第2話
意識の混濁から目覚めた先は職場から近いエクセルシオールカフェの前だった。太陽が燦燦と降り注ぐ私の右手には昔から愛用しているバッグが青く光る。さっきまでの殺戮劇は健常者にとって貴重な幻覚なのか悪質な白昼夢なのか、記憶を壊しながらここまで逃げたのか。アドレナリンの分泌や疲労感は共に感じないので、神の気紛れで身体を持ち運ばれた気さえした。
鞄に入っていた新品のスマホを見ると日付は二〇二八年七月二十四日土曜日。通りで半袖にも関わらず暑い訳だという納得に先んじて、半年前にタイムスリップしている事実に唖然とする。あるいは今存在するのが正規の世界で、今までの世界は人生のネタ晴らしを告げる役回りに過ぎなかったのか。午後五時を過ぎた空の濁りと窓硝子に反射するクールビズを覗けば、恐らく仕事終わりにカフェに立ち寄ろうという文脈が読める。非現実感に飲まれたまま、取り敢えず足先の向く方へ進むこととした。
「
「どうした?そんな堅い顔をして」向かい合う彼女は私の唇に焦点を当てる。血液に装飾されていた人体が喋る様子に奇妙な居心地を覚える。
「ルメル、私との約束は覚えている?」カレンダー機能の不良を思って反応を試す。
「約束?今日のことなら勿論覚えているけど」逆に今日の予定を知らない私はどう振る舞うべきか苦しむ。これが本当に過去の世界だとしても景色にデジャヴは見出せない。
「付き合い始めて半年経つ記念に原宿デートしようって」言い始めたのは私だけど当初の彼女は快く了解してくれた。
「半年?今日が二日目でしょう。そんな先のことを考えても仕方ない」怪訝そうな表情を浮かべる彼女が世界観を補強する。昨日の出来事を忘れた私に愛想を尽かさないか不安だが、私の個人史では二人で残業を終えた後に私から告白をし、翌日は中野で昼から夕方までデートしていたはずだ。
「そうそう、あたし達付き合うことになったんだ」彼女が伝える先をよく見ると、眼瞼を丸く広げて傷んだ髪を四方八方散らかす女が正面右手に座っていた。私を視認すると呼吸を荒げ、飲んでいたドリンクを机に叩きつける。こんな女との出会いを忘れるはずがないので単なる過去の世界ではないようだ。
「コイツは
「アタシのルメルを良くも……」すると急に立ち上がった芽河が私の前に激しく乗り出る。眼球を突き出して威嚇する彼女を見習いテーブルの下で握り拳を準備しておく。
「おい止めろ……ごめんなさい響ちゃん。コイツ、気性が荒くてよく初対面の人に咬み付くのよ。響には手を出さないよう命令したから大丈夫だけど。あたしの命令には絶対に従うから」既に被害を受けている気はするが、肉食獣顔負けの眼光を向ける彼女はルメルに頭を撫でられて首を後退させる。その姿を羨ましく思いつつ、全く危険な人物だと評するが他人を責める立場にはないので寛大な心で見逃した。
「コイツと別れたのは大分前だけど『友達でも良いから側に居させろ』と言って煩いからこうして偶に会っている。響ちゃんに紹介するのは後で良いと思ったけど偶然出会わして」ルメルの首下に狂犬が這い寄る。彼女の周りには気違いの好む空気が漂うのかもしれない。
「芽河さんは私に対して嫉妬しないのですか」
「それは大丈夫。コイツは私以外を人間だと思っていないから」意思疎通する気の無い彼女の代わりにルメルが答え、確かに恋愛対象に他の生物を含める人は稀かと思い、それはそれで都合が良いと思った。
「こんな態度だけど根は良い奴だから」多分、と付け加えることから完全な相互理解は果たせていないようだけど、ルメルの言うことなら黙って聞こう。
「これから宜しくお願いします」動物にはそれ相応の礼儀を以て接することとする。この世界でどんな人間関係を築くのか、またルメルを殺す運命を辿るのかは未知数だけど。
「…………がる」芽河の犬歯から漏れる鳴き声は私達を祝福するものだと解釈した。その後は趣味や仕事の話題を交わし、二人の人生の大きな流れは変わりないことが分かった。ブレンドコーヒーを飲み終えるまで今後の計画を思案したが結論は出なかった。過去の純潔な彼女に手を掛ける動機は弱く、十九時過ぎには手放しに見送る。沸き立つ衝動は影を潜めた。
翌日、仕事も記憶も無い私は暇なのでルメルに電話を掛けた。朝に二回、昼に二回と掛けるが通じる気配は無く、近所に住んでいるらしい社内の別の先輩にも掛けてみた。
「八重露さん、昨日亡くなったらしい」ルメルの同期の口からは衝撃の情報が飛び込んできた。彼が共有してくれたニュースによると容疑者に名は「
暇が手中に返ってきたので、連絡先から誰かを探してランチにでも行こうと思った。数多く連絡先を交換する割にやり取りする相手が絞られる中で、
家を出て下北沢の駅を目指す。今回もそれなりの遠出になるが、明日の予定を考えていたらあっという間にインド料理屋の前に着いた。また私が先に着いてベンチで夏の香りを味わいながら時間を潰す。四十七分が経った頃、もう一度今日の予定を訊いてみた。
「忘れていたわ。スマン」翔子から既視感のある文言が私の手元に届いた。どうやら彼女は約束を放棄して別の友人とカラオケに行っていたらしい。
「粕阜も来る?」その安易過ぎる口調に彼女はこういう奴だったと再確認する。このように私が約束を破られた経験は一度や二度ではない。私の周りにはロクな奴が居ない。その度にあぁもういいやと絶望しながら浅い繋がりを維持してきた。正真正銘の孤独を何とか避けようと努めてきた。だけど一線は越えた私にはもう遠慮する余地が無い。
翔子を殺したい。誰でも良いけどまずは翔子だ。累積された負の感情が現下の殺意に寄与する。事前に準備していた凶器を片手に電車の中でノスタルジーに耽る。従順な子豚を装って翔子の居る隣駅へと向かい、ビッグエコーの給水所の前で殺した。裏切り者一号が無事に死んだ。
そしたらまたもスープが喉元に流し込まれる。味のしないスープが。
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