第二夜「焔」(Aパート)①
――わたしに、色彩をくれたヒト。
○
――何だ。
一体、いま何が起こっている。
祇代マサトは、目の前の光景をただ呆然と見据えていた。
僅か一日、もっといえばたった数時間で、彼にとっての世界がその姿を変えた。
きちんとした別れを〈弟〉に告げる余裕もなく、突然訪れてきた不思議な老婦人によって生まれ育った施設から連れ出されて、巨大な異形の大蛇と、麗しい射手――魔法つかいとの戦いを、目の当たりにした。
〈明智光秀〉を名乗る、桔梗の紋の男に銃を向けられた。
彼と、戦った。
小細工を弄して、一矢は報いてやった。そう確信した矢先、よりによって、己自身の体に手ひどく裏切られた。
己の意思で呼吸することすらままならない有様で倒れ伏して、泥に塗れた。
もう駄目だ。
もうおしまいだ。
自分は結局、こんな風にして、
そう思った瞬間に、再び状況は……運命は変転する。
○
今、目の前で広がっている光景は、地を焼き尽くし空を焦がす、溢れんばかりの赤い炎の海と、それをもたらした――金色に輝き天頂に坐す、ひとりの童女。
既に、彼女との相対を避けたか、芝居がかった言葉を残して、自称・明智光秀は姿を消していた。
彼女の出現をもって、世界は再びその在り方を変貌させた。
〈ウィッチ〉そして〈魔法つかい〉。
つい先ほど、それまでの常識を覆すようなモノを立て続けに目にしてきたマサトに改めてそう思わせるほどに、金色の童女は「異質」だった。
アレは、そういった領域のものですらない。
金色に流れる、長い髪。
白い上衣。
緋色の袴。
目に見える姿だけを、言葉で表するなら、ごくごく穏当なもの。
しかし、文字通り彼女が姿をみせたその刹那、舞台の背景が全く別の、清らかで神々しくも恐ろしげなものに入れ替わってしまったかのようだった。
まるで、大気の成分さえ、何か別の清浄ななものに変化したみたいに。
何もせずともただそこにそうしているだけで穢れを退け周囲を清め統べるようであり、まともに視界に収めるコトすら憚られるような高貴にして神聖な支配者のようでもある。
……実際、ひとまず〈明智光秀〉を撃退してくれたようでこそあるが、その為したことと言ったら、出現と同時に大量の炎をばらまいて、地上を灼熱地獄に変えるような暴虐に他ならなくて。
けれど、それすら、――アレがやるのであれば、どうしようもない。と思わせる。
どうして自分がまとめて消し飛ばされていないのかさえマサトには判然としなかった。
アレから見れば自分も〈明智光秀〉も、等しく有象無象の虫けら同然のものではないか。
一瞬彼女の姿を垣間見たときに想い浮かべたのは、絵本の「月の神さま」だった。
だが、それはどこまでも見当違いなものであると今は痛いほど感じている。
「月の神さま」は、善なるものをひとつひとつ見つけ、支え、肯定してくれる「正義の味方」。
だが、今目の前にいる黄金の童女は、いわば剥き出しの、身も蓋もない「善」そのものの塊。
――この清浄さはいっそ、暴力だ。
アレならば、一目散に逃げの一手を打った「明智光秀」の心情の方がまだ理解できる。
黄金の童女が、視線をひとつ巡らせる。
地上に伏せるマサトの姿を認めると、その優美な唇が笑みの形を作るのが見えた。
同時に周囲を覆っていた大量の炎が、一瞬でさっと掻き消えた。
それすらも、陽炎が風に吹き散らされて消え失せるような出来事だった。
後に残る物は、焼かれひび割れた剥き出しの大地と、そのただ中に取り残された、祇代マサト。
すぐ傍に立つ嵯峨かのんも、横たえられた犬飼かなめも、ひとまずは諸共に焼き尽くされたりはしていない
辛うじて彼女たちに気を回すことができて、少しだが、ほっと安心する。
一応は、彼女たちを助けるために慣れない荒事に臨んだのである。
無法者と一緒くたに焼き払われたのでは、酷い無駄骨もいいところだ。
煌めく金色の光の粒子を放ちながら、ゆっくりと舞い降りてくる
焼け焦げた大地に、か細い足首と、そこから伸びる白い足袋と沓に包まれたつま先が静かに触れた瞬間に……その箇所に、草が芽吹く。
緑の毛氈が広がるように、黄金の童女が歩んでゆく先を、瑞々しい若葉が生い茂って広がり、可憐な花さえ開かせていく。
この童女が、生命それ自体を否定するような種類のものでないことに、マサトはほんの少しだが安堵する。
現に起こっている現象とは正反対に、彼女がただ無造作に歩を進めるだけで、すれ違うものが心臓を停止させばたばたと倒れてゆくのではないか。――などということすら、マサトは考えたのである。
また、彼自身にも重要な変化が起きていた。
呼吸が――できる。
ついさっきまで、どれほど激しく空気を吸い込もうと体自体が酸素を受け付ける機能すら失ってしまったかのような有様だったのが、今は治まっていた。
大気の成分さえ、穢れのないものに変えられてしまったのか。
砂塵の臭いも、草の焼ける刺激臭もなく、気管を、肺をいやすかのように、清浄な空気が通り抜けてゆく。
ひとまず、今すぐに息の根がとまることはなさそうと判断、身を起こし、立ち上がってみるモノの。
つかつかと歩み寄ってくる黄金の童女の意図が、まったく判らない。
「――あなたと言うひとは」
見れば、すぐ傍に立つ嵯峨かのんの表情が険しい
――あなたはいったい何を考えているの
マサトの前であるから、とでも言うように、人目を憚って堪えているがそうでさえなければ今にも掴みかかりそうな切迫した表情である。
このヒトとて……少なくとも常人ではないらしい。
さっき、幻影のように一瞬見えた美しい少女の姿はともかく、少なくとも今の姿は、老婦人である。
どうも、彼女はこの童女と面識を持っているようではあるが、これほど異質なモノを前にしているというのに随分な度胸だ。と敬意の念すら覚えた。
そして、嵯峨かのんの叱声を、どこ吹く風と聞き流し、黄金の童女は、マサトの眼前に立つ。
――何者だ、この子は。
「……ほう」
マサトの顔を見上げ、ただひとこと、そう呟いた。
声の質自体は、容貌に違わない、可愛らしい少女のもの。
だが、その重々しい発声と口調は、まるで何億通りもの声を一つにまとめ上げたかのようで、自分の胸のあたりまでしかない背丈の童女のものとはとても思えない。
「……手が、届きません」
ぽつり、泰然としてひとつ呟くと、
「――少し、屈むように」
と、言いつける。
……命令、された?
訳も判らず、マサトはその言いつけに従った。
膝をつき、童女の目の高さに合わせ、身を屈める。
――逆らえば一瞬で消し飛ばされる。とまで思ったわけではないが。そうするしかなかった。
「顔を、良くお見せなさい」
続けての命令にも抗しがたく、背けていた顔を、童女の方へ向ける。
――こうして改めて間近で見れば、やはり、美しい少女ではある。
夕闇の中でもそれ自体が光を放つような黄金の髪は、その一房ひとふさが繊維状の純金のよう。
抜けるような色白の肌で象られた輪郭と、奇跡のようなバランスで造形され配置された目鼻。
造作だけなら、あどけないと評していい、純白の千早と、緋色の袴を身にまとったその姿は、その時代にただ一人の名工が、美の極致と言うものを命と引き換えに作り上げた美術品がこういうものだと言われたら反論もできぬような、幼い少女の顔貌。
女性の美しさと言うものに心を動かされることのほとんど無かったマサトに、そんな風に思わせるような、麗しさ。
「――っ」
だがそれ以前に、ろくに彼女の貌を直視することができない。
その綺麗な顔に、一切の感情が存在していないことを読み取るのが精一杯だ。
これは、人間ではない何かだ。
――この子が、恐ろしい。
童女が、白い上衣の袖から伸びる手をもたげ、マサトの貌にふれた。
既に限界まで全身が毛羽立っていたが、それこそ心臓が止まってしまいそうだった。
白い掌が、頬に、頤に触れ、確かめるように指先でなぞり、撫であげてゆく。
「……ふむ?……ふむ」
反対の手で口元に指を添え、彼女は、何かをしみじみ噛みしめるように言う。
「なるほど、このようなものですか」
そして彼女は、
「感じ入るところが、無くもない」
と、尊大に口にする。
「……それは……それはないでしょう!」
夜気を切り裂いて、鋭い怒声が飛んだ。
「謝りなさい!この子に謝りなさい!」
このひとにしては珍しく、嵯峨かのんが激しい声で、罪を問うように言い放っていた。
基本、上品で淑やかなひとではあるが、大した迫力だ。
これだけで猛獣でも震えあがってしまうだろう。
「この子に、優しい言葉のひとつもかけてあげたらどうなのッ!」
そんな、激しい問責の声を、どこ吹く風と聞き流し、
「ふむ」
一度頷くと、初めて命令でなく、マサトに対して言葉をかけて問いかける。
「わたくしを、見ることができますか?」
一度逡巡した後に、マサトは、深い色の双眸を、覗く。
宝石のような瞳のその奥に、大海溝の底か、果てなく青い空が広がっているかのようだった。
恐ろしくて仕方がなかった。
――けれど。
けれど何故か、その恐怖にもまして、彼女の問いに応えられないことは、この瞳から目を逸らし続けることは、もっと恐ろしかった。
自分の人生はゴミのようなものだったが。
――それでも、こんなバケモノに恥じるようなことは、しちゃいない。
射るようにマサトへ注がれる視線を受け止めながら、真っ向から、童女を見つめ返す。
背骨に力を籠め、瞼を見開き、竦みあがる全身の力を両眼に籠めて。
「――ふふ」
愉快そうな笑い声が響いた。
見れば、ほんの数秒前まで一切の感情を浮かべていなかった彼女が、唇を綻ばせ、花が咲く様に可憐に、微笑んでいる。
「怯え、竦み、慄きながらも、わたくしを見据え返すことをしましたか、ああ、よい――とてもよい」
その顔は、どこか、満足げ、とでも言うべき色が含まれていて。
「祇代マサト。よくぞ、その体で今日まで生き延びました」
そう続ける声にも、どこか喜ぶような気配があった。
「――大儀」
そして、尊大に、それでも労うように、彼女はそう口にする。
「それだけ――? それだけ、なの?」
叫ぶ嵯峨かのんの声も、余所事のように効き流し。
「ふふふ……ふふふっ」
彼女は、愉快そうに、鈴を転がすような、実に綺麗な声で笑うのだった。
そうして――彼女の姿を初めて直視して、マサトは気づく。
童女の背後が幽かに、透き通って見えている。
顔に触れられた、その指の感触はまだ肌に残っている。
この子は間違いなくこの場に、現実に存在している。
であれば、これはどういうことだ。
――その答えをマサトがまだ得ぬままに、眼前の童女の優美な肢体から、黄金の粒子がそれまでに増して虚空に放出され始めた。
金色の粒子が放出されるほど、それに従って、髪が、顔が、着衣が、透明度を増してゆく。
布が糸になって解けてゆくように、その姿が薄らいでゆく。
「待ちなさい! みことさん!」
怒りの声を放つ嵯峨かのんを歯牙にもかけず。
その姿は薄れ、霞み、金色の粒子を散らしながら、一夜の夢が覚める様にして――
その最後の痕跡も、冷たい夜風に撒かれて、ついには完全に消えてゆく。
「祇代マサト。――不死鳥殿にて、あなたを待っています」
その言葉だけを、残して。
○
数秒間、或いは数分間。
「……これから、どう、しますか」
しばらく呆けたようにその場に蹲っていたマサトは、ようやく言葉を取り戻し、嵯峨かのんに問いかける。
「……もとの予定通りです。あなたを連れ帰りわたしたちのところに。――教皇院へ迎え入れます」
ああ、そう。――そうだ。犬飼先輩。
撃ちこまれた銀の弾丸は摘出したものの、彼女を、ちゃんと手当てしてやらねばならない。
「こんなことになってしまって、ごめんなさいね」
嵯峨かのんが、マサトの方が畏れ入ってしまいそうなほど深々と頭を下げた。
一瞬、周囲を見わたし、灰色のコートの姿を探す。
見えている限りでは、追い払えただけで、あの男を仕留められてはいない。
あの曲者ぶりからして、どこかに隠れているということも考えたが……
――いない。
〈明智光秀〉の姿は、この場からは完全に消え失せていた。
……あの男は言っていた。
「俺はこれからも、あんたの前に現れる」
「桔梗の花を見たら俺を思い出せ」
――桔梗の花が、嫌いになってしまいそうだった。
○
魔法少女くおん――イツワリノメサイア――
第二夜「焔――〈チ號・参拾〉――」
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