第一夜「カミシロ マサト」(Bパート)②
○
左手に握った強弓を、頭上で大きく一回転させた。
その軌跡に沿って、輝く円環が描かれる。
円環からは白い光の粒子が奔流となって降り注ぎ、犬飼かなめの全身を包み込んだ。
それが終わったとき。……そこに立っていたのは、牙をむきしなやかに身構える獣を思わせる、異相の射手。
頭部に――三角形の、大きな耳。
腰に――長い毛足の毛皮に包まれた、大きな尻尾
肩口から背中、腰にかけてを覆うロングコートと、漆黒の毛皮。
顔の左半分に――狼の顔を模した仮面。
――びぃ、ぃぃん。
弓に固く貼られた弦が指先で爪弾かれる澄んだ音色が、鳴り響くと共に、本来そこにあるべきもの、鋭利な鏃を備えた臓抉りの矢が、瞬時にして姿を現していた。
「悪い子のところには、……オオカミが来ますよ?」
怖じる様子すらまるで見せず告げると、彼女は、己が力を振るう高揚と、目前の敵を最短で屠るべき冷徹さの入り混じった表情をその顔に浮かべる。
対する、黒鱗の大蛇は、二股に裂けた舌を揺らし、鋭く呼気を吐きつける。
鎌首を大きくもたげ、臨戦の姿勢を取った。
と、黒鱗に覆われた頭部に、変化が現れる。
蛇の頭部を二等辺三角形に見立てた場合の頂点から底辺への垂直線。
それに沿って、古傷じみた裂け目が生じる。
そこからは金属的な光沢を放つ、鱗と同じ色の三日月型の刃が姿を現れた。
それはジャックナイフのように弧を描いて展開し、巨大な角となる。
「おーおー、やる気じゃないですか、望むところですよ!」
ぎらつく刃を認めると、犬飼かなめが鋭い声で叫び返す。
「アレはね、〈ウィッチ〉というの。……蛇のウィッチだから、〈スネークウィッチ〉というところかしら。一応名前を付けてあげる慣例になっているのだけれど、そういってられる状況でもないわね」
穏やかな声で、嵯峨かのんが語りかける。
「わたし達が何者なのか、アレがどういうモノなのか。……もっとゆっくり知ってほしかったけど……そうもいかなくなってしまったわ、ごめんなさいね」
そして、地上からその光景を呆然と見上げる祇代マサトは、実際ただ只管に困惑していた。
まず、犬飼かなめの〈変身〉。
あれは何だ。まるで子供番組の正義のヒーローではないか。
単に一瞬で衣服が変化するというなら奇術でできないこともないだろうが、目の前で起こったのは、明らかにそれとは違うカテゴリーの出来事である。
そして、相対する〈ウィッチ〉というらしい大蛇の見せた「変形」
昔、古いビデオでみた怪獣映画に、出刃包丁に手足と目と口がついたような怪獣が出てきたが、今目にしている形状はアレに近い。
例えば、海老や蟹、昆虫類は武器や防具を常時身に着けていると言えるだろうし、広義の意味では猫科の猛獣の爪だって、出し入れ可能な武器と位置づけられないこともないだろう。
だが……あんな風に、全体のシルエットまで変貌してしまうサイズの凶器を体内に仕込んでいるというのは、明らかに生態してのバランスを欠いている。
少なくとも、アレは通常の枠組みの生物ではない。
――仮に犬飼かなめが、超人的な弓の使い手であったとして、放つ矢を決して違うことなく命中させることができたとして、あの大蛇を射殺すまでに、一体何本の矢を叩き込まなければならないのだろう?
逆に犬飼の側は、わずかに頭部の大鉈が掠りでもしたら、それでおしまいなのではないか。
そんな風に、マサトには思えた。
犬飼かなめの武器は弓。
大蛇の武器は言わずもがな、頭頂部の巨大な刃。
ごく真っ当に考えるなら、犬飼かなめはまず適切な、大蛇の刃の届かず、矢の速度を保てる距離を維持することを考えねばならず、大蛇は接近し、小さな射手を叩き潰さなければならない。
……そのはずである。
が、弦がいっぱいに引き絞られた、刹那。
そのままの姿勢で、犬飼かなめは一直線に駆け出していた。
「――ガゥァァッ!」
形良い唇からほとばしるのは、獣の咆哮。
獣が疾駆するがごとき、膝が地を擦りそうなほどの前傾姿勢で、駆け抜ける。
それに対する大蛇の反応もまた迅速。
鱗が地を擦る音を立てながら、振りかざしたのは頭部の刃ではなく、その反対側であった。
風船が裂けるような破裂音をもって、先端が音速を超えたことを証明すると共に、鞭のように撓らせた尻尾を、横に払う。
直撃すれば家屋も一打ちで倒壊させかねない一撃はしかし、空しく空を切る。
大蛇のお株を奪うように、疾走する犬飼は振るわれた尻尾のその更に下を掻い潜っていた。
髪の毛一本損なうことなく、頭上を尻尾が通り抜けるのをやり過ごし、犬飼は顔を上げる。
その瞬間、上空から襲い掛かる本命の一撃。振り下ろすように、もたげていた鎌首が叩きつけられた。
空を裂き、降り注ぐ。その姿はまさに生きた大薙刀。
地を揺らす衝撃と、大量の砂塵をまき散らし、巨大な刃はその偉容に違わぬ破壊力を発揮する。――命中さえしていれば。
――もう、その時その場所に犬飼の姿はなく、地を抉り叩き込まれた刃は赤く染まることなく。
射手の姿は、スネークウィッチの胴それ自体を足場として駆け上がり、上空にあった。
束ねて番えられた矢の、鏃に、白い燐光が宿るのを見た。
「ガウァッ!」
吠え声と共に、いっぱいに溜めた弦を、解き放つ。
ざくり。
ざくり。
ざくり。
金属質に輝く鱗を貫く矢音と、苦痛を叫ぶ絶叫が響き渡る。
「―――――――――――ッ!」
頭部のすぐ後ろ、大蛇の首筋に三本の矢が突き立っていた。
大ぶりの鏃は、意図したとおりに肉を抉り、大蛇を砂塵を巻き上げてのた打ち回らせる。
「……さて、と」
地上へと降り立った犬飼かなめは、ぽつりとそれだけを呟いた。
先ほどまでの言動や、アクロバティックな遊戯じみた戦いぶりを見れば軽口のひとつも出そうであった。
不思議と、――夕暮れの薄暗がりに立つ犬飼の貌は、マサトからもはっきりと見えた。
その表情には一切遊びや奇をてらったところがなく。
「――こいつは、あと何本ぶち込めば死ぬのかなあ」
とでも事務的に思案しているような顔だった。
実際、マサトもそれを考えていた。
他に何か最大の切り札と呼びうるものを隠し持っているというならいざ知らず、いくら百発百中の射手が強弓を用いているとしても、「弓矢を使って戦う」と言う事をするのなら、確認しなくてはならないのは、……残りの矢の本数である。
いくら有利に追い詰めていったとしても、先に矢が尽きたらそれで終わりではないのか。
一応弓の両端には近接専用と思しき短刀が括りつけられてはいるが、まさかそちらがメインではないだろう。
先刻は確かにそれこそ魔法のように、何もないところから数本の矢を取り出して見せたが、――それはあと、何本取り出せるのだ。
何しろ彼女は箙を担いでいないのだから。
「……まあ、いいや」
マサトの疑問に答えようとしたわけでもないだろうが、ぽつりと犬飼が呟いていた。
その声音は、ついさっきまでの「冗談好きな女の子」のそれとは思えないほど、底冷えのするもので。
「生き物を殺傷することの職人」の物言いという印象を、マサトに抱かせるものだった。
「……息の根止まるまで、動かなくなるまで打ち込むだけですからね」
軽く手首を振るうと、その指先には、まるで最初からそうであったように、十数本の矢が、再び姿を現していた。
束ねて弓に番えればその鏃尽くに、白い燐光が眩く燃え上がる。
……そうしている間にも、巨大な体躯をのた打ち回らせていた大蛇は、反撃の為に体勢を整えようとしている様子だった。
突き立った矢は、未だその箇所に残ったままで、白い燐光が燃え続けている。矢が撃ち込まれたダメージ自体は残っているようだったが、それで死んでくれそうにも見受けられない。
無機質だった瞳を赤く爛々と輝かせ、未だその巨躯は生命力に満ちている。
単純に、まだ命を奪うには足りていない。殺し切れていない。
そういうことだと、マサトは理解した。
天を仰いで、鋭い呼気を放つ。
喉の下あたり。瞳と同じ、赤黒い光が宿っているのを、見た。
黒鱗の大蛇と、獣の姿の射手は、互いを視線に捉え、無言のまま、猛然と、攻撃を開始した。
○
二足歩行する狼に、弓を持たせたら、こんな動きになるだろうか。
まるで風に舞う、一枚の木の葉のよう。
頭部の刃を、巨大な咢を、音速を超えようかという速度で振り回される尻尾の、その一撃を受け止めれば、小さな射手は粉々になるだろう。
だが、だが――当たらない。
当てさえすれば一打ち、という、その一打ちが、掠めることもままならない。
紙一重のところで、必ず当たるというタイミングで、犬飼の小さな体はそれを擦りぬけるように避け、攻撃が過ぎ去った後の絶対安全圏から、矢を射こんでゆく。
一方で、犬飼の放つその矢は、的確にその巨大な的を捉え続けている。
こちらは逆に「射れば当たる」し「当たった矢は血を流させる」のだが、今のところ、それ止まりだ。
一撃でこの勝負を決するだけの殺傷力を、犬飼かなめは持っていない。
そうとなれば、どちらかがその状況に焦れてくる。
この場合は、犬飼かなめだった。
舌打ちひとつすると、一歩飛び退る。
「大盤振る舞いと行きましょうかッ!」
弓を一度背中に担ぎ、大きく両手を広げた。
それまで必要に応じてダース単位でどこからともなく取り出していた矢が、瞬時にして。今度はその指の間それぞれに現れる。
4×2×12~15。
その総数100本に至ろうかという矢、その全てを、振りかぶり、真上へと投擲する。
単に放り投げただけ――では、当然ない。
宙に舞った矢群は、そのまま再び落下することなく。
慣性の法則も、万有引力も、無きがごときに散会し、宙に浮遊し、鏃を前方へと向けて、空を飾った。
再び犬飼の手に、強弓が戻る。
スネークウィッチはと言えば、身を縮め頭を下げて、様子を伺うようにそれをねめつけていた。
だが、それがいけなかった。その動作を完了させてはいけなかった。
「ウゥゥゥゥ――」
犬飼が、今度こそ本当に矢を持たず、左手の弓だけを構えて、矢を引き、番え、引き絞り、――鳴弦の音が、響く。
それと同時に、――天から、矢が降り注いだ。
「なっ……!」
見ているだけのマサトも、驚愕の声を上げていた。
一体どういう技術によるものなのか、常人たる身には想像もつかないが――
射る、射る、射る、射る、乱れ射る。
幾度も、弓を引き、矢に番え、引き絞り、放つ。
その動作を繰り返すたびに、天空を飾る無数の矢群全てがそれぞれ、全く同じ射手によるとしか思えぬ精密さと威力で、滝のように――膨大な数の矢が、怒涛のごとく降り注ぐ。
その矢の全てを回避するには、スネークウィッチの巨躯は大きすぎ、刃で受けるには刃が小さかった。
総身をヤマアラシのように変えられながら、大蛇の怪異は身をよじらせる。
取り分け、片側の瞳に突き立った一矢は、一際大きく彼女をのた打ち回らせた。
対応のしようがない。
先ほどまではまだ、視線の方向。重心の移動、身構える体の向き。
そう言ったもので、矢の狙う場所、射定める箇所を予想し、急所を隠し、或いは先手を打って牙を、頭部の刃を叩き込まんと狙うことができた。
だがこの流星群のごとき矢の圧倒的な蹂躙の前で、そんな小細工が何になるだろう。
一対一でさえやや分が悪かった犬飼かなめが、突如数十人の、犬飼かなめの大軍となったのに等しいのだ。
降り注がせ続ける鏃の豪雨が止む。
犬飼が天へ投げた矢のすべてを放ち切ったのだ。
「ウォォォォンッ!」
間髪をいれず、咆哮と共に、突進する。
振りかざすは強弓、その両端の刃。その刃にもまた、鏃と同じ白い燐光が燃えるように宿る。
一気に勝負をかける気か。
――刹那、マサトは叫んでいた。
「……危ないぞ犬飼先輩!伏せろ!」
「……んぁっ?」
何度か聞いた、軽口じみた声が、かなめの唇から洩れる。
意図した処は、伝わっていた。
加速状態にあった犬飼は急制動をかけ、後ろへと一度跳び退る。
そして、もしもそうしていなければ、犬飼かなめの上半身と下半身は別々になっていた。
――
その先端が、刃を吐き出していた。
「……っとっと!」
その切っ先は、全力で突進を仕掛けていた犬飼かなめを、捉えていた。
顔の半面を覆っていた、黒い、狼の顔を模した仮面が、撥ね飛んだ。
その下の、素の貌に、赤い線が走った。
「――痛ッ……!」
犬飼の口からも、くぐもった声が漏れる。
「大丈夫か、犬飼先輩!」
とっさに、マサトはそう叫んでいた。
呼びかけた先、犬飼かなめは、傷を手で庇うこともせず、ちらとマサトの方を見た。
その眼光には、苦痛や恐怖ではなく、辱めを受けたことに対する憤りのようなものが宿っていて、
「そんな目でわたしを見るんじゃない」
とでも言いたそうな目を、マサトと、そしてもう一人に向けていた。
「何をしているの、かなめさん!」
その時まで、無言のまま、マサトの隣で犬飼の戦いを見守っていた嵯峨かのんの、その口から、鋭い声が飛んでいた。
「そういう雑な戦いをしているから、そんなものを頂戴するのよ、あなたには、もっと臆病になりなさいと何度も言ったでしょう! 毒でももらっていたらどうするつもりなの!」
随分と、手厳しい言葉であった。
一応女の子ではあるし、顔だし、マサトとしては手負いの相手には優しくしてあげた方がと思ったが、それは口には出せなかった。
言われた犬飼は、と言えば、顔を赤く染めていた。
顔に走った痛々しい裂傷と出血によるものではない。
元々色白だった顔が、憤りと、羞恥とで、紅潮していた。――ように見えた。
それもわずかの事、マサトとしてはこれにも目を見張ったのだが、傷口が、瞬く間に姿を消してゆく。癒えてゆく。
手の甲でぐいと血を拭ったときには、その顔はもう、真新しいなめらかな皮膚に覆われ、かさぶたがぽろぽろと崩れ落ちていた。
また――マサトがそれを目にしている間に、スネークウィッチにも、変化が表れていた。
頭部には、それまで同様の巨大な片刃の刃。尻尾に、それと対照的な、槍の穂先のような直刃の長剣。
それに加え、頭部の下。胴体部分に穿たれた矢傷から、新たな、節くれだって、鱗と同じ色の甲殻に覆われそれぞれ先端には鋭利な爪を備えた、蟹や蝦のような肢が、数十本、首から順に、生じていた。
「…変異が始まったようね、時間をかけると厄介よ、かなめさん」
マサトの傍に立つ嵯峨かのんが、そう告げた。
そうして――姿を変えた敵手を前に、再び犬飼かなめは左手に矢を構える。
「――ウゥゥゥゥゥ」
先ほどのように、大量の矢を一気に取出し、構えるのではなく、ただ一本の矢を。
当たり前の弓使いが、当たり前に弓矢を扱うようにして、射法の八節それぞれを踏んで――射た。
目で追うのさえ至難な速度で、放たれた矢は標的を真っ向から捉え――
出刃包丁のよう、と印象を抱かせた刃が、根元から砕け、折れ飛んでいた。
「かのん様――これでよろしいですか?」
○
「ごめんなさいね、才能は人一倍ある子なのだけど、稽古が嫌いで、ああやって死なない体と獣の目鼻に頼りきりの不格好な戦いをするから……」
眉をひそめ、どこか言い訳するような口調で、嵯峨かのんはマサトに告げた。
「いつか足元を掬われるわよと、何度もそう言っているのだけど」
死なない、体?
何の気なしに口にしたように聞こえたそのフレーズは、どこか、マサトの神経を逆撫でした。
「不死身なんてありえない」
だから、そう呟いていた。
「……まだ死んでいないだけ、でしょう?」
生き物は、いつか死ぬ。
寿命が数十年数百年というスパンの生き物もいれば、数分で生を終える微生物もいる。
人間に限ったところで、老人と呼べる齢まで長らえる嵯峨かのんも、長くてあと数年という祇代マサトもいるというだけのことだ。
「……そう、そうね。――わたしも、そう思うわ」
重い口調で、嵯峨かのんは、そう答える。
そして、その短いやり取りを経て。
目に見えて犬飼かなめの動きが、変わった。
もう油断はない、一切の出し惜しみもない。
さっきのような大技を繰り出すことさえしなくなったが、その一矢一矢それぞれが、先刻までとは比べ物にならない威力を発揮していた。
スネークウィッチは、マサトから見ても、必死に戦っていたと思う。
だが、犬飼かなめの戦闘能力は、それすらさらに凌駕していた。
頭部の刃は砕かれた。だが即座に、サメの歯のように新しいものを装填した。だがそれも次の矢で砕かれた。
尻尾の長剣も。胴体の側面から生じさせた節足も。どれも。
犬飼の放つ矢、一矢で尽く砕かれる。
再生を試みる端から、それを上回る速度で破壊されてゆく。
焦らず、適切に能力を発揮すれば、これほどまでに犬飼かなめは強いのか。
嵯峨かのんが、出来の悪い練習生に指導するコーチのような口調で告げる。
「――かなめさん、呪いが怖いわ、半殺しは絶対に駄目よ。この場で確実に仕留めなさい。よろしくて?」
「……わかってます」
短く答えると共に、今度は雄叫びすらなしに、犬飼は地を這うような低い姿勢で駆ける。
スネークウィッチは、もう一度、尻尾を振るい、射手を迎撃せんとする。
だが、一度はその胴を両断しようとしたそのしっぽには、もう、刃がない。
「グルァァァァァ!」
吠え声と共に、弓を一度振るう。
両端に備えられた刃が、白い燐光を纏い、打ちつけられる尻尾を二つに裂いた。
全ての迎撃を掻い潜り、頭部の、すぐ下へと、到達した。
無防備な、その下顎を、――蹴り上げる。
右、左、右、左。
しなやかで優美な肉付きの両脚を交互に叩き込み、その長大な体の前半部分を、頭部を頂に、蹴りあげてゆく。
下を向き、射手を噛み砕こうと開いた顎に、まともにそれを受けた。
たまらず、呼吸の為に上を向いた。
犬飼かなめの鏃は、もう、そこに……喉の下の、赤い光点に狙いを定めていた。
構え、番え、引き絞り、――放つ。
断末魔の叫びは上がらなかった。蛇には、声帯がない。
びりびりと鼓膜を震わせるほどの呼吸音を、断末魔として。
犬飼かなめが、渾身の力で放った矢は、スネークウィッチを、射殺していた。
スネークウィッチの全身を、白い燐光が包み込み。燃やし、焼き、焦がし尽くして、真っ白な一固まりの灰塵と変え尽くすのは、あっけない程短い時間だった。
○
「かのんさまー、何かおかしくないですかこれ」
ぶすぶすと煙を上げ、燃え尽きたスネークウィッチが、完全に燃え尽きたのを確かめながら、犬飼かなめが愚痴っぽく言った。
「何かおかしいではないでしょう、どういうつもりなのあの不格好な戦い方は。ありとあらゆる状況を想定しなさいと」
ぼやくように口にする犬飼かなめに、嵯峨さんの叱責が雨あられと降り注いでいた。
あれほどの強さを見せた「犬飼先輩」が、彼女にかかると祖母に叱られた悪童のように居心地悪そうなのが、マサトには妙に可笑しかった。
「だって……だってほら、そこの彼」
口ごもりながらも、犬飼かなめは弓の先でマサトを指しながら、
「――体弱いんでしょ?」
という。
「だったら、早くあったかいところに連れてってあげないと、風邪ひいちゃうじゃないですか」
つまりは、…あんな勝負を急ぐような戦い方をしていたのは、その為か。
――優しいじゃないか、犬飼先輩。
「マサトくんを言い訳に使わないの」
「いや、そもそもわたしが言いたいのはね、こんなところに大物がいるってのもそうなんですけど。
「けど、何?」
「かのんさまにわたしまでついてて、こんな真っ正面から仕掛けて来ますかね?」
そんな、魔法つかいと、おそらく魔法つかいであろう老婦人のやり取りを横目に見ながら、マサトはぼんやりとあたりを眺めていた。
「だって、――勝てるわけないって、判りそうなもんじゃないですか」
してみると、このウィッチという生命体は、自分の為に、犬飼かなめに殺されたのか。
少し申し訳ない気が、しないでもない。
「何だかまるで、何かから逃げていて、たまたまその進行方向にわたし達がいたみたいな……」
ああ、そう言えば、車がなくなったけど、ここからどうすればいいのだろう。
と、考えていたマサトのすぐ脇に
「若様(・・)」
気付けば、短くそう彼を呼んだ犬飼かなめがいて、
「伏せて!」
叫ぶと共に、軽く胸をつかれ、横倒しに倒れ込んだ
何をするんだ、と、抗議の声を上げるよりも早く。
――ぱんっ。
――ぱん、ぱぁん。
その音は、3度響いた。
初めて、テレビや映画ではなく、現実に、間近に耳にしたその音は、思ったよりもずっと空々しく、現実感がなかった。
それによって何が起こったのか、直後に起こった出来事によって、マサトは知る。
犬飼かなめの体が、ぐらりと揺らいだ。
白いブラウスが、赤く染まった。
「う、ぁ」
「――うああああああああああああっ!!」
打ち込まれた数発の弾丸は、先刻の大蛇がついに彼女に上げさせることができなかった、悲痛な叫び声を、彼女の口から迸らせていた。
「犬飼――先輩ッ!」
犬飼かなめを、誰かが、おそらくは銃火器で狙い撃った。
先ほどまで彼女と戦っていた、人外の怪物とは、明らかに異なる。
明らかに、悪意を持って、〈人間〉によって、攻撃されている。
少なくとも、この状態は、まずい。
周囲はだだっ広い荒れ野が続き、身を隠すものと言えば何もない。
横倒しのまま、もう一人の同行者を、嵯峨かのんの姿を目で探す。
視線の先、そこにはすっと立ち、静かに告げる彼女がいた。
「――いるのは判っています、出ていらっしゃい」
――ゆらり、と。
沈みゆく夕陽を背に、灰色のロングコートを羽織った、総髪の男がひとり、歩み出る。
手には、白い手袋。甲の部分に、桔梗の花――だろうか。紫色の花弁を図案にしたような紋様が染め抜かれていた。
片手で下げた拳銃の銃口からは、まだ紫煙が漂っていた。
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