第一夜「カミシロ マサト」(Bパート)③

 周りに視線を巡らせ、身を隠すものを急ぎ探した。

 辺りは一面荒れ野と廃耕田であり、草が生い茂っているばかり。

「あそこまで行って、伏せましょう、嵯峨さん」

 だから、隠れる場所と言っても――ここまで乗ってきた、今やスクラップと化した乗用車の残骸くらいしか見当たらなかった。

「少し我慢してくれ、先輩」

 犬飼かなめの体と、彼女の弓を担ぎ、倒れ込むように車体の陰へと飛び込んだ。


 おかしい――。

 地に倒れ伏し、苦悶の声をあげてのた打ち回る犬飼かなめの姿に、マサトは戸惑う。

 傷が、彼女の傷が、再生しない。

 犬飼かなめは「魔法つかい」であり、少なくとも常人ではない。

 先ほどの見せた戦いぶり、その持てる戦闘能力。

 そして、痛々しく切り裂かれた顔面の傷を瞬時に治癒させた回復力。

 それらが万全に発揮されていれば、そもそもこんなものはその身で受けることはなかっただろうし、瞬く間にその傷は癒えたはず。

「がっ……!がぁっ……!」

 本来、人間は銃で撃たれるなんてことをすれば、当たった箇所に関係なく命に関わる。

 いつの間にか、さっきまで纏っていた獣の毛皮があしらわれた戦装束ではなく、着衣も、白いブラウスと黒紺のブレザーに戻っていて、これではまるきり、当たり前の同年代の女の子が目の前で血を流して苦しんでいるのと同じだとしか思えなかった。


 そう、先ほどまで目にしていた「魔法つかい・犬飼かなめ」であれば……そんなものは物の数ではなかったはず。――それなのに。

「まずいっ……これ……銀の……弾……ッ!」

 苦しげな吐息の中に、辛うじて聞き取れる言葉が混ざる。

 銀の弾丸。

 単語としては聞いたことがある。

 普通の銃器では殺傷しえない獣に、魔性のものを屠ることを可能とする破魔の弾丸。 

 普通に考えたら、それはただの「迷信」である。

 そもそも何故、銀の弾丸が特別かと言えば「特別だから特別」ということだ。

 銀は通常弾丸として用いられる鉛とは、硬度も、比重も異なる。

 物理法則の関係上、鉛より軽い弾丸では威力は低下するし、硬度の高い弾頭は銃身内部のライフリングが効果を発揮しない。

 実際の扱いやすさや信頼性、弾丸としての殺傷力、コスト、あらゆる面で鉛の方が理に適っているし、銃器は鉛製の弾丸を発射することを前提に作られている。

 およそすべて道具というのは、もともと想定された、適切な使用法以外の使い方をすれば、機能を発揮できなかったり、壊れたりする。

 弾の速度や軌道のブレ、発射する銃器の損耗を考えれば、あくまで美術品、あるいは魔よけのお守りであって、あえて弾丸に銀を用いる理由は、何もない――のである。

 弾丸に銀を用いるべき正当な理由があるのなら、銀の弾丸はもっと一般的に使われるだろうし、〈そうでない〉からこそ、銀の弾丸は特別なのだ。


 だが――、今日、目の当たりにした、この世のものとすら思えない巨大な蛇と、それを真っ向から屠る、魔法の弓使いの存在が現実のものであるというの、現にこうして魔法つかいが被弾して苦悶の声をあげていることを加味すれば、それらの意味合いがすべて変わってくる。

 獣の魔法つかい。

 その名の通りの、獣と人の入り混じったような姿の戦装束。

 獣の感覚と死なない体に頼りきりの戦いをする女。

 白銀の、破魔の弾丸。

 そこから導き出される答えがあった。

 つまり――この人は、犬飼かなめは、狙撃者の存在を察知しつつ、つつけば死ぬ程度の祇代マサトが狙い撃たれるよりは、自分が受けた方がマシであり、自分はそうそう死ぬことはないと、己の体の不死性を信頼し、高をくくって祇代マサトを突き飛ばして自ら凶弾を受け止めて、しかしその弾丸は、彼女の不死性を貫通して、彼女を殺傷しうる、特別性の弾丸だった。――と、そういうことになる。

 そうして、その結果として、こうして今目の前で、ブラウスを赤く染めながら、苦悶し、喘いでいるのか。

 それでは、この人は――この人はただの…、ただのお人よしの善人ではないか。


「……痛い……よぉ、痛いよぉ…!」


 苦痛を訴える声が、マサトの鼓膜を震わせる。

 さし当たって、この人を、助けなければならない。

「嵯峨さん」

「……ええ」

 すぐ傍に、身をかがめ、思案顔でいた老婦人にそう声をかける。

「さっき撃たれた弾丸、このままにしたら、まずいでしょうか」

「……そうね、並の弾丸ならば物の数ではないけれど、特別な弾丸を、特別な撃ち方をされたものだから……かなめさんとは、相性があまり良くなくてね」

 になるものを探す。

 咄嗟に目に入ったのは、犬飼かなめの弓の両端のブレードだが、これは大ぶりすぎるし、確かさっき、あのウィッチを切り裂くのに使っているのものなので気が引ける。

 自分の荷物は、文房具、筆記具類くらいはあったはずだが、あいにく全部車の中だ。

「犬飼先輩。……悪いね」

 少しの逡巡の後、意を決して……

 犬飼かなめのブラウスをはだけさせ、祇代マサトは、白い肌に、歯を突き立てた。

「今から出ていきます、撃たないでください」

 赤く染まった口を手の甲で拭い、マサトは乗用車の陰から、上体を出す。

「それから、――これがどういう意図なのか、聞かせてください」

 摘出した銀の弾丸を、指先でつまみ、示した。


 その男性は、そのままそこに立っていた。

 灰色のロングコートと、白い手袋に、紫色の、桔梗の花の標が目についた。

 体格や身なりは、そう突飛なものではない。夕陽の逆光で顔貌は良く見えないが、目鼻立ちもそれなりに端正であるのが伺えた。

 どちらかと言えば荒事には縁がなさそうな細面の、どう見ても、銀の弾丸を他人様に向けて撃ちこんでくるなんてことをしそうではない佇まいであった。

 にも、関わらず。

 胸を掻き毟るような――嫌悪感。

 腐った食べ物を口一杯に詰め込まれたような――不快感。

 それらはさっき目の当たりにした巨大な毒蛇よりも、この男性の方に、遥かに強烈に感じるモノだった。

 ぽつりと、呟く様に、桔梗紋の男は口にした。 

「……あんた、そう――あんただ」

 そうして、続けて、

「ああ、聞いてた通りの顔だな、結構ハンサムじゃないか。こうして生でお目にかかると中々に感慨深いなあ――はじめまして、祇代マサト」

 と、よく通る声で呼びかけた。

「……あなたは、誰だ」

 と、マサトは尋ねる。

「なぜ、ぼくの名前を知っている」

「ふん、なぜ知っている、だって? ……名前だけじゃない。知っている、何だって知っている。……きょう、この時間、あんたがこの道で運ばれることも、俺は知っている」

「……どこかでお会いしましたか」

 重ねて問いかけた。

「それとも、ぼくはどこか、自分でも知らないところで、あなたに恨まれるようなことをしでかしてしまったでしょうか。……そうであるなら謝りますが、犬飼先輩と嵯峨さんは無関係だ」

 せめて、そっちは見逃してくれないか、と思い、申し出てみた。

 それほど色よい返事を期待していたわけではなかったが。

「いや?俺とあんたは、正真正銘これが初対面だよ、特に誰かにこうしてくれと頼まれてるわけでもないしね、これは、完全に俺の裁量だよ」

「……お望みは何でしょうか? ぼくの命というなら、放っておいてもぼくはあと数年で死にますので、……何も今日でなくてもいいじゃないかというところです」

「面白い事いうねえ」

 ふふん、と鼻で笑い。桔梗紋の男は、

「……それが通るんだったら、ほとんどの人間は向こう100年の内には死ぬだろうよ」 

 と、続ける。

「まあ、ともあれ俺は別に今ここであんたに死んでもらいたいわけじゃない。今から行くはずだった場所に、あんたが辿り着くことができなければ、……どうなるか。と思ったんだ。一緒にいるのがそのお二人と言う事は知ってた。そっちのかのんちゃんはうかつなことはできないだろうし、そうなれば厄介なのは犬のお嬢様だ、それで、相応の準備をしてきたって次第さ」

「ぼくが、辿りつけなければ……それで、どうなる」

 訝しみながら、マサトは尋ねる。

 何だかこの男の口ぶりは、まるで、おおよそあらすじを知っている本を、初めて実際に手にしてみた読み手のようだ。

「さあてねえ、それは教えてあげない」

「……ふざけてるんですか」

「何だい、怒ってるのか?」

 さっきからの、その作ったような軽薄な口調は、マサトを苛立たせた。

 どうも、きちんと知識と教養を身につけた、やろうと思えばいくらでも慇懃に礼儀正しく喋れる人間が、わざとそうしているような嫌味があった。

「顔見知りが銃で撃たれたんです、……それなりに」

 間違いだった、誤射だった。……できればそうであってほしかった。

 だがそれはもうなくなった。

 彼は、明確に、明確に自分の意思で犬飼かなめに銃弾を撃ち込んだのだ。

 この男は、悪意に満ちている。

「その犬のお嬢さんは、君にとって、そんなに大切な相手かい?もしそうだったら、あの子はちょっとかわいそうだな」

 少し考えて、答える。

「……今日顔を合わせて、一時間かそこらの付き合いだ。好きか嫌いかと言われたら、……まあ、普通です。でも」

「でも?」

「でも、この人は、ぼくを助けてくれました。あのウィッチとかいう化け物からも、あなたからも護ってくれたんだ」

 そう返した時、マサトの耳に、か細い、途切れ途切れの声が届く。

「じゃ…ない……!…わた、しは…」

 包帯代わりに巻きつけた、細く裂いたブラウスを赤く滲ませ、大きく胸を上下させながら、犬飼が、唇を震わせて何かを口にしようとしていた。

「――どうした、先輩。何か言いたいのか?」

 頭を一度引込め、横たえた犬飼の口元に耳をやった。

 苦しげな呼吸の中で、必死に紡ごうとする言葉。

「イヌじゃ…ない……! わたしは……イヌじゃ、ない…ッ!」

 ……そう、繰り返し言っているように聞こえた。

 その口調は、どこか、――どうしようもなく許しがたい侮辱を受けたような、心底からの怒りがあった。

 その言葉が、彼女にとってどういう意味を持つのかは、よくわからない。

 けれど、その怒りは、マサトにも感じてとれた。

 苦しい息の中から、頬を寄せ合った犬飼かなめが、必死に手を差し出した。

 だから、マサトはその手を取った。

「先輩、わかったから。……ぼくはもうけして言わないし、誰にもあんたを、犬なんて言わせないから」

 耳元で、そう囁いた。

「――犬飼先輩は、犬呼ばわりが好きじゃないらしい、撤回と、あと謝罪を」

 再び顔を上げて、そう言い放つ。

「ふうん? 随分鼻息が荒くなったなあ? 身体は大丈夫かい?」

 いい加減、その冗談めかした口調に、自然と声が低くなる。

「……いいから謝れ、犬飼先輩に、撃ったりしてごめんなさい、犬呼ばわりしてごめんなさいって」

「俺が素直に言うこと聞くと思うのかね?」

「……思ってません」

「ああ、そうだ、言って聞いてくれなそうな相手は――」

「言う事聞きたいって、思ってもらわないといけない、でしょう?」

 屈んでいた膝を伸ばし、立ち上がって乗用車の陰から身を晒す。

「マサトくん?」

「嵯峨さん、ここにいてください」

 どうも、この人も何かしらの力を有しているのは確からしいが、軽はずみには動けないらしい。――つまり、今この場では、この人には頼れない。ということだ。

「――こっちには怪我人がいて、手当てが必要だ、だけどあなたをそのままにしたら、多分後ろから撃ってくるよな?」

「いやいや、俺がそんな卑劣なことは好まないって可能性は?」

 ひどい侮辱を受けた、とでも言いたそうに、渋い顔をする。

「そもそも、あなたがそういう種類の人物だったら物陰から狙い撃ってくるなんてことはしないでしょう? 違いますか?」

「うーん――まあ、撃つんだけどさ」

 ……白々しいというのはこういうことか。そう思いながらマサトは返す。

「だろう? そうなったらそれまでだ、だから――だから、ああ、そうだ。ぼくは、今からあなたと、戦おうと思う」

 柄にもなく、声を張り上げて、そう叫んだ。

 自分でも不思議なほど、咽ることも、掠れることもなく、自然と声が出た。

 地に手を伸ばす。

 そこには、犬飼かなめが持っていた強弓が落ちていた。

 拾い上げる。

「犬飼先輩」

 弓として正しく扱うことはとても適うまいが、上下両端に一丁づつ、サバイバルナイフのような刃物が取り付けられている。

「少し、借りるよ」

 根元の金具を動かすと、それは弓から外れ、マサトの掌に収まった。

「おーおー、挑んでくるか。健気だねえ。……刃物持ってケンカした経験は?」

「ありません」

「暴力は好きかい?」

「好きも嫌いも振るったことがありません」

 ああそうだ。

 殴り合いの喧嘩だって、自分はろくにしたことがない。

 自分はずっと、気を使われていた。

 弱いから、貧弱だから、放っておいてもこいつはもう既に不幸なのだから。

 お互い好きで一緒にいると言うわけでもないのに、四六時中顔を突き合わせていれば、それは色々な事がある。

 直接の理由などなくても、何となく顔を見たくない、いけ好かない相手というのはマサトにも存在したし。逆にそう思われているのだろうと、察することもあった。

 あわや一触即発、という雰囲気になったことも、なくはない。

 今考えれば、彼らは一人残らず、まだしも最低限の美意識というものがあった。

 殊更暴力を振るって意を曲げさせ、屈服させたところで、それはまったく無駄な行いである。という認識があった。

 放っておいても、祇代マサトは必ず数年以内に死ぬのだから。

 ならば、それによって目的を達成したところで、それは自分の人生というものに負けているのではないのか。

 たぶん、そう思われて、思いやられていたのだろう、と、今なら理解できる。

 外に一歩出れば、そうでない奴はいくらでもいて、今がそうだと言うだけの事なのだろう。

「……ああ、確かそうだったな」

 そう言って、桔梗紋の男は大げさに肩を竦めた。

「まあ、暴力に訴えなければ己の望むところを得られないというのは人として恥ずべきことには違いないから、君は別に間違っちゃいないし、それを恥じる必要もないわけだが。……でも、やるんだね」

 どこか「うん、知ってた」という感じの顔だった。

「ああ、やるよ。ご心配なく。今日はここ数年ない位に、体調がいいので」

 そう答える。

「――「争いは好まないけど、大切なものの為にやむをえず戦います」って? 心の優しい善人が、悪党に良いように使い潰される典型的なパターンだなァ!」

 今の高揚が、犬飼かなめによってかけられた〝活性〟によるものであり、時間制限つきのものであることを、祇代マサトはまだ知らない。

 ……が、例え知っていたとしても、そうする以外の選択肢は、もはやない。

 現に、目の前で、顔見知りの女の子が、血を流して倒れていて、侮辱されて、心からの怒りに震えていて、彼女を助けるためには、自分がこうするしかなくて。

「まあ、それならそれで、おじさん相応に手向かいさせてもらうよ」

 冷たい音をさせて、右手に握っていた悪意の塊が、マサトの方を向いた。

 6連発の、回転式拳銃。 

 確か犬飼に3発撃ち込んでいた。と言う事は残り3発か。

 弾を込め直している様子はなかったし、3発無駄撃ちさせてしまえば何とかなる。――という甘い考えは捨てよう、とマサトは思った。

 何しろこの男は魔法つかいを拳銃で傷害できるのだ。

「それとも、君はあれか、生命の危機に瀕して、前世の記憶だの秘められた力だのが覚醒してしまったりするのかな」

「……安心してください、それは、

 考えれば考えるほど、勝てる見込みなどまるでない――けれど。

「そうか、いい、いいな。そりゃあ実にいい!」

 そう言って、桔梗紋の男は声を上げて笑った。

「いいか、俺はな、弱い者は出しゃばるな、現実を見て賢く大人しく強い方の食い物にされていろ。……だなんて、甘っちょろい駄法螺は誓って言わんぞ!」

 小馬鹿にしたような口調は変わらないが、それでもどこか、さっきまでよりも、真摯なとでもいうべき響きがあった。

「弱いんだから死ぬ気でかかって来い、だなんてことも言わない。……弱いんだから、でかかってこいよ、祇代マサト」

「言われなくても、そうさせてもらいます」

 改めて、両手に握った刃に、力を込める。

 それを見るや、桔梗紋の男は、諭すように言った。

「……ああ、そうじゃない、いいか、刃物を握る時は、小指から順番に握りこむんだ」

 言われたとおりに、やってみる。

「……こうかな」

「ああ、そうだ、いいぞ、初めてでそれなら上出来だ」

 言いながら、かちゃりと金属の音を立て、両手に握ったナイフを、隠すように、背中に回した。

「……ああなるほど、それを俺目掛けて投げつけようって作戦か、これは参ったな、左右どっちが来るかわからんぞ」

 ……どうやら、こっちの狙いはまるきり読まれている。

「ひとつ君に明るいニュースだ。俺も随分練習はしたが、君が今向き合ってるのは次元大介でも、冴羽 獠でも、デューク東郷でも、野比のび太でもない。もしもびっくりするようなことがあれば」

 ふふん、と楽しそうに鼻先で笑うと、

「狙いを外しちゃうかもしれないぞ」

「――撃てよ、撃ってこい、犬飼先輩にやったみたいに撃ってみろ」

 順に、振るった。

 手首を捻って、右手のナイフを投擲した。

 軽く払いのけられる。

「右か!」

 左手のナイフを放った。

「で、左と!」

 これも払い落とされた。

 をもう一度、振るった。

「……あ?」

 掌から放たれた鋼鉄のは、桔梗紋の男の顔面寸前まで至ったところで、返す掌で払いのけらて、届くことなく地に落ちた。

「――っと?」

 ――だが、それでいい。

 こいつは今ほんの少しだけ、予想外のことに、驚いた。


 先刻見た、犬飼先輩の疾走する姿を脳内にイメージ、それに合わせて四肢を動かした。

 あの美獣のしなやかさ、鋭さ、力強さ、どれをとってもマサトは到底その足元にも及ばない、それでも精一杯に、彼女の動きを思い描き、可能な限り、トレースする。

 最後の一歩、一際大きく踏み込んで。

 ――衝突の際の衝撃は、拍子抜けするほどに、軽いものだった。

 手の届かないよう、6連発を遠くに蹴り飛ばした。

 それを奪って、というのも考えなくはなかったが、マサトはソレの使い方を知らなかった。

「……ははは、こりゃ驚いた」

 横倒しになり、マサトに馬乗りの体勢を取られたまま、桔梗紋の男は笑い声をあげた。

「味な真似をするじゃないか、いつの間に、あんなもんを仕込んでた?」

 横たわったまま、脇に目線をやった。

 その先には、地面に突き刺さった、鋼鉄の針が冷たい光を放っていた。

「……あれは、あれはな、犬飼先輩が、あなたが撃った女の子が、あなたが小馬鹿にした女の子が、ぼくに持たせてくれたんだ」

 犬飼かなめが、苦痛にうめきながら伸ばした手を取った。

 その手が離れたとき、マサトの指先に、あの針は挟まれていた。

「そのときに、犬飼先輩に、頼まれた」

 マサト以外には、決して聞き取れない、掠れがすれの、荒い呼吸の中で、マサトは確かに、その声を聞いていた。

「……わたしにも、そのクソ男を殴らせてください」

 まったく、品のない言い草ではあった、けれど――

「さて、どうするね?」

「そうだな、とりあえず。――動かなくなるまで、殴らせてもらう」

 固めた拳を、大きく、振りかぶって。そして。


 ――そして、そこで、時間が尽きた。


「――ッ…!」

 全身に走る倦怠感。

 つい1秒前まで体に満ちていた活力が、嘘のように抜けてゆく、霧散してゆく。

 入れ替わりにやってきたのは、全身に、鉛の重りを括りつけられたような疲労感と、脱力感。

「はーい、ヒーロータイム終了だぁ」

 桔梗紋の男は、感情のまったくこもらない声でそう言った。

 とん、と、軽く胸を押される。

 ただそれだけで、マサトの体は枯れ木のように、地に伏した。

 口の中がカラカラにかさつく、平衡感覚が、一気に持って行かれた。

 気管は腫れ上がって呼吸を阻害し、急激に不足した血中の酸素は容赦なく両眼の毛細血管を干上がらせ、光を奪った。

 幾度も咳き込んだ、口の中いっぱい、鉄の味と香りとが満ちた。

 顔も髪も泥と砂利に汚れ、身体は震え引きつって。

「〈活性〉をかけてたようだけど、そもそも強化するための生命力が少ないんだ。無理して動き回るから――」

 呻きながら、涎と吐血に塗れてのたうち回る

 苦しい。

 苦しい。

「――だから、そんなことになる。」

 ああ、そうだ。

 これが自分だ。

 これが、これこそが祇代マサトだ。

 自分一人では、呼吸することさえままならない弱者だ。

 今も血を流し、苦痛にいる、犬飼かなめ

 彼女に替わってこの男を殴ってやることもできない。みじめな男だ。

 そうして、混濁の中でマサトはおかしなことに気づく。

 攻撃が来ない。

 足蹴にするでも、さっき放り投げた銃を拾って向けてくるでもなく。

 もう、マサトなどどうする事だってできるであろうに、桔梗紋の男は、ただすぐ傍に立ち、物憂げにマサトを見下ろしていた。

 そうして――

「一体あなたは、どれだけわたしの神経を逆なですれば気が済むのかしら」

 凍てつくような冷たい声を、マサトは聞いた。

 最大限の警戒態勢を取る様に、桔梗紋の男は、跳び退り、距離を取る。

「っはは、おっかないののお出ましだ。…しかしかのんちゃんよ、何だよその恰好は、自慢のメロンちゃんが見る影もないじゃねえかよ!」

 視線の先には、彼とマサトの間に割って入り、マサトを庇いたつ人影があった。

「お巫山戯はそこまでになさい、日向守ひゅうがのかみッ!」

 鋭く叫ぶと共に、射るような視線を彼に向ける、その姿は、

「嵯峨……さん?」

 あれほど、動かないでくれと言ったのに……

 思いながら、マサトは目を疑った。

 どうも、本格的にモノがまともに見えていないらしい。と思う。

 今日初めて知り合った、嵯峨かのんは老婦人である。

 確かに、年の割には、整った、きれいな顔立ちの人では、あった。

 だがそれも、あくまで「年の割には」である。

 身に着けている藤色の着物と、長い白髪から、紛れもなく、嵯峨かのん本人であり、間違えようもない。

 けれど、この人の頬は、――こんなにも瑞々しかったか?

 すっと立つその姿は、――こんなにも、優美な凹凸のラインを描いていたか?

 一文字に結んだその唇は、――こんなにも鮮烈に赤かったか?


 その刹那――


 マサトの眼前に。火柱が上がった。

 それも、ひとつではなく、数世紀も齢経た大樹ほどのものが、瞬時にして、数十。

 舞台ロケーションが、人里を遠く離れた、無人の荒野であったのが、まだ幸いだったのだろう。

 もしもこれが、同じ時刻の市街地、そうでなくても人が集まる場所。それこそ、小一時間前まで寝起きしていた場所でこんなことが起こったら、と思うと、鳥肌が立つ。


 炎が踊る。今沈もうとしている夕日よりも赤い色が、周囲を余さず埋め尽くす。

 太陽が地上に落ちたかのような、火炎地獄が現出する。

「マサトくん、わたしの後ろに」

 どこか苦々しげなものを含んだ声で、嵯峨かのん――なのであろう女性が、マサトを庇って前に出る、翻る紫色の着物の袖が、包むようにマサトを覆った。

「っと!っと!」

 いよいよ頼りなくなった視力を向ける。

 そこでは、桔梗紋の男が……炎の中で舞っていた。

 どこか愉快そうに言いながら、撥ねるように炎の直撃を避け続けながら、冗談めかした口調で、口にする。

「……いけねえなァ、もっとおっかないのまでお出ましになるとは!」

 そうして彼は、嵯峨かのんの肩越しに、マサトを見る

「今日はまあ、ここまでだ。悪いなあ祇代マサト! 退散させてもらうとするわ!」

「……ま……」

 待て。そう言いたかった。けれど、それはかなわなかった、喉が腫れ上がり、まともに声が出ない。

 出せたところで、彼を引き留めることなどどうして叶うだろう。

「ああ、名乗ってなかったな。俺の名前は光秀ミツヒデ――「火神カシン帝國テイコク」の

 付け加えるように、もう一言。

「桔梗の花を見たら、俺を思い出せ。俺はこれからも、あんたの前に現れる。気を付けることだ――」

 それと同時に、新たに爆ぜるように熾った火柱が彼を飲み込んだ。

 薄紙を炎に投じたかのように、溶けるように、その姿は消えた。 

 

 そうして――霞み、滲む視界の中で、マサトは〝それ〟を見る。

 〈それ〉は、空中に浮遊していた。

 年の頃は、せいぜい十になるかどうかの、小柄な人影。

 夕陽を浴びて風にたなびく、黄金色の髪。

 遠目にも判る、幼くも端正な容姿。

 緋色の袴に、純白の上衣。

 背中にあるのは、光り輝く粒子で形成された、奇妙な翼。

 夕日を背後にしているからではなくて、〈それ〉は、自身が眩い光を放っていた。

 まるで、沈もうとしていた太陽に代わり、新たに生まれ出でて、山の端から姿を見せたような、輝きの塊。

 優美で、荘厳な、見る者に凄みを感じさせる、その姿は……


「――月の……神さま?」

 咄嗟に、その単語が、脳裏をよぎる。


 金色をその総身に纏った少女は、高みからその瞳にマサトを見据えると、――にこりと、口角をあげた。


 夕暮れと呼べる時刻は終わり、夕闇が部屋の中を満たそうとしていた。

 部屋の明かりもつけず、ベッドの脇に腰をおろして、膝を抱えて、両腕に顔をうずめて。

 ぼくは、――は、ぽつりと呟いた。

「――うそつき」


第一夜〈カミシロ マサト(interview with king of the DUST)〉

――了


 ――さて。


 これより先は、もう一つの物語。


 斎月くおんと、御剣昴一郎が巡り会う、10年前のできごと。


 ――英雄失格の青年と、

 「全て、すべて、塵芥に還れ!」


 ――地上最強の砲兵と、

 「心得ました、この戦部ユウスケ、貴方の為に戦い、貴方の為に死にましょう」


 ――人類最速の狂化兵士ソルジャーと、

 「風見・南風原・ハルタ、きれいに刈り取るよ!」


 ――美しき狙撃手スナイパーと、

 「わたしは強い方に付くし、勝つ方に味方する。――せいぜいわたしに裏切られないように頑張ってくださいね?」


 ――史上最大の反逆者と、

 「……ツクヨミ様か、現役にお目にかかるのは久しぶりだな、懐かしい!」


 ――■■■■の■■と、

 「大丈夫、わたしがずっと、ずぅっと、いっしょにいるよ」

 

 彼ら、彼女らが、結末に至るまで。


 例え時の流れを遡り、歴史の改ざんを試みたとしても、

 「すでにそうなっている」、以上、必ずそれは失敗する。

 その結末はもう、定まってしまっている。


(――ああ、きっと、あんなことを、望んだりしてはいけなかったのだ。


 かりそめにだって、そんな身の丈にあわないことを心に描くべきではなかったのだ。


 ――どうしてぼくは、深海の魚が光の射す水面を見上げるようにして、ああ、いいなあ、うらやましいなあと思っているだけで満足することが。


 ……たったそれだけのことが、できなかったのだろう。


 まともに動く体が欲しいとか、


 ごく普通の、平凡な人生とやらがほしいとか。


 人の役に、立ってみたいとか。 

 

 そんな大それたこと、もう二度と、決して望まないから。――だから、どうか)


「響き渡れ鐘の音よ、如何なるものも不変ならざることをを謳え。


 聖地神樹のもと、枯れゆくために花は咲く

 

 森羅万象は一睡の夢の如くに消え失せる


 何もかもみな、風に舞い散る塵に等しい


 栄えし者よ、衰えよ。


 猛き者よ、滅び去れ


 ――愛しき人よ、塵と化せ」


「これが、ぼくの――」


「地獄道――」


絶花ぜっか塵芥じんかい王国おうこく


 そこに希望などない そこに救いなどない。

 これは、すべてを喪う物語。

 未だ語られざる、最悪の物語。

 

 題して……そう。


 魔法少女くおん 〝外伝〟


 開演前夜 / イツワリノ偽りのメサイア救世主


 ・ ・ ・ ・ ・


「……魔法で世界を救えるわけないじゃない」

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