第3話

 覚醒と同時に日付を確かめると二〇二六年十月十四日、初めの世界の二年前にやって来た。察するに人を殺すと時空間を移動出来るのか、それとも壮大な夢を見ているのか。まだ後者の可能性は捨て切れない。

 二十七歳の私が居座るのは騒がしい飲み屋のカウンター席で、これには覚えがあった。右には三人目のルメルと奥に二人の若い男性、左には一人の脂ぎったおじさんが映る。確かルメルが転属されて一週間後、私の企画チームと上司数名が初めて飲みに行った回だ。この五人以外にも別の席で同僚達が酔っ払っているはずだ。

「店員さぁん、もう一杯!」店の広さに比して席同士の間隔が短く、この窮屈さで暴れる気は起らず殺人衝動は失せてしまった。大人しく目の前の活造りを掬って食べる。嘗て味わった鮃の筋肉が口の中で蕩ける。

「響さん、もっと飲もうよぉ」アルコールの入ったルメルは仕事中には鋭利に伸びる目尻を溶かし、私の肩に寄り掛かる。昔の私なら目下の胸元に心臓を急かせただろうが今は至って平静だ。

「……これ以上飲むと今日の思い出が消えそうなので」手元の酒瓶を見ながら適当な事を言って酔いを回避する。確か二年前も同じような答えを返したが、思考パターンを替えた方が未来は明るいだろうかと考える。

「ちぇー」不貞腐れる彼女にオレンジジュースの注文を伝えて誤魔化す。流石に上司の驕りだろうし仮にまたタイムトラベルすればこの世界に後腐れは無いので、好きなだけ高級料理を頼んでやろうと思い付く。左の中年の表情がどう変わるか楽しみだが、「この前の取引先がさぁ」ルメルが仕事の愚痴を飛ばす内に悪意は薄れていった。物の見事に気の抜けた彼女を拝めるのは貴重なので静かに様子を見よう。

「ねぇ悩み事を聞いてくれる?」取引先の頭皮を扱下したかと思えば甘えた声を出す彼女を、断る理由は無いのでウンと頷く。

「あたし付き合っている子が居るんだけどさ」聞き覚えの無い告白に驚く場面だろうが何となく察しは付いた。

「最近彼女の束縛癖が酷いからもう別れようと提案したの。そうしたら『絶対に別れない』と言って脚にしがみついて離れないんだよ。仕方ないからその場は謝って誤魔化したけど、それ以来毎日定時に玄関先に現れるようになった」証言を聞いて当事者のイメージは堅実となったが、足元の癌細胞を宥め続けるルメルの精神こそ驚嘆に値する。

「何故そんな人と付き合い始めたのですか」胸の痛む質問を投げてみる。

「昔は純粋無垢な子だと思っていたけど裏目に出たみたい。忙しくて中々構ってあげられないし、あたしの性格からして切り捨てることも出来ない。困った状況なの」私にも同じ不平を抱いていたとしたら虚無感に拍車が掛かる。何もかも背負いたがる体質は破滅の道しか開いていないと、この時から教授すべきだったのかもしれない。

「響さんは恋人居ないの?」間を空けて彼女が問う。

「……昔は居ましたね」事実を伝えれば文法ミスを果たすので適当に答える。彼女はふぅんと首を傾けてハイボールを補給する。ここで適切な選択肢を見出せれば第三の人生に明かりが灯るかもしれないが、気の利いた言葉は何処かに置いて来てしまった。

「粕阜君、おれなら空いているぜぇ」左のおっさんが右腕の横槍を伸ばすので大胆に仰け反る。一時の躁病を除いて滅多に気を立てない私に近寄る男は元より一定数居た。

「こら課長、嫌がっているじゃないですか。止めないと社長に伝えますよ」制止する彼女を見て、あぁこういう所が好きになったんだよなと思い出す。慌てる中年を対岸の火事に、奥の男子達は彼女の肌に分かりやすい視線を向ける。有能ながら居丈高でない態度が若い男共を勘違いさせるのも無理はない。私もある種勘違いしていた訳だけど。

「ちょっとお手洗いに」切りが良いので席を立った。魚介の踊る水槽を抜けて個室の一角に陣取り今後の作戦を考える。冷静に考えれば似たような人生を再度味わう羽目となり、面倒臭いという感情が希望に先行する。成るべく飽きの来ない道を辿るにはルメルの攻略に全身全霊を捧げるか、このまま店を脱け出して新鮮な路上生活を送るか、早めに自殺して地獄巡りに終止符を打つか。唸るだけで十五分が過ぎ、そろそろ戻らないと便秘を疑われると思い個室を出る。

「見つけた、がる」洗面所の前には芽河が立っていた。突貫工事の文脈に面を喰らいながら問い質す。

「私のことをご存じで?」

「さっき面と向かって話していただろうが」対面するのは私と同様に転移した芽河本人らしい。

「何故ここに?」

「この近くで湧いたんだよ。お前もそうだろ?」時空間移動の法則が等しいなら芽河も二年前はこの辺りに居たということか。飲みの情報はルメルから強引に尋ねたのだろうか。

「この世界がどうなっているか知っているの?」

「あ?よく分かんねぇな。アタシはルメルを捌ければ満足だ」日付や連絡先を確認するや否や出会いを求めて飛んできたと。右手に装備された刃物を見てやはり私の生まれ変わりではないかと思った。

「何故彼女を殺したの?」

「アタシを裏切ったから」今の芽河が指すのは前回のカフェの一件だろう。

「私を殺そうとは思わないの?」失恋に打ち拉がれるなら浮気相手を憎むのが自然だ。

「ルメルに命令されたから」彼女のポリシーでは命令は厳守するが約束を破る者は殺しても構わないらしい。ある意味で誠実な行動原理に共感せざるを得ない。

「何故私を探したの?」

「何となく匂いがしたから。あとはアタシを知っているかの確認」殺人鬼を演じながら不可思議な世界に一抹の不安はあるらしい。あぁそうだ、次回に向けて対策は講じよう。

「電話番号教えてよ。この狂った世界の数少ない仲間だから」提案すると芽河は「あっそう」と無関心ながら十一桁を伝え、電話帳は無益なので頭に入力した。さて宴も酣、今から殺るのかと訊けば芽河は黙って頷くので「私も見学させてよ」と後を付いた。嫌そうな顔で「邪魔するなよ」と了承を得たので二人でテーブルまで歩く。現場に到着するとルメルは不気味極まりない光景にアルコールの潮を吹いた。噎せ返る隙を突いて芽河が彼女を刺し、衝撃から私のグラスが四散し、これが本当のアレだなと混ざり合った液体を観賞する。三人目となる死体の製造には人道を捨てた私にも少しだけ罪の意識が宿った。

 男性陣の顔が一転して蒼褪める頃には、芽河は何処かに消えていた。眼を擦ってみるがやはり存在しない。案の定超常現象は殺人を切掛けに起こっており、衆目が今の女は何処だと騒ぎ立てることから、芽河に関する記憶まで消去される訳ではないようだ。二度とこの世界に戻ることは出来ないが、殺り逃げとは随分お得なプランだと説得された。

 だから私もそこら辺に居た翔子を殺した。勿論呼び込んだ訳だけどその程度の感覚にしか至らなかった。ゴクン、プハァ。

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