じゃないし、そういう意味での弟はいないんだけど」
下手な申し正しだ。
……これでは、実在しない、空想上の弟の話をしようとしているみたいである。
「……うーんと……弟が欲しいの?」
さほど興味をそそる話ではないだろうと思ったが、ソレに反して女の子は、存外に強く食いついて。
「じゃあ、わたしがマサトくんの弟になってあげようか?」
と、申し出る。
「弟は、なろうと思ってなるものじゃない」
マサトはそれに対してそう言った。
……それに君は女の子だろ? 女の子は、妹っていうんだよ。
と、付け足しもした。
「それは、わたしもその位は知っているけれど、――でも欲しいのは、妹じゃなくて弟でしょ? だったら曲げちゃだめだよ。ほしいものを、別のもので我慢するのはダキョウなんだよ? ダキョウは駄目だって、教皇さまも言ってたもの!」
「……そう、か」
――妥協は駄目だ。か。
その言葉は、マサトの胸に、それまであまり感じたことの無いような感傷を呼び起こした。
「――そうか、妥協は、駄目か」
「うん!」
身を乗り出して頷く女の子に、
「……そういえば、ごめん。しばらく一緒に暮らすのに、まだ、名前を聴いてなかったな」
苦笑いして、マサトは尋ねた。
「知ってるだろうけど、ぼくは祇代マサト。きみは?」
「……わたしは、チ
〈
銀髪の女の子は、可愛らしくにっこり笑って、そう告げた。
「これからよろしくね、マサトくん!」
「……
○
さて、と一息ついて。
男はぐるりと辺りを見回した。
教皇院も、少し見に来ない内に随分程度が落ちたじゃないか。
麗しの嵯峨かのん嬢がまだまだ睨みを聞かせているらしく、ひやりとする瞬間がなくはなかったが、それでもこうして、誰にも気取られずこんなところまで自分の侵入を許してしまっている。
祇代マサトを迎え入れるために、一瞬でも口を開くだろうと読んでいたが、その通りになった。
後こわいのは精々、イクサベとか言う若造くらいか。
昔からここはそうだったが、下の方は上の方を理解してないし、上の方は下の方のことに興味がない。
言い方を替えれば、下の方は俗物、上の方は自分たちの理屈しか知らない、駄目な意味での求道者。
いま幅を利かせている連中。あいつらは駄目だ。
ああいった手合いも、100年ほど前にサムライと一緒にきれいさっぱり根絶やしにしたかったのだが、上手くいかないものである。
まあ、あんなモノが好き勝手に動き始めた、となれば、上の方は今頃大騒ぎだろう。
混乱するのも、無理はあるまい。
「悪く思うなよ、祇代マサト」
ひとつ呟いて、スーツの懐から、手のひらに収まる程度の、金属の短筒を取り出した。
半透明のカバーの下に覗くのは、赤黒い、鉱石質の小さな欠片。
頭上に掲げ、スイッチを押すと
赤い閃光が、周囲を眩く照らす。
赤光に照らされたその手の甲には。
――桔梗の紋が、染め抜かれていた。
○
こほっ。
咳をひとつして、口元を拭い、手の甲が真っ赤に染まっていることに気付いた。
一呼吸遅れてやって来るのは、内臓に焼けた鉄を流し込まれたような激痛。
――立ち上がろうとして、マサトはそのまま、膝から崩れ落ちた。
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