第5話
慣れた感覚で舞い降りた世界は二〇二九年三月三日。今度は一ヶ月後の未来にやって来たらしい。場所は見慣れた自室のベッドの上、早朝起きたばかりで酷い寝癖が上目に分かる。そう言えば時空を移動して以来睡魔が形を潜めているが、記憶以外の身体条件は全てリセットされるという認識で良いのだろうか。刺し合いになろうと勝利すれば無傷に終わるのか。
出社時刻まで余裕があるのでスーツに着替えて資料を確かめる。元の世界と時間的に近いので上手く人生をリスタート出来るかもしれない。社内の変わり具合は現地で確かめるとして、玄関を飛び出し労働への舵を切った。
「おはようございます。ルメル先輩」嘗ては社内でもルメルちゃん呼びで揶揄っていたが、どんな関係性か読めないので無難な調子で肩を叩く。パソコンと相対していた女は目を丸くして私から一歩退いた。
「……あの、どなた?」彼女からは予想の付かない反応が訪れる。「粕阜響ですが」低確率で顕現した冗談かと思い騙されてみるが頭上の疑問符が消えないので、どうやら本当に私を覚えていないらしい。
「私ってここの社員ですよね?」もしやと思い別の男性上司に私の存在意義と社員証の真偽を尋ねると、ハァという違和感と共に何年ここで働いているつもりだよという返事を得た。働き過ぎて頭が可笑しくなったのかと心配されるが、頭が可笑しくなったので働き方を忘れたと言う方が適切だ。彼女の机の位置から察するに、これはルメルが異動しないパターンの世界だろう。異なるチーム同士で交流する機会は忘年会しか無いので認知の欠ける社員が居て不思議は無い。元の世界と運命を違えたのは純粋な時空間移動によるものか、過去に殺人を繰り返した罰なのか。未だにこの物理世界には謎が山積している。
忙しそうに書類を作成するルメルに挨拶以上の弾丸は撃てず、無断で帰宅するのは流石に危ないと踏んで会社に居続ける。仕事の進み具合に焦る心情を何とか隠して失敗によるルメルの好感度悪化は避けた。仕事を終えたら「お疲れ様です」とだけ呆ける彼女に伝えて帰路を往く。
道中、怪しげな二人組が目の前に立ちはだかった。制帽とマスク、コートと全身黒に統一した高身長の男と、多彩なバンダナやスカーフ等で肌を厚く覆う中背の女が態とらしくこちらを窺う。逃げれば背後から刺されそうな奇異な姿にゆっくり近付く。
「よぉ粕阜響。お前の事情は知っている」文脈が無ければ通報する場面でハァと相槌し、先程のルメルの気分が再現される。
「オレは全世界を監視する警察官。世界の理を全て把握している」通報する必要無く来てくれた警官は不審な発言を繰り出すが、今更何が起ころうと誰が来ようと不思議は無いので一応相手にする。
「私のタイムトラベルをご存じで?」
「解説しよう。それは正確には時間旅行ではない。この世界の時間概念は二つ存在する。一つは一般に理解されている同一世界を不可逆的に流れる『水平時間』で、もう一つは二点の水平時刻を貫通する『垂直時間』。各時間と共存する空間を水平世界、垂直世界と言い、水平世界は第一から第七まで七つ存在する。お前が体験したのは異なる水平世界間を移動する垂直移動であり、時間に加え空間も異としている」隣の女を余所に置いて捲し立てる。
「お前が初めに生まれたのは第一水平世界、垂直移動する間に漂っていた場所は垂直世界。垂直世界はどの垂直移動においても共通で一般人は微意識に飲まれる。垂直移動の契機は察しの通り人を殺すこと。故意に誰かの心臓を止めた者は今居る水平世界の次の水平世界に移動し、第七水平世界で垂直移動すると第一水平世界に戻る。自然死や不慮の事故では垂直移動は起こらない」突拍子も無い話だがこれまでの経験から肯定出来る箇所はある。翔子の落下を見過ごさない程には正確なルールが機能しているらしい。
「垂直移動すると身体は移動先の水平時刻に更新され、記憶のみを引き継いだ状態で覚醒する。各水平世界には同一人物が必ず生まれる、つまりお前も七つの命があった訳だけど、垂直移動した時点で更新前の人格は消滅する」第五世界に居る私は四人のあり得た自分を亡くしたらしいが特に後悔は無かった。それより今の私を翻弄する世界の在り方について問いたい。
「何の為にそんなルールがあるのですか」
「それは神のみぞ知る所だけど、一説には同一水平世界では刑務所行きの人殺しを更生させる為ではないかと言われている。誰だって自分の居場所が変われば冷静になるから。殺人自体を不可とするのは医学的なグレーゾーンが生まれるので難しかったのだろう。あとは滅多に無い行為を契機として一部の人類にロマンを与えたという説もある」説を唱えるような仲間が居るのかと疑うが殺人犯は腐る程居るのでそこから知性を借りたのか。確かに一旦は自我を戻したが、その後の私や芽河がそうしたように被害を広げる可能性は考えなかったのだろうか。随分と更生保護に偏った設計に、腑に落ちない点は多々あるが深入りは止めた。
「各水平世界は全くの独立ではなく垂直世界を通した影響、即ち垂直作用を受ける。例えば二一○○年の第四水平世界で巨大地震が起これば、他の水平世界の未来に余震が及ぶ可能性がある。垂直作用は過去から未来に向けてのみ起こり人の垂直移動の影響を含む。垂直移動の方法は人類共通、一周を終えれば自由に時刻を選べるので次にお前が落ちる場所は三年後の第六水平世界、その次は八年後の第七水平世界、更にその次は第一水平世界の任意の時点となる。垂直作用のお蔭で各水平世界の自然環境や社会関係は大小の違いがある」とは言え異なるのは身近な人間関係くらいでどの水平世界もほぼ同じ文明を開いている。
「何を努力しようと人類の辿る道は然して変わらないのですね」仮に私に夢があってそれが叶わない世界を見ても尚、努力を続けるだろうか。夢も希望も無いからこそ冷静で居られるのかもしれない。
「以上の規律は一般には認知されていない。垂直移動した者が周囲に伝えようと都市伝説に終わるだけだ」皆が垂直移動すれば世界が不安定化するので、殺人犯の立場でもブルー・オーシャンを謳歌する方が安定なのだろう。
「第一水平世界について聞きたいことがありまして」私の知らないルメルの過去を尋ねようとして「芽河と八重露の話か?」彼女は心を読んだように答える。
「警察は水平世界、垂直世界のあらゆる現象を認知している。お前が誰と遊び何を食べてきたのかまで自動的に記憶している。オレの中のアカシックレコードによれば、第一水平世界では芽河という女は八重露に出会っていなかった」私が長年を費やした人生行路に芽河の影が差す不安は払拭された。二人の関係は第二水平世界における一度切りの過ちなのか、他の水平世界における私達の関係はどうなるのか気になるが、警察への恋愛相談は不毛に思えた。
「で、この女性は何者です?」片割れに指を向けると「……画Amノ十」応じる声はノイズ混じりで聞き取れず、「コイツの名前はスアバリ。お前と逆で死ぬと垂直移動出来るらしい。何千年も時間を観察してきたがこんな人種が存在したとはな」世界の規律が乱れているのかもしれない、と追加しながらもう一人が通訳してくれた。私が彼女を殺せば能率良く垂直移動出来ると考えたが、蟲のような眼には合意の隙が伺えない。
「彼女は不死身ということですか?」
「期限限定だけどな。一周目に死に戻りを自覚したのはお前と同様だが、死んだ後の世界に甦るのは不可能、つまり二周目以降は未来への垂直移動が出来ないことを悟ったらしい」二人の会話の術は置いといて、そうなると彼女はただ過去に縋って生きる他無く、他人より数倍長い人生を送る享楽しかない訳だ。未来の絶えた窮途末路に気付くことさえ怪しい女性に細やかな同情を寄せた。
「あなたは何故私の元へ来たのですか?」
「八重露が危ない。このままだと全ての水平世界で彼女の命が潰える。誰かの死はその周辺の精神エネルギーに多大な影響を及ぼす為、全水平世界で同一人物が故意に死ぬと世界全体が不安定化し、お前やスアバリの垂直移動も機能しないかもしれない。当初の世界史には予定されなかった現象だが」その答えに遅過ぎる悪寒が走った。
「……私のせいですかね」第一水平世界の思い出を振り返ると黒服は無言で眺める。あの場面も私は矛を収めるのが予定調和だったようだ。
「何よりの悪は芽河だ。第五以降の八重露が殺られないようにまずは芽河を始末しろ。お前だって八重露を守りたいだろう?」その言葉に慌てて例の番号に掛ければ、私の認知が取れたので第四水平世界での標的殺害は果たしたらしい。「今忙しいんだよ。全然見つからないぞクソ」仕事終わりに寄り道でもしているのか、ルメルの捜索に苦労する芽河。
「私も手伝うから居場所を教えて」そうして強引に彼女の元へ駆け寄り、待ち合わせた先で芽河を殺した。諸悪の根源は、この世界の彼女だけでも救いたかった。
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