第一夜「カミシロ マサト」(Aパート)①

 その日も、おおよそいつもと別段変わらない日であった。

 だいたいが、祇代マサトの毎日と言うのは、

「辛い日」「非常に辛い日」「己は生まれてこなかった方がマシだったと思う日」

 の三種類しかないのである。

 その日は「辛い日」で納まる範疇であったから、まずは大分マシな部類であった。

 夕暮れの時刻、いつもと同じように、2人で本を読んだり、窓の外を眺めたりしていた。

 数日前までマサトは例によって高熱を出して寝込んでおり、一昨日に意識が戻るまで、意識のあるのは一日に数時間あるかどうかという状態だった。

 この部屋ではなく医務室に缶詰めとなって治療をうけており、当然のように面会謝絶。

 どうやら峠を越したらしいと言うのがつい昨日。

 今日の朝方ようやく勝手知ったる己の部屋に戻って、数日ぶりの対面というわけだ。

「……もう、起きててもいいの?」

「うん、まあね」

「よかった」

「何だ、心配したの?」

 混ぜっ返すように問うてみれば、

「心配……うん、したよ」

 と、返される。案外と素直である。

「あなたがいなくなっちゃったら、もう戻ってこなかったらどうしようって、怖かったよ。悲しかったよ」

 つっかえつっかえではあったけど、そんな風に、いう。

「……ほら、兄さん、だし」

 最後の方は、照れくさいのか、消え入りそうになりながらも、そこまでを口にする。

「……ふう……ん」

 少し考えて、応える。

「心配かけて悪かったね、でも、もう大丈夫だから、それに」

 「それに」――からはじまる言葉は、口に出さずに飲み込んだ。

 こんなのは、別に今に始まった話ではないし。 

 これからも、何度も起こるのだろうし。

 そして、いつかぼくがこの部屋からふっといなくなる。そのまま二度と帰らない。――そんな日は、必ずやって来るのだし。

 だから、お互い過度の干渉は避けるのが、この居心地の悪くない関係を保つのに不可欠だと、マサトは判っている。

 たぶん、男の子もそう思っている。

 〈兄〉〈弟〉と呼び合ってはいるが、所詮は――そう、ごっこ遊びだ。

 実際知っているのはせいぜい本の好み程度で。それ以上の、お互いの事情に関することは知らないし、聞こうとも思わない。

 それほどやったことがないけど、パソコン通信の向こうの同好の相手というやつとそれほど変わらないのだ。

 どこの誰だか知らないが、話しているとふしぎに塞いでいた気が晴れる。ある日突然返事が来なくなったり、更新が途絶えたりする。ああそうかと思う。その程度でいいのである。

 何を話すときも、マサトはけして男の子の言う事を否定しなかった。

 まず一度は「そうだね」と肯定の返事で返した。

 「兄さん」とはそういうものだと思っていた。

 養子だの里子だのを探す外のひと達が訪れたときに、

「お父さんやお母さんが懐かしくなることはないか」

 と尋ねられて、

「そんなの覚えてない、どうして懐かしいなんて思えるんだ」

 と答えた、という話を聞かされた時だって、

 ――「そういうことを言うから君は嫌われるのだ」

 と思わないではなかったが、その時だってマサトは「そうだね」と言ってから。

「次からは、時々さびしくて泣きそうになる、とでも答えておくと良いよ」

 と、助言みたいなことすら言ったのである。

 実際、実の両親を覚えていないというのは、マサトもなのだけど。

 ろくにベッドから起きることもままならない「兄」にできることは、その程度だ。

 まったくもって、サマにならない。


 ふと、最初にこの子と出会った時の、我ながらあまり趣味の良いとは言えない冗談を思い出す。

「この部屋に住み着いている幽霊さ」

 この子と一緒に過ごす時間を設けるようになって、柄にもなく思うようになった。 

 この部屋で、空気の底みたいな場所で、生きたまま溺れ死んでいるような思いでこれまでずっと来たけれど、それはやっぱり、そういう気になっていただけで。


 ――自分は生きてる、まだ生きている。


 良い意味でも、悪い意味でも。

 誰が言ったかしらないが、「われ思うゆえにわれあり」だ。

 こうして考えていられるということは、まだ、本当に死んではいないと言う事である。

 霊魂の不滅なんて信じていない。

 ……死んだあとまでも自分が残るだなんて、死んでしまうことそのものよりもよほど恐ろしい。

 それは、生きてる限りついて回るこの苦痛が、それこそ永遠に続くと言う事、だ。

 この国の男性の平均寿命は70以上らしいが、20歳がメドだという人間もここにいて、とっくに折り返しを過ぎている。

 どうやら余命とか余生と呼ぶのがふさわしそうな残りの寿命で、自分を兄と呼ぶ少年に、遺してやれるものとてない。

 自分が生きた証と呼べるもの、みたいなものが何もない。

 己は最初から亡霊と同じなのだ、生きてさえいないのだ、と儚んでいられたなら、そういうものだ、仕方がない……と、諦観もできた。

 けれど――それはやっぱり現実逃避の妄想で、我に返ってしまえば、ただの一人の、惨めな人間が残るだけで、自分はまだちゃんと生きていて、にもかかわらず、となると、全く違う意味合いでその事実が圧し掛かってくる。


 ――結局、祇代マサトは、塵芥なのである。


 ――ああ、ええと、まあいい。

 気鬱をむりやり払いのけて、マサトは顔を横へやった。

 さて、今日は、何を読んでいるのかな。と思いながら、少年の手にしている本に目を向けた。

 「月の神さまと金色の炎」

 少し前、体調の良い時に、彼が気に入るかと思って見繕ってきた中の一冊である。

 確か、どこかの神話を題材にした、たった一人で、か弱き人間たちを守るために立ち向かった、やさしい、きれいな、月の神様が主人公の絵物語だ。

 どうやら眼鏡に適ったらしく、少年は熱心にページに目を落としている。

「――ねえ」

「ん?」

 本の挿絵の、黒髪をたなびかせ、剣を手にした月の神さまに視線を注いだまま少年がマサトに声をかけた。

「にいさん、……これ……さいご、どうなるの?」

「ああ、――たしか…」

 絵本の結末を口にしようとして、マサトは口をつぐんだ。

「……いや、もう後少しだろ? 自分で読んだ方がいいよ」

「でも……」

 ああ、確か、きれいではあっても、どちらかと言えば明るい話ではなかったな。

 ――かわいらしい少女の姿をした、月の神さまは、何度も傷を負い、血を流し、嘲られ、守ろうとしたヒトに裏切られて、それでもたったひとり、戦いを続けるのだ。

 そして、ボロボロになった月の神さまを、最後に待っていたのは――

「月の神さまは、どうしてこんなことをしたのかな」

 ぽつりと、男の子が問いかける。

 懸命に、幼いなりに知恵を絞って、それでも答えが見つからないというのが伝わってくる声だった。

「かわいそうだ」

 答えに窮する。……「月の神さま」は、物語の中の英雄だ。

 いくらでも強く、いくらでも気高く描けるだろう。

 お話の中でだから、世界を救う事だって、ヒトを正しい、よい方向に導く事だって、できるだろう。

 それはファンタジーであり、フィクションであり、けして現実ではないのだから。

 現実ではないから、「月の神さま」は、性根が腐った祇代マサトからすれば、舌打ちしたくなるほどに美しく、正しい存在だ。

 本当に、最大級に心が膿みきって、煮詰まっていた時に読んだ日には、


 世界を守る? 人類を救う?

 ああ良かったですね。

 ぼくを生きさせない世界だろう?

 ぼくとは違うひと達だろう? 

 どうしてそんな酷いことをするんですか、やめてください。


 ――くらいの事だって、祇代マサトは思ったのである。 今はそこまで思わないけど。

 世界を守ってくれる英雄とか、人を幸せに、正しく生きさせてくれる救世主とか、そういう特別なものは、やっぱりいないよりはいてくれた方がずっといいだろう。 

 そんな、特別な存在の考えることが、祇代マサトに判るわけがない。

 それでも、それでも今あえて、「こうなのではないか」という、思い浮かぶことを言葉にするのなら。

「きっと、それが、神さまの一番やりたいことだったんだんじゃないかな」

「やりたい、こと?」

「ああ、きっと、月の神さまは、心の底から、そうしたかったんだ」

 そうしなければ、いられない。と思うようなコト。

 他の何と引き換えにしても惜しくない、と信じられるようなコト。

 彼女の戦いは彼女自身にとって、己の奥底から突き動かされるような、それだけのものだった。

 だから、最後まで戦えた。

「じゃあ、――月の神さまは、幸せだったのかな」

「せめて――せめて、そうであったら、いいな」

 柄にもない、希望的観測である。

 彼女の浴びた悪意、彼女の味わった悲嘆。最後の最後に彼女の手にしたものは、それに見合うだけのものだったのだろうか。

 それは判らないけれど。

 正解を探しながら喋る様に、そう口にしたマサトに、重ねて問いがぶつけられる。

「……にいさんの、一番したいことは、なんですか」

「……わからない、な」

 弟よ、それはちょっと、ぼくにとっては残酷な質問だよ。と、マサトは思った。

 手にしたいものとか、辿りつきたい場所とか、かくありたい姿とか。

 自分にとっては、それは芽生えた瞬間、同時に「それは不可能である」という答えがついてくるものなのだから。

 望むものは、けして手に入らない。

「……ああ、特にないな、何もないな」

「本当にそうですか」

「本当だよ」

「嘘じゃないですか」

 随分食い下がるじゃないか、兄弟よ。

「ぼくには、にいさんが嘘をついてるように見える」

「ぼくは、きみには嘘を言わないよ」

 兄というのは、弟にそういう姿を見せるべきものじゃない、という意識が働いて。

 涙を流すように、そう答えた。

「――そうですか」

「どうして、そんなことを聞くんだ?」

「ぼくが叶えてあげられたらいいのに、って、思って」

 つまらなそうに、男の子は小さな声でそう答える。

 ああ、――ならばやっぱり、ないということでいい。

 祇代マサトが願いを持つということが、意味を持つことはない。

 それこそ、魔法つかいでもない限りは。


 りんと、ドアベルが鳴った。ついで廊下側から、

「マサト、少しいいかな」と言う声が入り込んで。

「どうぞ」

 と答えると

 ドアが開き、数人の大人たちが部屋に足を踏み入れる。

「起きれるか?」

 と言ったのは、元はここの保護児童だったらしい、気の優しい職員の一人。

「……少し、来てもらえるかな」

 言いづらそうに口にしたのは、いかにも人のよさそうな、以前は医師だったという施設長。

「君に、逢いたいという人が来てる」

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